序.小さな不幸になぜ主イエスが?

今日与えられておりますヨハネによる福音書21節から11節までの出来事は、11節にも書かれているように、主イエスが行われた「最初のしるし」であります。それは、婚礼の席で、ぶどう酒がなくなって困っていたときに、水をぶどう酒に変える奇跡を行われたというものでありました。なぜ、このような奇跡をなさったのでしょうか。このあと、主イエスの宣教活動の中では、様々のしるし(奇跡)が行われます。それをこのヨハネ福音書で追っていきますと、役人の息子が死にかかっていたのを癒された奇跡、ベトザタの池で38年も病気で苦しんでいる人を癒された奇跡、五つのパンと2匹の魚で五千人の人々の空腹を満たした奇跡、生まれつきの盲人の目を開かれた奇跡、それに死んで墓に入れられていたラザロを甦えらされた奇跡などですが、それらは人間に襲いかかった大きな不幸、悲惨な出来事、困った状況の中で行われた奇跡でありますが、それらに比べると、ここで起こった、ぶどう酒がなくなるという状況は、命に関わるようなことではありませんし、取るに足りない小さな不幸だと言えるのではないでしょうか。ぶどう酒がなくなったところで誰かが死ぬわけではありませんし、婚礼の責任者が非難を受けるかも知れませんが、それで結婚が解消されるわけではありません。決して大事件ではありません。神様に祈ったり訴えたりするような問題ではありません。そういう、言わば取るに足りない小さな不幸の解決に、なぜ主イエスが関わられなければならなかったのか。確かに、水がぶどう酒に変わるということは、人間業では出来ない奇跡ですから、驚くべきことには違いありませんが、主イエスは手品師のように人を驚かすために来られたわけではないのですから、これが聖書に書き残す値打ちのあるようなこととは思えません。それなのに、なぜ、わざわざこのように最初のしるしとして、後生大事に聖書に書き残されているのでしょうか。今日は、この問いを持ちながら、与えられた箇所を見て行きたいと思います。

1.イエスも婚礼に招かれた

まず、12節にはこう書かれています。三日目に、ガリラヤのカナで婚礼があって、イエスの母がそこにいた。イエスも、その弟子たちも婚礼に招かれた。――主イエスの助けを必要としている人たちが大勢いた筈です。大きな不幸や悲惨な状況の中で喘いでいる無数の人たちがいた筈であります。主イエスの限られた地上のご生涯の中で、そうした飼い主のいない羊のような人たちに憐れみを届けたり、語り伝えなければならないことも沢山あった筈であります。それなのに、主イエスは今、婚礼の席に招かれて、そこに弟子たちと共に出かけておられるのであります。主イエスの母マリアも来ておられたということですから、恐らくご親戚の婚礼で、様子から察すると、母上が裏方の責任者であったようです。ですから、主イエスも親戚に対する義理から列席しないわけには行かなかったということなのでしょうか。
 
しかし、主イエスのお働きの範囲を私たちが勝手に限定して、こうした婚礼の席に出席なさるのはおかしいと決め込む方が間違っているのではないでしょうか。むしろ、主イエスの行動の中に隠されている重要なメッセージを聴き取らなければならないのではないでしょうか。確かに、主イエスのご生涯は、苦しんでいる人々や悲しんでいる人々寄り添われることの多いご生涯でした。しかし、主イエスはそうした場所だけではなく、喜びの席にも共におられるお方であることを、この記事から受け取る必要があります。婚礼というのは、その当事者や親族にとっては大きい出来事であったとしても、主イエスがなされなければならない大きな救いの御業からすれば、小さな出来事に過ぎないと言えるかもしれませんが、だからといって主イエスは、人々のそのような喜びをも、無視したり軽視されたりされない、ということであります。むしろそこに喜んで加わって下さって、喜びを共にして下さるだけでなく、喜びが欠けることのないように配慮して下さるのであります。
 
