「はっきり言っておく。人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない。」      (ヨハネによる福音書33 

 ユダヤの最高議会の議員で、ファリサイ派に属するニコデモという人が、ある夜、主イエスのもとに来て、「ラビ(先生)、わたしどもは、あなたが神のもとから来られた教師であることを知っています。神が共におられるのでなければ、あなたのなさるようなしるし(奇跡の業)を、だれも行うことはできないからです」と言った。ファリサイ派の人たちは主イエスの言動に批判的であったが、ニコデモは主イエスの働きを見て、素直に尊敬の念を抱いていたようである。それで、主から教えを受けて、より正しい生き方を目指して努力しようと考えたのであろう。
 しかし、主イエスはニコデモが来訪の目的を述べる前に、標記のように言われた。主は、彼が神の国に入ること(15,16節では「永遠の命を得る」、17節では「救われる」と言い換えられている)を願っているが、その求め方に問題があることを見抜かれたのだ。主は「新たに生まれなければ」と言われる。「新たに」とは「上から」を意味し、神からの働きかけを受け入れてこそ、神の国の支配のもとに入れるのであって、これまでの生き方の延長上に、いくら善いものを積み重ねても駄目だと言われたのである。そのことが理解できないニコデモに対して、「水と霊(洗礼による聖霊の働き)」とによって生まれなければ」と言われ、「風(=霊)」の動きによって自由な霊の働きについて語られた。それでも理解できないニコデモに、「わたしが地上のことを話しても信じないとすれば、天上のことを話したところで、どうして信じられよう」と言って、深く嘆かれたが、その後で、モーセが荒れ野で蛇を上げた故事を用いて、「人の子も上げられなければならない」と語られ、ご自身が十字架に上げられることによって、罪の贖いを実現することを宣言なさった。私たちも傲慢で、自分の生き方を変えようとしないが、主イエスを天からの王として礼拝し、そのご支配に身を委ねることによって、神の国に入れられ、永遠の命を得られ、救われるのである。ニコデモはその後、聖書に2回登場して、主イエスに好意的な言動を行うものの、主の復活後、弟子になったかどうかは記されていない。聖書はニコデモの結末を書かずに、私たちを主の前に立たせて、直接主イエスと対話することによって、御言葉に打ち砕かれて、主の前にひれ伏すことを願っているのである。

米子伝道所 主日礼拝説教<要 旨> 2012年5月13日  山本 清牧師 

 聖  書:ヨハネ3:1−15
 説教題:「新たに生まれなければ」
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