序.ペンテコステに

今日は、ペンテコステ(聖霊降臨日)の礼拝として守っております。ペンテコステの礼拝では、使徒言行録2章に書かれています、弟子たちに聖霊が降って、福音を語り始めた箇所が取り上げられることが多いのでありますが、この礼拝で用いている日曜学校のカリキュラムでは、先ほど朗読していただきました、ヨハネ福音書の「まことのぶどうの木」の話の箇所になっています。なぜ、ペンテコステにこの箇所なのかということにつて説明はありませんし、むしろ、次週に当てられている20章の箇所の方が相応しいのではないかとも思うのですけれども、ともかく今日はこの箇所が与えられていますので、このことに深い意味が込められているのではないかと考えつつ、ここからペンテコステのメッセージを聴き取りたいと思っています。
 
そういう目でこの箇所の周辺を読んでみますと、今日の箇所の中には、聖霊とか霊という言葉は登場しないのでありますが、すぐ前の1418節以下には、「聖霊を与える約束」という小見出しがついていますように、ここでは「弁護者」という言葉で、弟子たちに聖霊が与えられるという約束が主イエスによって語られています。また、この15章の26節以下にも「弁護者」という言葉が出てきますし、16章に入りますと、4節以下で、「聖霊の働き」という小見出しがついておりますように、弟子たちに与えられる聖霊の働きが語られているのであります。
 
そのような文脈の中で、今日のぶどうの木の比喩を読んで行きますと、聖霊という言葉は出ていないものの、ここには聖霊の豊かな働きのことが秘められていることが分かって来るのであります。そこで今日は、ぶどうの木の比喩に秘められた聖霊の働きを探りながら、神様が私たちのために備えて下さったペンテコステのメッセージを、皆様と共有したいし、弟子たちと共に私たちも聖霊の恵みに与かりたいと考えております。

1.まことのぶどうの木

まず、1節で主イエスは、「わたしはまことのぶどうの木、わたしの父は農夫である」と言っておられます。
 
「ぶどうの木」とか「ぶどう園」というのは、旧約聖書の中でよく用いられている比喩でありまして、それはイスラエルの民のことを表わしています。先ほど朗読していただいた詩編80編(旧p918)を見ていただきますと、9節に、「あなたはぶどうの木をエジプトから移し、多くの民を追い出して、これを植えられました。そのために場所を整え、根付かせ、この木は地に広がりました」とあります。これは、イスラエルの民がエジプトを出て、カナンの地に定着していったことを言っているのであります。しかし、この詩が歌われた頃は、そのイスラエルの民が捕囚の憂き目を見て、辛い状態にあったので、15節以下にあるように、「万軍の神よ、立ち帰ってください。天から目を注いで御覧ください。このぶどうの木を顧みてください、あなたが右の御手で植えられた株を、御自分のために強くされた子を」と神様の助けを訴えているのであります。
 
ところが、主イエスは、当時考えられていたように、イスラエルの民が「ぶどうの木」なのではなくて、「わたしはぶどうの木」であると言われたのであります。イスラエルの歴史を振り返るならば、イスラエルは神様から特別な恵みを受けて来たことは事実なのですが、彼らはその恵みを裏切るようなことばかりをして来ました。とても神様から喜ばれるような豊かな実を結んだとは言えない状態だったのであります。そこで神様は、そのようなイスラエルの民に、独り子イエス・キリストを遣わされました。それは、実を結ばないイスラエルの民に代えて、イエス・キリストを信じる人たちによって、新しいイスラエルを建て直すためでありました。主イエスはここで、ただ「わたしはぶどうの木である」と言われたのではなく、「わたしはまことのぶどうの木である」とおっしゃっています。実を結ばない「ぶどうの木」であるイスラエルの民に代えて、豊かな実を結ぶ「まことのぶどうの木」として、キリストの体である教会をこの世に植えられたということであります。その新しいぶどうの木を植えたのは誰かというと、ここで、「わたしの父は農夫である」と言っておられるように、父なる神様がぶどう園の園主であり、神様が土地を耕し、ぶどうの木を植え、水を遣って育てて下さる農夫なのであります。ということは、父なる神様が、イスラエルに代えて、キリストの体である教会を建て、養い育てて下さる、ということであります。
 