ですから、私たちは、困ったときや淋しい時に、主イエスが共にいて下さることをお願いするだけではなくて、喜びの時にこそ、お招きして一緒に喜んでいただけるようにしなくてはなりません。昨年の9月には、この伝道所で久しぶりに結婚式を行うことが出来ました。そして、主イエスが中心となって執り行って下さる結婚式を行うことが出来て、主イエスもお喜び下さったと思いますし、当人やご家族だけでなく、参列した皆が喜びに満たされる婚礼を行うことが出来たことは幸いでありました。

2.ぶどう酒がなくなる――ちょっと困ったこと

さて、喜ばしいカナの婚礼で、ちょっとした困ったことが起こりました。喜びを盛り上げる筈のぶどう酒が足りなくなったのであります。これは人間の命に関わるような大問題ではありません。世間を騒がせるような影響を持つ問題でもありません。まして、神様の救いに関わるような問題とは思えません。確かに困ったことですが、それほど深刻な問題ではないと考え勝ちであります。けれども、そんなちょっとした出来事が、こうして聖書に書き記されて、しかもこの困ったことをきっかけにして主イエスが最初のしるし(奇跡)を行われたということに心を向けなければなりません。――考えてみると、私たちの日常生活や教会生活には、様々な「ちょっと困ったこと」が起こります。そしてそれが私たちを悩まして、私たちは右往左往するのであります。ちょっと風を引いた、腰が痛い、必要なものがちょっと足りなかった、ちょっと言葉の行き違いがあった、約束がちゃんと果たせなかった、などということで、気が滅入ってしまったり、人間関係が悪くなったり、躓いたりするのであります。ですから、そうした「ちょっと困ったこと」も軽視することは出来ません。そこには、人間の過ちや罪がからんで来ます。従って、放っておけば、死と永遠の裁きにつながって来るのであります。大変困ったことになりかねません。
 カナの婚礼でちょっと困ったことが起こった時に、主イエスの母マリアは、主イエスにこう言いました。「ぶどう酒がなくなりました」。マリアが裏方の責任者であれば、せっかくの喜びの席を壊す、とても困ったことになったと言えるかもしれません。「ぶどう酒がなくなりました」という言葉は、単に困った状況を呟いただけではないでしょう。主イエスに特別な力の発揮を期待したのではないかもしれませんが、ともかく困った状況を主イエスの前に差し出したのであります。こんなことで主イエスを煩わしてはいけない、とは考えずに、主イエスなら何らかの解決をもたらせて下さるに違いないと、主イエスに委ねたのであります。ここに、主イエスに対するマリアの信頼を見ることができます。ある人は、ここに「祈り」があると言います。言葉の上では、事実を示しているだけで、何か願い事をしているわけではありません。しかし、困ったことを、ありのままに神様の前に置くことが祈ることなのであります。
 
私たちはどうでしょうか。自分の悩みを主イエスの前に持ち出しているでしょうか。<こんなことはイエス様を煩わすような問題ではない>、<こんなことはイエス様でも解決出来ない問題だ>などと決め付けることがないでしょうか。そうしてイエス様を私たちの日常生活から離れた遠くに追いやってしまってはいないでしょうか。サタンはそんな隙間に入り込んで来て、私たちを主イエスから引き離そうとするのであります。どんな小さな問題であっても、イエス様を煩わすのが恥ずかしいような問題であっても、イエス様の前に持ち出せない問題はないし、イエス様が関わって下さらない問題はありません。マリアと同じように、「ちょっと困ったこと」を素直に主イエスの前に持ち出すことが、「祈る」ということであり、私たちが現実の生活の中で信仰に生きるということなのであります。

3.「わたしの時」に向けて

母マリアの素直な信頼の言葉に対して、主イエスはこう言われました。「婦人よ、わたしとどんなかかわりがあるのです。わたしの時はまだ来ていません。」――これは非常に冷淡な言葉に聞こえます。
 
