序.何を求めてイエスのもとへ?

今日与えられていますヨハネによる福音書31節以下の箇所には、ユダヤの最高議会の議員であるニコデモという人が、主イエスを訪れて対話したことが書かれています。しかし、ニコデモが何のために主イエスのところにやって来たのか、どういう目的で来たのか、ということについては、聖書は明確には書いておりません。何か教えを乞う目的で来たのだと思われますが、例えば、共観福音書に出ています金持ちの青年が主イエスの所に来た場合には、最初に「先生、永遠の命を得るには、どんな善いことをすればよいのでしょうか」という問いかけが書いてあるのですが、このニコデモの場合には、そんな問いかけがありません。ニコデモが来て言った最初の言葉は、2節にありますように、「ラビ、わたしどもは、あなたが神のもとから来られた教師であることを知っています。神が共におられるのでなければ、あなたのなさるようなしるしを、だれも行うことはできないからです」という、主イエスを持ち上げるような言葉を述べているだけで、それに対して主イエスはすぐに3節で、「はっきり言っておく。人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない」とおっしゃったのであります。ニコデモが「神の国」ということを一言も言っていないのですが、主イエスは、ニコデモがやって来た目的は「どうすれば神の国に入れるか」という問に答えてもらうためだ、ということを察知されたのでしょうか。今日の箇所のすぐ前の225節を見ますと、「イエスは、何が人間の心の中にあるかをよく知っておられたのである」という記述もありますように、ニコデモの心の中を見抜いておられたのでありましょう。それも、単に質問の中身を見抜いておられたというだけではなくて、23節から読みますと、「イエスは過越祭の間エルサレムにおられたが、そのなさったしるしを見て、多くの人がイエスの名を信じた。しかし、イエス御自身は彼らを信用されなかった」と書かれていますように、ニコデモについても、主イエスがエルサレムでなさった奇跡の業を見て感心しているのだけれども、本物の信仰を持つに至ったわけではないことまで見抜いておられたのであります。
 
ニコデモはファリサイ派に属する議員でありました。ファリサイ派というのは、律法を忠実に守ることによって、自分たちの正しさを誇っていた人たちで、主イエスの言動に批判的でありましたが、ニコデモは主イエスについて少し違った見方をしていたようであります。ニコデモはエルサレムでの主イエスの素晴らしい業を見て、素直に尊敬の念を抱いたのではないかと思われます。それに、恐らく、ニコデモは自分たちファリサイ派のあり方にも問題を感じていて、主イエスの教えを受ければ、より正しい生き方が出来るのではないか、という期待をもって、主イエスを訪れたのではないかと想像されます。ですから、彼は非常にまじめに、自分の生き方を考えていたのではないでしょうか。主イエスはそういう彼が求めていることを、「神に国」という言葉で表現されたのではないかと思います。しかし、主イエスは同時に、ニコデモの求め方に問題があることを見抜かれて、はっきりと、「人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない」とおっしゃったのであります。ニコデモの問題性は、彼が主イエスのもとに来たのは「夜」であったというところにも表れています。人目をはばかって、人に気づかれにくい夜にやって来たのであります。ファリサイ派という立場、最高議会の議員という立場の者が、若い主イエスを訪れたことが人に知られるのを避けたのだと考えられます。そこに、彼の優柔不断なところを見ることが出来ますし、主イエスをどのようなお方と受け止めていたかということも表れています。
 
ここで私たちが考えなければならないのは、主イエスが見抜いておられることは、ニコデモ一人の問題だけではないということであります。ニコデモはまじめに自分の生き方を考えています。これまでも人に十分に評価される生き方をして来ました。そのことは彼の地位を見れば分かります。しかし彼は、それだけでは満足せずに、更に神様に喜ばれる生き方について、主イエスから何らかの示唆を得て、それを目指して努力をしたいと考えているのであります。その姿は、私たちと重なるところがあるのではないでしょうか。私たちはニコデモのような立派な地位にあるわけではないかもしれませんが、それなりに人々から後ろ指を指されない生き方をして来たという自負があります。更に、こうして教会に来て、聖書の教えを学ぼうとしているのは、より良い生き方、それも神様に喜ばれる生き方をしたいと願っているからではないでしょうか。そうであれば、ニコデモの姿と重なっています。しかし、ニコデモがそうであるように、私たちにも優柔不断なところがあります。ニコデモは主イエスから何かを得ることが出来たら、それをこれまでの自分の上に積み重ねて、自分の力で向上しようと考えています。そこには、主イエスに自分の人生を預けるという姿勢を見ることは出来ません。そのこともまた、私たちの姿と重なるのではないでしょうか。
 
