序.どうして見えるように?

今日与えられております聖書の箇所には、生まれつき目が見えなかった人の目が、主イエスによって見えるようにされたという、有名な出来事が書かれています。けれども、聖書がこの出来事を通して告げようとしていることは、ただ、生まれつき目が見えなかった人が見えるようになったという、物理的・医学的に考えられないような不思議な業を主イエスがなさった、ということだけではありません。聖書が主イエスの癒しの業を記すときには、そこに身体的な癒しが行われると同時に、心の癒し・霊的な癒しが行われたことを記すのであります。今日の箇所も、ただ身体的に目が見えるようにされただけではなくて、心の目が開かれた・信仰の目が開かれたことを語ろうとしているのであります。そこで今日は、説教の題を「信仰の開眼」とさせていただきました。
 
ただし、その「信仰の開眼」のことは、今日与えられている1節から12節までの箇所では完結していなくて、9章の終わりまで続くのであります。以前にこのヨハネ福音書の連続講解説教をしておりました時には、9章を4回に分けて説教いたしました。ここにはそれだけ豊かな内容が含まれています。しかし、今日は、「信仰の開眼」ということに焦点を絞って、与えられた1節から12節までを中心にしながらも、9章の終わりまでも含めて、お話したいと思います。
 
ところで、生まれつき目の見えなかった人の信仰の開眼という出来事から聴くべきことは、私たちの信仰の開眼はどのようにして起こるのか、ということであります。10節で、目を開かれた人に対して人々が、「お前の目はどのようにして開いたのか」と問うています。また、15節を見ると、ファリサイ派の人々も、「どうして見えるようになったのかと尋ねた」とあります。更に、19節では、ユダヤ人たちが、元盲人の両親に対して、「どうして今は見えるのか」と問い質しています。これらは、身体的に生まれつき見えなかった目が見えるようになったことを疑って尋ねているのでありますが、私たちにとっては、信仰の目がどのようにして開かれるのかということに関心があります。私たちは皆、生まれつき心の目が見えない者であります。罪によって心の目・信仰の目が閉じられています。その心の目・信仰の目がどのようにして開かれるのか、ということが本日のテーマであります。ここにおられる方の大半は既に信仰を持っておられる方でありますから、心の目は開かれた方々の筈であります。しかし、私たちの信仰の目は、残念ながら、いつの間にか、まどろんでしまったり、閉じてしまうことがあります。ですから、絶えず、開いて頂かなくてはなりません。神様は私たちの眠りかけた信仰の目をどのようにして覚まして下さるのでしょうか。今日は、ここに記された出来事を通して、私たちの信仰の目を開いていただくことが出来れば幸いであります。

1.神の業が現れるため

さて、冒頭に、イエスは通りすがりに、生まれつき目の見えない人を見かけられた、とあります。この訳ですと、偶々通りすがりに目に留まったという感じに受け止められますが、口語訳では「イエスが道をとおっておられるとき、生まれつきの盲人を見られた」となっていて、この方が原文に素直だと思います。聖書で「主イエスが見られた」と記すときは、興味本位に見るとか、単に同情をもって見るということではなくて、救いに満ちた目で御覧になるということであります。この生まれつき目の見えない人は、まだ主イエスを見ていませんし、見られていることにも気づいていません。これからどんな出来事が展開するのか、この先、自分の人生がどうなるのか、何も見えていません。しかし、主イエスが御覧になったことで、今、この人の人生は大きく変わろうとしているのであります。この人の身体的な目が見えるようになることも、心の目・信仰の目の開眼も、まず、主イエスがこの人を、救いに満ちた眼で御覧になったことから始まるのであります。
 
主イエスと私たちの関係もこれと同じであります。主イエスの方がまず、私たちを御覧になるのであります。私たちが先に主イエスを見つけ出して、主イエスとの関係が始まるのでなくて、主イエスが私たちを見出して下さり、私たちと関わろうとして下さるのであります。私たちが今、この礼拝の席にあるのも、私たちが選択してこの時と場を持っているのではなくて、主イエスが御覧になった、即ち、主イエスが私たちを選び、導いて下さったからであります。
 
ところで、弟子たちも、この生まれつき目の見えない人を見ました。そして、その不幸な現実を見て、心を痛めたのでしょう。しかし、彼らがこの人を見て考えたのは、2節に書かれているようなことでした。弟子たちは主イエスに尋ねました。「ラビ、この人が生まれつき目が見えないのは、だれが罪を犯したからですか。本人ですか。それとも、両親ですか。」――この問いに表れているのは旧約の時代の伝統的な考え方で、人間の不幸は人間の罪に対する罰であるとする、因果応報の考え方です。このような考え方は、旧約の時代だけではありません。私たちの中にもそういう考え方があります。私たちも、不幸を背負った人や問題を抱えている人に接したときに、気の毒だと思いつつも、その原因を考えて、本人に落ち度があるとか、親に問題があるとか、育った環境が悪かったといった風に考えてしまいます。確かに、人の不幸は、本人や家庭や社会の中に積み重なった人間の罪の表れであるということも、謙虚に見つめる必要があるのかもしれません。新約聖書においても、パウロはローマの信徒への手紙の中で、「罪が支払う報酬は死です」(ローマ623)と明確に述べられています。人間は罪を犯したら、その報いを受けなければならないのであります。
 