第一、「婦人よ」という呼びかけは、自分の母親に向かって言う言葉としては相応しくないように思えます。しかし、同じ呼びかけは、主イエスが十字架につけられた時、十字架のそばにおられたマリアに向かって、「婦人よ、御覧なさい。あなたの子です」と言って愛弟子のヨハネに母親を託された時にも用いられた言い方です。そこには母親を思う深い人間愛が秘められています。しかし、主イエスとマリアとの関係は、息子と母親の関係を超えているのであります。息子だからといって、甘えるわけにはいきません。続いて4節で、主イエスは「わたしとどんなかかわりがあるのです」とも言われました。耳を背けたくなるような言葉です。しかし、母親のマリであっても、主イエスに対して何事かを命じることが出来る立場にはありませんし、主イエスがマリアに対して負い目があるわけではありません。そういう意味では、人間の親子の関係を超えているのであります。
 
そうであれば、私たちと主イエスとの関係は尚更のことであります。主イエスは私たちに何の負い目も持っておられません。私たちが主イエスに助けてもらったり、利益をうけるのが当然と考えるのは間違っています。むしろ、私たちは主イエスに捨てられて当然の者たちであります。私たちの勝手な願いが聞き入れられないからといって、文句を言えるような立場にはありません。
 
主イエスは更に、「わたしの時はまだ来ていません」とおっしゃいました。「わたしの時」とは、神様によって定められた主イエスの時、すなわち十字架の時、そして十字架の死から復活されて栄光の座につかれる時を指します。今はまだ、その時に向けて備える時であります。今主イエスがなさることは、すべて十字架と復活による救いの御業につながっていなければならないのであります。主イエスと私たちの今の関係も、その救いの御業の時に結びつく関係でなければならないということであります。

4.主が言いつけたとおりに――しぶとい信仰

主イエスからこのような厳しいお言葉を聞いた母マリアは、がっかりして諦めて引き下がったでしょうか。そうではありませんでした。5節を見ると、母は召し使いたちに、「この人が何か言いつけたら、そのとおりにしてください」と言ったのです。マリアは冷たいと思える主イエスの言葉を聞いても、決してひるんだり失望したりしていません。彼女は自分の願いを押し付けることが出来ないことは分かりましたが、最も良い解決を与えて下さるに違いないという確信に導かれているのであります。主イエスのお言葉の中にある約束を聴き取っているのであります。ですから、召し使いたちに、主イエスの言葉に従うように言いつけているのであります。ここに、主イエスに対するマリアの堅い信頼(しぶとい信仰)を見ることが出来ます。
 
これがキリストを信じる者の姿勢であります。私たちは人生の中で、また教会生活の中で、様々な願いを持ちます。中にはどうしても叶えてほしい切実な願いもあります。何とかこの苦境から逃れさせていただきたい、という必死の願いを抱くことがあります。しかし、そのような場合でも、神様から帰って来る答えは「わたしとどんなかかわりがあるのです」という冷たい答えしか帰って来ないように思えることがあります。しかし、そのような時でも、「わたしの時はまだ来ていません」という主イエスの言葉を思い出さなければなりません。そして、そこに込められている深い約束を聴き取らなければなりません。主は、私たちの勝手な期待を越えた、最もよい答えを用意されていて、時が来れば、それを実現して下さることをしぶとく信頼して、その時に下される命令に応える備えをしなくてはならないのであります。

5.水がぶどう酒に――最初のしるし

そこには、清めに用いる水がめが6つ置いてありました。これは通常、外から来る客や家の人が足を洗うために使う水を入れておくものでした。最後の晩餐の時に、主イエスが弟子たちの足を洗われた際に用いられたのと同様のものです。二ないし三メトレテスとありますが、約100リットルの大きな水がめであります。
 
主イエスが、「水がめに水をいっぱい入れなさい」と言われると、召し使いたちは、言われるままに水を満たします。すると主イエスは「さあ、それをくんで宴会の世話役のところへ持って行きなさい」と命じられます。召し使いたちが運んでいくと、世話役の人はぶどう酒が運ばれて来たと思って、味見をします。すると驚いて、花婿に言います。「だれでも初めに良いぶどう酒を出し、酔いがまわったころに劣ったものを出すものですが、あなたは良いぶどう酒を今まで取って置かれました。」これは、世話役が何も知らずに何気なく言った言葉ですが、主イエスのなさった奇跡の素晴らしさを物語っています。
 