ペンテコステというのは、弟子たちの上に約束の聖霊が降って、福音を語り始めて、教会が誕生した、という出来事であります。そのことを主イエスは、あらかじめ、このぶどうの木の比喩で語っておられたのであります。ですから、私たちは、このぶどうの木の比喩から、教会とはどのようなものなのか、教会の頭であられるイエス・キリストと私たちの関係はどんなものであるのかを学ばねばなりません。

2.つながっている(とどまっている)

さて、今日の「まことのぶどうの木」の比喩の中には二つのキーワードがあります。一つは「つながっている」という言葉で、もう一つは「実を結ぶ」という言葉です。まず、「つながっている」ですが、ギリシャ語ではメノーと言います。この新共同訳では、今日の箇所に「つながる」という言葉は9回あるのですが、そのうち3回は別の言葉が使われているのを、意味をとって「つながる」と訳しているのですが、一方、メノーが使われているけれど、そこを「いつもある」(7)とか「とどまる」(9,10)と訳している箇所が4箇所あって、結局、原語でメノーという語が使われているのは10箇所あります。実は、メノーが使われているのはここだけではありませんで、このヨハネ福音書では合計40回も使われていて、この福音書が伝えようとしていることを表現する重要なキーワードなのであります。
 
では、そのメノーという言葉は、どういう意味内容を持っているのかということですが、今日の箇所の中でメノーが使われている主な箇所を拾い読みしますと、例えば、4節では、「わたしにつながっていなさい。わたしもあなたがたにつながっている。ぶどうの枝が、木につながっていなければ、自分では実を結ぶことができないように、あなたがたも、わたしにつながっていなければ、実を結ぶことができない」とあります。つまり、ぶどうの木であるイエス・キリストと枝である弟子たち・私たちの結びつきが、「つながる」という言葉で表現されているわけです。しかも、そのつながりは、単に物理的につながっているということではなくて、木と枝の比喩で示されていることは、枝が木から養分や水分をもらうように、生命的なつながりがあることを言おうとなさっているのであります。また、7節を見ていただくと、「あなたがたがわたしにつながっており、わたしの言葉があなたがたの内にいつもあるならば、望むものは何でも願いなさい。そうすればかなえられる」と言われていて、この「いつもある」という言葉もメノーなのですが、ここでは、主イエスの御言葉が主イエスと私たちを結びつけるということが述べられています。更に、9節では、「父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛してきた。わたしの愛にとどまりなさい」と言われていまして、この「とどまる」というのがメノーでして、ここでは愛の関係がメノーという言葉で表現されているのであります。このように、「つながる」とか「とどまる」と訳される「メノー」という言葉は、深い人格的な関係でつながっていることを表わしているのであります。
 
また、ヨハネ福音書の他の箇所でどのような使われ方がなされているのかということを見ますと、非常に大事な箇所で使われていることが分かります。例えば、656節ですが、「わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、いつもわたしの内におり、わたしもまたいつもその人の内にいる」と言われています。この「内にいる」と訳されている言葉が、メノーなのです。ここでは、正に聖餐式において示される十字架の贖いのことが言われています。ですから、メノーという言葉は、単に物理的・形式的なつながっているのではないのはもちろんのこと、人間同士の間の人格的なつながりにも止まらないで、主イエスの十字架の犠牲と御言葉によって、しっかりと結ばれた関係を表わす言葉だということが分かります。
 