しかし、主イエスは、弟子たちの問いに対して、こうお答えになりました。「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである。」――これは画期的な答えであります。弟子たちは「だれが罪を犯したからですか」と問いかけたのに対して、「だれの罪でもない」とお答えになったのであります。主イエスは、人間には何の罪もない、と考えておられるのではないでしょう。人間の罪を見落としておられるわけではありません。では、なぜ、主イエスは「誰の罪でもない」などと言い切ることがお出来になるのでしょうか。それは、主イエスは人間を、自分自身では罪の償いが出来ない者だと見ておられて、ご自分が救わねばならない者と見ておられるということであります。ご自分が代わって罪の責任を担うことによってしか救うことが出来ない者として見ておられるのです。
 
続けて、主は、「神の業がこの人に現れるためである」とおっしゃいます。主イエスは、この生まれつき目が見えない人を、神様の御業の対象として見ておられるということであります。主は私たち人間の存在意義を、神様の御業を現わすことにあるとみなして下さるのであります。たとえ私たちが、世間的に見て非常に不幸な状態にあったとしても、あまり役に立たない人間のように見えるとしても、主イエスは、私たちを神様の御業を現す、価値ある存在と見て下さるということであります。もとより、私たちは、人をそのように見ることは出来ませんし、人に向かって、主イエスが言われたように、「だれの罪でもありません」などと言うことは出来ません。まして、自分自身に対して、何の責任もないとか、自分には罪がないなどと言うことは出来ません。これは、十字架において全ての人の罪を担おうとしておられる主イエスにしか言えないお言葉であります。
 
このあと4節で、主イエスはこう言われます。「わたしたちは、わたしをお遣わしになった方の業を、まだ日のあるうちに行わねばならない。だれも働くことのできない夜が来る。わたしは、世にいる間、世の光である。」この言葉は私たちへの呼びかけのようにも聞こえますが、むしろ、主イエス御自身の決意の言葉であります。放っておけば、光が消えて闇が覆う夜、罪に満ちた死の世界がやって来るのであります。それに対して主は立ち向かおうとしておられるのであります。

2.行って洗ったら

主イエスはこのように言われてから、奇妙な行動をなさいました。地面に唾をし、唾で土をこねてその人の目にお塗りになったのであります。そして、生まれつき目が見えない人に、「シロアムの池に行って洗いなさい」と命じられます。するとどうでしょう、彼は行って洗い、目が見えるようになって、帰って来たのであります。
 
皆さんがこの男であったら、唾でこねた泥を目に塗ってもらったりするでしょうか。当時はまだ医学が発達しておらず、おまじないのようなことが頻繁に行われていた時代であったとは言え、こんなことで目が開けるなど、とても思えなかったでしょう。しかし、この男は、主イエスのなさるがままにしてもらって、お言葉に従ってシロアムの池に行って洗ったのであります。なぜこの男が主イエスに素直に従うことが出来たのか。それはおそらく、3節で言われた主の言葉を聞いていたからであると思われます。しかし、主の言われた「神の業が現れる」ということが、目が見えるようになることだとは理解出来なかったのではないかと思います。けれども、主イエスの言葉に、大きな力を感じとったに違いありません。主イエスのお言葉にひきずられるようにして、シロアムの池に行って、泥を洗い落とすと、目が見えるようになったのであります。これは目が開いたというだけではありません。弟子たちは目が見えないのは親か本人の誰かの罪のためであると考えていたわけですが、その目が見えるようになったということは、たとえそこに人間の罪が関わっていたとしても、それが乗り越えられたことを意味します。目が見えるようになったということは、罪の赦しが行われたということでもあります。主イエスが、「神の業がこの人に現れるため」と言われた「神の業」とは、単に肉体の目が開かれるということだけではなくて、もはやこの本人や親の罪が問題とされなくなったということ、即ち、罪が赦されるということこそ、「神の業」であったのであります。
 
しかし、この段階をもってこの人の信仰の目が開かれたと言うのは、まだ早いように思われます。なぜなら、7節の終わりでは、「彼は行って洗い、目が見えるようになって、帰って来た」と書いてありますが、そこには既に主イエスはおられなくて、主イエスとの会話や交わりは行われていません。主イエスによって一方的に目を開く御業は行われて、心の目も開き始めているのですが、彼の主イエスに対する信仰の告白はまだなされていません。このあと、冒頭で触れましたように、色々な人々から「どのようにして見えるようになったのか」と問われる中で、次第に、この人の心の目、主イエスに対する信仰の目が開かれて行くのであります。このあと、その次第を見て行きましょう。