それにしても、マリアに対しては素っ気ないと思えるようなお言葉を言っておられながら、なぜ、すぐに求めに応じられたのでしょうか。おそらく主イエスは、初めからマリアの困っている様子を見て、水をぶどう酒に変えようと思われたのでしょう。しかしすぐにそのようなことをなさると、人々はその不思議さに驚くだけで、主イエスが自分たちに都合の良いことをしてくれる人だと思い違いしてはいけないので、先ずは厳しいお言葉を語られたのでありましょう。けれども、主イエスが水をぶどう酒に変えられたのは、マリアの求めに応えるためだけではありません。実はもっと大きな意味が込められていました。そのことを福音書は12節で、イエスは、この最初のしるしをガリラヤのカナで行って、その栄光を現された、と言っております。これは単純に読むと、主イエスが奇跡を行うことによって、ご自分がすごいことが出来る者であることを示された、というように理解されるのですが、マルチン・ルターは、現された栄光の中味を、「主イエスは被造物を変えることができる」と言い換えております。その意味は、「主イエスが罪と死に勝利なさることによって、私たち被造物を新たなものに変える」ということであります。つまり、水をぶどう酒に変えられたのは、単に人を驚かす奇跡を行われたのではなくて、やがて来る「わたしの時」即ち十字架と復活の時に、罪のゆえに死ぬほかない被造物である人間が、罪を赦されて新しい命をもつ者に造り変えられる、ということを表わすしるしだということであります。
 
11節の最後に、それで、弟子たちはイエスを信じた、と書かれています。これは、水がぶどう酒に変えられるという不思議な奇跡を見て驚いて、そのことを信じたという意味ではありません。彼らはここで起こされた出来事を通して、主イエスこそが罪と死に打ち勝たれて、自分たちをそれらの支配から解放して、新しい命へと甦らせて下さったお方であるということを信じたということであります。この時すぐにそのように信じることが出来たということではないでしょう。主イエスの十字架と復活の後に、この時のことを思い出して、改めて栄光の主イエスを信じたということでありましょう。

結.天の祝宴での祝福

主イエスは来るべき終わりの時のことを、しばしが天国における婚礼や祝宴に譬えて語られました。そのことと、この日の婚礼のことを重ね合わせると、主イエスはこの水をぶどう酒に変える奇跡をもって、来るべき天国における祝宴を指し示されたと受け止めることも許されるのではないかと思います。水をぶどう酒に変えて、この婚礼を喜びで満たし、祝福された主イエスは、また、来るべき再臨の時の祝宴に、私たちを招いて下さって、私たち罪に汚れた者たちを造り変えて、祝福して下さって、喜びで満たして下さるのではないでしょうか。私たちは今日、そのような祝福の席へと招かれているのであります。
 
感謝して祈りましょう。

祈  り

恵み深い父なる神様!
 
かつて主イエスがカナの地で行われたしるしの御業をもって、私たちを天国における祝宴にお招き下さいましたことを感謝いたします。
 
神様、この世における私たちの歩みには、大小の困ったことがつきまとっていて、私たちはそれらのことに翻弄され、悩まされております。しかし、それらのことの中で、こうして礼拝に招かれて、主イエスの御言葉を聴かされ、終わりの時の大いなる祝福のお約束を信じる者へと変えられて行きますことを重ねて感謝いたします。どうか、生涯、主イエス・キリストにあって、あなたを信じ続けることが出来ますように。そして、犯しました罪を赦されて、天国の喜びの宴席に連なる者とならせて下さい。
 
主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

米子伝道所 主日礼拝説教<全原稿> 2012年5月6日  山本 清牧師 

 聖  書:ヨハネ2:1−11
 説教題:「天の祝宴の祝福者」
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