イエスは、この最初のしるしをガリラヤのカナで行って、その栄光を現された。それで、弟子たちはイエスを信じた。
                          (ヨハネによる福音書211

 カナの婚礼の席で、ぶどう酒が足りなくなって困ったことを母マリアが主イエスに告げると、「婦人よ、わたしとどんなかかわりがあるのです」と冷淡とも思える答えが返って来た。しかし、その後で、主はそこに置いてあった水がめの水をぶどう酒に変える奇跡(しるし)を行われた。
 主イエスは、病気で苦しんでいる人、生まれつきの盲人、死んでしまった人、空腹の五千人以上の人々など、大きな不幸や困った状況の中にある人々を奇跡によって救われた。それらに比べると、ぶどう酒が足りなくなるという事は小さな不幸に過ぎないと思われるが、主はなぜ、そのような「ちょっと困ったこと」のために奇跡を行われたのであろうか。
 だが、私たちは主の働きの範囲を勝手に限定してはならない。主は大きな不幸で苦しんでいる人ばかりでなく、小さな不幸で困っている人をも無視されることなく寄り添って、喜びの場に変えられる。私たちの日常生活の中で起こるちょっと困ったことも、放置すれば、死と永遠の裁きにつながりかねないからだ。マリアは困った状況の中で、それを主イエスの前に差し出した。そこに彼女の主に対する信頼を見ることが出来る。主は、「わたしの時はまだ来ていません」と言われ、マリアの願いを退けられたかに見えたが、マリアは召し使いたちに、「この人が何か言いつけたら、そのとおりにしてください」と言った。そこにマリアのしぶとい信仰を見ることが出来る。マリアは主の言葉の中に、主が最もよい答えを用意して下さるとの約束を聴き取っていたのだ。実は、この主イエスの言葉と、水をぶどう酒に変えた御業には、もっと大きな意味が込められていた。それは「わたしの時」、即ち、十字架と復活の時に、罪のゆえに死ぬほかない被造物である人間が、罪を赦されて新しい命をもつ者に造り変えられるという、最大の奇跡を指し示すしるしであったのだ。婚礼を喜びで満たして祝福された主は、来るべき再臨の時の祝宴に、私たちを招いて、罪に汚れた私たちを造り変えて祝福し、喜びで満たして下さるのである。主はそのような祝福の席へと私たちを招いておられる。

米子伝道所 主日礼拝説教<要 旨> 2012年5月6日  山本 清牧師 

 聖  書:ヨハネ2:1−11
 説教題:「天の祝宴の祝福者」
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