3.「わたしがそうなのです」

まず、8節以下で、近所の人々や、彼が物乞いであったのを前に見ていた人々が、「これは、座って物乞いをしていた人ではないか」と不思議がります。中には、「その人だ」と言う者や、「いや違う。似ているだけだ」と言う者もいました。すると本人は、きっぱりと「わたしがそうなのです」と言いました。<私が間違いなく、以前目が見えなかった者であり、物乞いをしていた本人である>という意味です。この言葉は重要で、目が見えるようになったのは、主イエスによるのだ、ということを証ししていることになります。主イエスは当時、ユダヤの指導者たちからは敵視されていました。この人がそういう事情を知らなかった可能性が高いのですが、このあと、主イエスによって目を開かれたことを証し続けることによって、遂に、この人もユダヤ人の会堂から追放されることになったことが、34節に記されているのであります。もしこの人が、これ以上主イエスと関わることを避けて、ここで「わたしはそれでない」と言っていたら、これまでの盲人としての過去の自分を捨てて、全然別人として生きて行くことが出来たかもしれません。しかし、この人は、過去の自分を捨て去るのではなく、また主イエスとの関係を葬り去るのではなく、主イエスによってもたらされた新しい現実に従って生き始めるのであります。そのことを本人がどれほど自覚していたかどうかは別として、とにかく、主イエスによって救われた者として、主イエスと関わり続ける生き方を始めるのであります。そのことが、「わたしがそうなのです」という何でもない言葉によって、確立したのであります。こうして、主イエスに対する信仰の目の開眼が準備されているのであります。彼は自分の方から目が見えるようになることを望んで、主イエスに接近したのではありませんでした。主イエスが弟子たちの質問に答えるかたちで、この人の上に神の業が現されたのであります。そのようにして、主イエスと関わる新しい人生へと、いわば巻き込まれたのであります。
 
このあと、人々が、「では、お前の目はどのようにして開いたのか」と問いかけます。彼はイエスという人が土をこねて目に塗ったこと、そして「シロアムに行って洗いなさい」と言われるままにすると、見えるようになった次第を話しました。すると人々は、「その人はどこにいるのか」と尋ねます。しかし、彼は「知りません」と答えるしかありませんでした。シロアムに行くために分かれてから、どこに行かれたのか知りませんでした。それまでは、イエスという方ともう一度お会いしたいなどとは、あまり考えていなかったのかもしれません。しかし、近所の人々とやりとりしているうちに、主イエスの存在が彼の中でだんだんと大きくなって来たのではないでしょうか。ここにも、私たちの信仰の目が開かれるということはどういうことか、ということが示されています。パウロの場合のように、突然、主イエスの声が聞こえて、回心するケースもありますが、多くは、この場合のように、だんだんと救いの事実に目が開かれて行くのであります。この人の肉体の目はすぐに開かれました。しかし、心の目は徐々に開かれて行きます。そのように、私たちのための救いの出来事は既に起こっているのですが、私たちの気づきは、ゆっくりと起こるのであります。

4.神のもとから来られた

13節以下には、人々が盲人であった人をファリサイ派の人々のところへ連れて行って、事情を調べた次第が書かれています。ファリサイ派の人々の間では、主イエスが安息日に目を開いたということを律法違反だとして問題にする人がいる一方、罪のある人間がこんな奇跡を行える筈がないという人もいて、意見が分かれました。そこで、人々は盲人であった人に「いったいお前はあの人をどう思うのか」と問います。自分自身が主イエスをどう受け止めるか、いわば信仰告白を迫られたのであります。すると彼は、「あの方は預言者です」と言います。これは主イエスに対する一定の信頼を表しています。彼の信仰の目が開かれていく過程の中で、大きな前進であります。しかし、これは十分な信仰を告白したとは言えません。主イエスが弟子たちに「あなたがたはわたしを何者だと言うのか」と問われました時に、ペトロが「あなたはメシア、生ける神の子です」と答えて、主イエスはそれを喜ばれました。この盲人であった人は、まだそこまでの告白には至っておりません。
 
しかし、このあと24節以下で、ユダヤ人たちから、「あの者(主イエス)はお前の目をどうやって開けたのか」と追求された時に、彼は少々苛立ちながら、「もうお話したのに、聞いてくださいませんでした。なぜまた、聞こうとされるのですか。あなたがたもあの方の弟子になりたいのですか」と言います。これは皮肉交じりに言った言葉ですが、彼の重要な認識を示しています。彼はファリサイ派の人々やユダヤ人たちから攻撃を受ける中で、徐々に主イエスを弁護する立場になって行って、遂には、主イエスと切っても切れない永続的な関係を持つものにされたという認識に至ったのであります。そして、自分は主イエスの弟子になっていると自覚するところまで、信仰が成長していることが、この言葉から読み取れるのであります。
 