主イエスはニコデモに対して、「人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない」とおっしゃいました。今日は、この後のニコデモと主イエスの対話を通して、「新たに生まれる」とはどういうことかを学ぶとともに、新しい生き方へと変えられる者にされたいと思うのであります。

1.神の国/永遠の命/救い

ところで、ニコデモと主イエスの対話を見ていく前に、確認しておきたいことがあります。今、主イエスはニコデモが求めているものを、本人がはっきりと意識していたかどうかは別にして、「神の国」という言葉で表現されました。「神の国」とは「天国」とも言い換えられます。それは神様がご支配なさるところであります。それはユダヤ人が求め続けて来たものであります。マルコ福音書の115節によりますと、主イエスが宣教を開始されて初めに宣べ伝えられたことは、「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」ということでありました。主イエス・キリストの到来によって、神様のご支配は完成の時が近づいた、と宣言なさったのであります。主イエスが神の国を完成なさるのであります。
 
今日の箇所の最後の15節を見ますと、「それは、信じる者が皆、人の子によって永遠の命を得るためである」、と言われています。ここでは、目標が、「神の国」ではなくて、「永遠の命」と言い換えられています。今日の説教の冒頭で、金持ちの青年のことに触れましたが、彼が主イエスのところにやって来たのは、「永遠の命」を得るためでありました。今、週報の裏面に、久野牧先生の「キリスト教信仰Q&A」を連載しておりますが、その中に「永遠の命について」のシリーズがありまして、その中で、「神の国の一員とされるべく新たに与えられるものが、永遠の命なのです」と言われていて、また、「神の国に入ることと、永遠の命を与えられることは、同じことですか」という問いに対して、「そう考えてよい」と答えられています。
 
また、今日の箇所の後の16節以下も主イエスの言葉の続きで、有名な箇所ですが、その中にも、「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」とおっしゃっていますし、更に、17節では、「神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである」と言われていて、ここでは、「永遠の命」が「救われる」という言葉に言い換えられています。つまり、「神の国に入る」ということと、「永遠の命を得る」ということと、「救われる」ということは同じことだと言ってよいのであります。ですから、私たちは今日、ニコデモと主イエスとの対話を通して、どうすれば神の国に入ることが出来るのか、どうすれば永遠の命を得ることができるのか、どうすれば救われるのかという、大事な問いに対する主イエスの答えを聴こうとしている、ということであります。 

2.どうすれば永遠の命を?――食い違う対話

さて、主イエスは、その問いに対する答えとして、まず、「人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない」とおっしゃいました。「神の国」とは、先ほど申しましたように、<神の支配>のことですから、「神の国を見る」とは、<神のご支配を知る>とか<神の御支配の下に入る>ということであります。ですから、神の御支配の下に入るのは、現在までの生き方の延長ではだめだ、とおっしゃっているのであります。では、どうすれば入ることが出来るのか。それは「新たに生まれる」必要があると言われるのです。この「新たに」と訳されている言葉の元の意味は、「上から」ということであります。つまり、地上の私たちが努力するとか、心機一転するとかいうことではなくて、全く新たに、上からの、即ち神様からの働きかけによって生まれ変わるのでなければ、神の御支配の下に入ることが出来ない、とおっしゃっているのであります。ニコデモは主イエスからアドバイスをいただければ、新しい生き方に向かって展望が開け、それに向かって努力すれば、神の国に入れるのではないかと期待していたのでしょうが、それでは駄目だ、と言われてしまったのであります。
 
それで、ニコデモは言います。「年をとった者が、どうして生まれることができましょうか。もう一度母親の胎内に入って生まれることができるでしょうか」。大の大人が「母親の胎内に入る」ことなど不可能です。主イエスの言われることは、それほどに無理なことだと反論しているのであります。この年になって人生をやり直すことなど出来ない、と言っているのであります。これまでの人生や自分が築いてきた立場を全部ご破算にして、最初からやり直すというのは、現在の自分というものを否定するようなことで、自分にはとても出来ない、と言っているのであります。私たちも皆、これまでの人生を引きずっています。先祖伝来のものや、家族との大切な絆もあります。仕事や趣味の世界での大切なつながりもあるでしょう。それらを全部捨てて、新しく生まれ変わることなど、とても出来ないと思えます。しかし、主イエスがおっしゃるのは、これまでの歩みを少しずつ軌道修正すれば神の国に入れるとか、これから善い行いを積み重ねれば御心に適う人間になれるというのではなくて、新しく生まれ変わらなければ、神の国に入ることは出来ないし、永遠の命を得ることも、救われることもない、と宣告されているのであります。ということは、私たちには神の国に入る道はないということでしょうか。
 
