人々が、「では、お前の目はどのようにして開いたのか」と言うと、彼は答えた。「イエスという方が、土をこねてわたしの目に塗り、『シロアムに行って洗いなさい』と言われました。そこで、行って洗ったら、見えるようになったのです。」  (ヨハネによる福音書910,11 

 主イエスは生まれつき目の見えない人の目を開かれた。だが、それは単に肉体の目を開かれただけではなく、信仰の目を開かれた出来事であった。では、どのようにして、信仰の目は開かれるのか。
 まず、主イエスが、生まれつき目の見えない人を見かけられたことから始まる。主が救いに満ちた目で彼を御覧になったのである。だが、弟子たちは、「この人が生まれつき目が見えないのは、だれが罪を犯したからですか」と、因果応報の目でこの人を見た。ところが主イエスは、「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである」と、神の御業の対象として御覧になったのである。ここに、この人の開眼の決定的理由がある。
 続いて主イエスは、唾で土をこねてその人の目に塗って、「シロアムに行って洗いなさい」と言われると、その人は素直にその言葉に従った。すると彼の肉体の目は開かれた。だがまだ信仰の告白には至っていない。ところが、近所の人々が不思議がって、目の開いたのが本人かどうか疑っていると、彼は「わたしがそうなのです」と答え、更に、標記のような会話があって、彼ははっきりと、主イエスによって目が開かれたことを告白し始める。そして、ファリサイ派の人々の「お前はあの人をどう思うのか」との問いに、「あの方は預言者です」と答えるまでに成長する。更に、イエスに敵対するユダヤ人たちが執拗に問うと、「あなたがたもあの方の弟子になりたいのですか」と言う。そこには、彼が自分は主イエスの弟子であるとの認識に至っていることが読み取れる。そして遂に、主イエスが彼を探し出して再び出会って下さると、彼は「主よ、信じます」と告白するに至るのである。こうして、彼の信仰の目は完全に開かれた。
 私たちの信仰の目は曇り勝ちである。しかし、主イエスは罪深い私たちをも、忍耐深く見続け、探し出して下さり、この人の場合のように、主イエスに対して無理解な人たちとの対話を通して、主イエスがどのようなお方であるのかを告白するようになるまで導いて下さるのである。

米子伝道所 主日礼拝説教<要 旨> 2012年5月20日  山本 清牧師 

 聖  書:ヨハネ9:1−12
 説教題:「信仰の開眼」
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