このあと28節以下では、ユダヤ人とこの男の言い合いが続きます。ユダヤ人たちは、自分たちはモーセの弟子だということを主張して、モーセの律法をきっちり守っているのに対して、イエスは安息日の掟を破っているではないかということを暗に非難するのですが、それに対して、この男は33節で、「あの方が神のもとから来られたのでなければ、何もおできにならなかったはずです」と明言します。ユダヤ人たちは、主イエスがなさった出来事を目の当たりにしながらも、主イエスを見る目が曇っていて、主イエスを正確に捉えることが出来ていないのに対して、盲人であった人の信仰の目ははっきりと主イエスを見ることが出来て、「神のもとから来られた」と告白するまでに、確実に信仰が成長しているのであります。ところが、当時、ユダヤ人たちは、22節にあるように、主イエスをメシアと告白する者は会堂から追放することを決めていましたので、この人がこのように告白したことで、遂に、彼は会堂から外に追い出されてしまったのであります。

5.「主よ、信じます」

35節以下の部分に進みます。この盲人であった人が会堂から追い出されたことをお聞きになった主イエスは、彼に出会われます。これは、偶々出会ったということではなくて、原文は「見つけ出す」という言葉です。主は会堂から追い出された彼を捜して、見つけ出されたのであります。そして、こう問いかけられました。「あなたは人の子を信じるか。」この原文では「あなた」が強調されています。他の人はともかく、あなたは、人の子としてこの世に来られた主イエスをメシアと信じるか」という、厳しい問いかけであります。しかし、この問いかけは彼の信仰を裁くというよりも、彼を正しい認識へと導くための問いかけであります。
 
彼は、開かれた目で主イエスを見るのは初めてであります。そこで、「主よ、その方はどんな人ですか。その方を信じたいのですが」と言います。すると主イエスは、「あなたは、もうその人を見ている。あなたと話しているのが、その人だ」言われました。彼はすぐに、「主よ、信じます」と言って、ひざまずきました。礼拝したということです。ユダヤ人の会堂から追放された彼は、主イエスを礼拝する者に変えられたのであります。こうして、彼の信仰の目が完全に開かれたのであります。

結.見えない者は見えるように

最後に39節の主イエスの言葉を聴きましょう。イエスは言われた。「わたしがこの世に来たのは、裁くためである。こうして、見えない者は見えるようになり、見える者は見えないようになる。」――これも大変厳しい言葉であります。このあとの40節以下にもあるように、ファリサイ派の人々は、律法もちゃんと守っていて、自分たちは神様のことがちゃんと見えていると思っていました。しかし、そのような人の目には主イエスが見えていなくて、人々から罪のために目が見えなくなっていると見られていた人が、主イエスを正しく見ることが出来るようにされたのであります。
 
私たちもまた、この生まれつき目が見えなかった人と同じように、信仰の目が開かれていなかった者たちであります。しかし、幸いなことに主イエスが出会って下さって、目を開いて下さいました。しかし、一旦開かれた目も、曇り勝ちであります。ファリサイ派の人たちと同じように、自分は「見えている」と思っている間に、主イエスが見えなくなってしまうのであります。しかし、主イエスは生まれつき目が見えなかった人を、誰かが罪を犯したからではなくて、神の業がこの人に現れるためだと見て下さるお方であります。主イエスは罪深い私たちをも、十字架の憐れみをもって忍耐深く見続けて下さいます。そして、この人の場合のように、主イエスに対して無理解な人たちとの対話を通して、主イエスがどのようなお方であるかを、しっかりと告白できるように導いて下さることによって、心の目・信仰の目をぱっちりと開き直させて下さり、主の前に喜んでひざまずく(礼拝する)者にして下さるのであります。
 
感謝して祈りましょう。

祈  り

救い主イエス・キリストの父なる神様!
 
今日も、まどろみがちな私たちに御言葉をもって出会って下さり、目覚めのための御業をなして下さいましたことを感謝いたします。
 
私たちは自分が見えていると自惚れ、他人を非難したり、目を開かせようなどといたしますが、どうか、自分自身の目が罪によって曇っていることに気付かせて下さい。そしてどうか、あなたの御言葉に素直に従って、信仰の目を開かれる者とならせて下さい。どうか、私たちのような罪深い者をも用いて、あなたの御業を現して下さい。
 
主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

米子伝道所 主日礼拝説教<全原稿> 2012年5月20日  山本 清牧師 

 聖  書:ヨハネ9:1−12
 説教題:「信仰の開眼」
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