更に、今日のテーマであります、聖霊の働きとの関係ではどうかということで、ヨハネ福音書を探しますと、やっぱりありました。まず132節を見ていただきますと、これは洗礼者ヨハネの証言ですが、「わたしは、“霊”が鳩のように天から降って、この方の上にとどまるのを見た」と言っています。この「とどまる」がメノーです。聖霊が主イエスの上にメノーしたのです。また、1416節を見ますと、主イエスはこう言っておられます。「わたしは父にお願いしよう。父は別の弁護者を遣わして、永遠にあなたがたと一緒にいるようにしてくださる」。この「一緒にいる」がメノーです。「弁護者」というのは冒頭で触れましたように聖霊のことです。ですから、聖霊が私たちにメノーして下さるということです。
 
このように見て来ますと、ぶどうの木であるイエス・キリストに弟子や私たちがつながっているということは、他ならぬ聖霊の働きであると言えるわけであります。私たちが頑張って、力を振り絞って、主イエスというぶどうの木につながっていないと関係が切れてしまうということではなくて、主イエスの十字架の御業と、御言葉の語りかけと、聖霊の働きによって、しっかりとつなぎとめられるということであります。ペンテコステに弟子たちが人々に福音を語り始め、教会が誕生したという出来事は、正に、イエス・キリストと弟子たちが聖霊の働きによって、しっかりと結ばれた出来事だったのであります。そして、そのことはまた、洗礼の際に私たちの上にも起こったし、今も起こっている出来事なのであります。

3.実を結ぶ

次に、もう一つのキーワードである「実を結ぶ」という言葉について見てみましょう。この言葉のギリシャ語はフェローと言いますが、意味としては「実を結ぶ」の他に、「運ぶ」とか「導く」と訳されることもあります。今日の箇所では7回使われていますが、全部「実を結ぶ」と訳されていて、ぶどうの木にぶどうの実が成ることを言っているわけですが、イエス・キリストと私たちの関係の中で、私たちという枝が実を結ぶとはどういうことを意味するかが重要であります。
 
今日の箇所の中で、「実を結ぶ」ということが何を意味するかについて明確な説明はされていませんが、最初に説明しましたように、「まことのぶどうの木」というのが、神様に背いたイスラエルの民というぶどうの木ではなくて、イエス・キリストによって建てられる新しい教会のことですから、「実を結ぶ」とは、<イエス・キリストの救いの御業によって罪を赦された者たちの群れ、即ち、教会が形成される>、ということを意味すると考えられます。言い換えれば、神様と人間との間の和解が、イエス・キリストによって実現する、ということが、実を結ぶことだと考えられます。
 
そのことを、今日の箇所の中で探しますと、8節がそれに当ります。こう言われています。「あなたがたが豊かに実を結び、わたしの弟子となるなら、それによって、わたしの父は栄光をお受けになる。」ここでは、「わたしの弟子になる」と言われていますが、これは言い換えれば、<主イエスの救いを信じて教会の群れに加わる>ということであります。そして、そのことが、神様の御栄光を現すことにつながると言われているのであります。つまり、創造の初めの時の、神様と人間との祝福された関係が回復されるということであります。
 