ニコデモの反論に対して、主イエスはこう言われました。「はっきり言っておく。だれでも水と霊によって生まれなければ、神の国に入ることはできない。」この言葉は否定的な言い方になっていますが、逆に言うと、「だれでも水と霊によって生まれ変われば、神の国に入ることができる」ということであります。「水と霊」というのは、洗礼のことを指しています。洗礼では、水で清める儀式を行いますが、そのときに聖霊が働いて、古い人間が死んで、新しい人間に生まれ変わるのであります。これは、肉体的な人間の生まれ変わりではありませんし、今までの人生をもう一度一からやり直すということでも、必ずしもありません。聖霊によって生まれ変わる、ということです。
 
しかし、霊によって生まれ変わるということがどういうことを意味するのか、よく分かりません。そこで主イエスは続けて言われます。「肉から生まれたものは肉である。霊から生まれたものは霊である。」ここでは、「肉」と「霊」とが、全く対立するものとして語られています。「肉」というのは、やがて死んで滅びる肉体と、その肉体が生きている間に犯す罪に満ちた人生のことであります。一方、「霊」というのは、人間の中にある精神的なものとか高尚な部分という意味ではありません。「霊」とは、上から(神様から)与えられる新しい命、神様との関わりによって生きる人生のことであります。そして、ここで言われていることは、「肉」と「霊」とは別のもので、それらの間には、何の橋渡しもないということであります。ニコデモはこれまで、自分が積み上げてきた肉の命、即ち従来の人生の延長線上に、何かプラスすることによって、神の国に入ろうとしていたのですが、そのような方法では、その目的は達せられなくて、神様から送られる新しい命、霊の命をいただかなければ、神の国に入ることは出来ないのであります。
 
しかし、主イエスは、このようにおっしゃっただけでは、ニコデモには通じないと思われたのでしょう。更に7節以下で「霊」のことを「風」に譬えてお話になっています。「『あなたがたは新たに生まれなければならない』とあなたに言ったことに、驚いてはならない。風は思いのままに吹く。あなたはその音を聞いても、それがどこから来て、どこへ行くかを知らない。霊から生まれた者も皆そのとおりである。」「霊」という言葉と「風」という言葉は、ギリシャ語では同じ言葉であります。どちらも目には見えませんが、風が吹いて物が動かされると風が吹いていることが分かるように、霊が働いてそこに何か出来事が起こったり、人間が変えられると、そこに霊が働いていることが分かるのであります。そして霊は、風が自由に吹くように、何物にも妨げられることなく、人間の思いを超えて、自由に働くのであります。
 
このような主イエスの説明を聞いて、ニコデモはますます分からなくなったようで、「どうして、そんなことがありえましょうか」と言っております。彼は、これまでの知識や経験の範囲から踏み出ることが出来ないで、「霊」によって生まれ変わるということが理解出来ないのであります。主イエスはこのようなニコデモに対して、「あなたはイスラエルの教師でありながら、こんなことが分からないのか」と言っておられます。大変手厳しいお言葉であります。しかし、私たちは主イエスと一緒になって、ニコデモを馬鹿にするわけには参りません。私たちもまた、これまでの理解の仕方や、経験や、積み重ねて来た生き方をそう簡単には捨てきれない者であります。そして、まじめで聖書のことに詳しく前向きのニコデモでさえ、理解出来なかったことに、神の国に入ることの厳しさを覚えなければなりません。

3.新しく生まれるために――人の子も上げられなければ

 このように、「新しく生まれる」とか、「霊から生まれる」ということが理解出来ないニコデモに対して、主イエスはこの後、もはや対話ではなくて、独りで語り続けられます。1112節ではこう言っておられます。「はっきり言っておく。わたしたちは知っていることを語り、見たことを証ししているのに、あなたがたはわたしたちの証しを受け入れない。わたしが地上のことを話しても信じないとすれば、天上のことを話したところで、どうして信じるだろう。」ここで、「わたしたち」と複数形で語られているのは不思議ですが、これはヨハネ福音書が書かれた当時の教会において、懸命に福音の証しをしているのに人々に受け入れられないことの嘆きが反映しているのではないかと言われていますが、そのことの真偽は別として、主イエスの深い嘆きを読み取ることが出来ますし、また私たち自身の頑なさ、信じることに踏み切れない罪深い姿を思わされるのであります。
 