更に、910節を見ますと、こう言われています。「父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛してきた。わたしの愛にとどまりなさい。わたしが父の掟を守り、その愛にとどまっているように、あなたがたも、わたしの掟を守るなら、わたしの愛にとどまっていることになる。」――ここでは、「掟を守る」ということが、実を結ぶことにつながることだと受け止めることが出来ます。しかし、この場合の「掟」というのは、単に律法を形式的に守るということでないことは明らかであります。133435節で、主イエスはこう言っておられます。「あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも愛し合いなさい。互いに愛し合うならば、それによってあなたがたがわたしの弟子であることを、皆が知るようになる。」つまり、主イエス・キリストの十字架の愛、赦しの愛を、弟子たち同士の間、私たち人間同士の間でも実行することが、実を結ぶということになる、ということであります。これはなかなか厳しい要求であります。現実の私たちを振り返るならば、とても実行しているとは言えないことを思わざるを得ません。しかも、2節を見ますと、「わたしにつながっていながら、実を結ばない枝はみな、父が取り除かれる」と言っておられます。主イエスにつながっているつもりのクリスチャンでありながら、互いに愛し合うことが出来ないなら、農夫である父なる神様によって、そのような枝は剪定して取り除かれる、とおっしゃるのであります。この言葉を、襟を正して聞かなければなりません。しかし、主イエスが今日の箇所で強調しておられることは、イエス・キリストというぶどうの木にしっかりとつながっていれば、そこから養分をもらって、実を結ぶことが出来る、という恵みの約束であります。しかも、ぶどうの木にしっかりとつながっているということは、先ほど「つながる」というキーワードで見ましたように、私たちが頑張って力ずくでつながっているということではなくて、キリストの十字架の御業と、御言葉と、聖霊の働きによってつながるのですから、これほど確かなことはないわけであります。ですから、主イエスと聖霊が実を結ばせて下さるのであります。私たちはそのことを本気で信じればよいだけなのであります。
 
ついでに、「実を結ぶ」という言葉が聖霊との関係で使われている箇所を探してみますと、やっぱりありました。ペトロの手紙ニ120節以下(p437)です。ここは、預言の言葉について語っている箇所ですが、こう言っております。「何よりもまず心得てほしいのは、聖書の預言は何一つ、自分勝手に解釈すべきではないということです。なぜなら、預言は、決して人間の意志に基づいて語られたのではなく、人々が聖霊に導かれて神からの言葉を語ったものだからです。」ここの「聖霊に導かれて」というところに、フェローという言葉が使われていて、「聖霊に実を結ばれて」とも訳せるわけです。つまり、神の言葉である預言を語ったり解釈することが出来るのは、聖霊が実を結ばせるからだと言っているのです。

結.霊が語らせるままに

最後に、使徒言行録2章のペンテコステの出来事が書いてある箇所を見てみましょう。24節を御覧下さい。「すると、一同は聖霊に満たされ、“霊”が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした」と書かれています。ペンテコステに弟子たちが色々の国の言語で御言葉を語ることが出来るようになったのも、聖霊が降ったからでありました。聖霊が弟子たちに実を結ばせたのであります。
 
今日は、主イエスの語られたぶどうの木の比喩に含まれる、「つながる」という言葉と「実を結ぶ」という言葉の二つのキーワードについて学びました。これらは正にキーワードでありまして、主イエス・キリストにつながっていなければ、私たちは実を結ぶことがなく、取り除いて捨てられるしかないのであります。しかし、私たちのような者が、主イエス・キリストにつながって、実を結ぶために、主イエスの十字架の御業があり、御言葉の語りかけがあり、聖霊の働きがあることを学んだのであります。そして、私たちも弟子たちと同じように、聖霊が語らせるままに、主イエスのことを証しする者とされるのであります。これが、今日、ぶどうの木の比喩によって私たちが聴いた、ペンテコステのメッセージであります。
 
祈りましょう。

祈  り

父、子、聖霊なる神様!
 
農夫である父なる神様が、御子イエス・キリストをお遣わしになって、ぶどうの木として下さり、私たちをそれにつながる枝として下さって、命の絆で結び合わせて下さった上に、聖霊を送って下さることによって、私たちをもまた御言葉を語ることの出来る者にして下さる恵みを覚えることが出来まして、感謝いたします。
 
どうか、私たちを、生涯、ぶどうの木につながっている者とさせて下さい。どうか、絶えず聖霊を送り続けて下さい。どうか、この伝道所も、大きなぶどうの木の一枝として、あなたの救いの御計画の一端を担い続けることが出来ますように、聖霊においてお導き下さい。
 
主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

米子伝道所 主日礼拝説教<全原稿> 2012年5月27日  山本 清牧師 

 聖  書:ヨハネ15:1−10
 説教題:「イエスにつながる」
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