 そこで重要になって来るのが、13節から15節で主イエスが言っておられる言葉であります。「天から降って来た者、すなわち人の子のほかには、天に上った者はだれもいない。そして、モーセが荒れ野で蛇を上げたように、人の子も上げられなければならない。それは、信じる者が皆、人の子によって永遠の命を得るためである。」ここで「人の子」と言われているのは、主イエス御自身のことであります。結局、神様のところから来られた主イエスにしか、神様のこと、神の国のことは分からない、ということです。そして、「モーセが荒れ野で蛇を上げた」と言われているのは、先ほど旧約聖書の朗読で読まれた民数記21章に記されている出来事のことですが、イスラエルの民の中で罪を犯した者が、神から遣わされた蛇に噛まれて、多数の死者が出た時に、人々は悔い改めて、蛇を取り除いて下さいと祈ると、神様はモーセに、蛇を旗竿の先に掲げて、それを蛇に噛まれた者が見たら、命が助かる、と言われたのであります。主イエスはその蛇に御自分を重ねながら、「人の子も上げられねばならない」と言われて、十字架に上げられることによって人々が罪を贖われて救われることを言われたのであります。ニコデモのみならず、誰も自分で救いを勝ち取ることは出来ず、神の国に入ること、永遠の命に入ることは出来ないのであります。ただ、主イエス・キリストが十字架にお架かりになったことによって、私たちも新しく生まれ変わることの出来る道が開かれたのであります。

結.御言葉への聴従

ここまでニコデモと主イエスの対話が噛み合わなかったのは、ニコデモは主イエスを、自分を向上させてくれるラビ(先生)として一定の尊敬を抱いていて、この方から教えを戴くことによって、神の国に入ろうと考えていましたが、主イエスを天から降って来た神の子とは考えていなかったからであります。主イエスは単なる先生や人生の導き手ではありません。主イエス自身が神の国を治める王であります。その主イエスの御支配に服するということが、神の国に入ることであります。ですから、主イエスからいくら熱心に何物かを教えていただこうとしても、トンチンカンな会話しか出来ないのであります。神の子である主イエスの前にひれ伏して礼拝するのでなければ、神の国に入ったことにはならないのであります。
 
では、このニコデモはこの後どうなったのでしょうか。主イエスとの対話が噛み合わないまま、すごすごと立ち去るしかなかったのでしょうか。この後、ヨハネ福音書の中でニコデモは二回登場いたします。一回は、750節以下ですが、ファリサイ派の人たちが、<誰もイエスを信じる人なんかいない>と言っていた時に、ニコデモは、「われわれの律法によれば、まず本人から事情を聞き、何をしたかを確かめたうえでなければ、判決を下してはならないことになっているではないか」と、公平な立場での発言をしています。もう一回は、十字架に架けられた主イエスの遺体が取り降ろされた時に、弟子たちは皆逃げてしまっていましたが、ニコデモは香料を持って来て、遺体に添えて亜麻布に包んだということが1939節以下に書かれています。こうした行動から、主イエスに対して最後まで尊敬の念を抱いていたことが伺えるのでありますが、そこまでであって、主イエスの復活の後で、弟子になったという記述はありません。出来れば、ニコデモも復活の主イエスに出会って、新しく生まれ変わったという結末を聞きたいのでありますが、聖書は沈黙しております。それは、安易な結末を書くのが聖書の目的ではなくて、聖書は私たちを主イエスの前に立たせて、直接主イエスと対話をして、主イエスの御言葉によって打ち砕かれて、主イエスの前に跪く者となることを願っているからではないでしょうか。主は、15節で語っておられるように、今日も、信じる者が皆、人の子によって永遠の命を得ることを願って、私たちに語りかけて下さっているのであります。祈りましょう。

祈  り

救い主イエス・キリストの父なる神様!
 
自らの正しさを誇り、なお自分の力で良きものを得ようとする、傲慢で頑なな者であることを思い知らされ、あなたの赦しを乞う者であります。どうか、そのような思い上がりを打ち砕いて下さって、御前にぬかずく者とならせて下さい。どうか、主イエスによる救いの御業を素直に受け入れ、すべてを主に委ねる者とならせて下さい。どうか、私たちのような者をも、新たに生まれ変えさせ、永遠の命に生きることを許され、神の国に入ることが出来る者とならせて下さい。どうか、まだ信仰を告白するに至っていない方々が、一日も速く、水と霊によって新しい命に生まれ変わることが出来ますよう、お導き下さい。
 
主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

米子伝道所 主日礼拝説教<全原稿> 2012年5月13日  山本 清牧師 

 聖  書:ヨハネ3:1−15
 説教題:「新たに生まれなければ」
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