さて、陸に上がってみると、炭火がおこしてあった。その上に魚がのせてあり、パンもあった。イエスが、「今とった魚を何匹か持って来なさい」と言われた。        (ヨハネによる福音書21910

 弟子たちは復活の主イエスに少なくとも二度で会っているにもかかわらず、すぐに宣教活動を始めるのではなく、出身地のガリラヤに戻って、元の漁師の生活に戻ろうとしたのはなぜか。ガリラヤに行ったのは、「そこでわたしに会うことになる」(マタイ2810)と聞いていたからであるが、漁を始めたのは、そこで何をしてよいのか分からず、取り敢えず生計を立てるためだったのか、或いは、以前のように主イエスと一緒の生活をしていないと、主が生きておられるということが信じられなくなって、将来に対する希望よりも不安が大きくなって、昔の慣れた仕事に戻った方が安心できると考えたのではないか、といった推測ができる。しかし、その夜は何もとれず、暗い夜のように、彼らの気持ちは晴れなかった。この弟子たちの姿は、復活の主の御言葉を聞きつつも、先が見えぬ不安の中で、慣れ親しんできた日常生活に戻るしかない私たちの姿を暗示している。
 だが、復活の主イエスは、そのような者たちを捨て置かれない。ガリラヤ湖の岸に立たれた主のお姿を弟子たちが見ても、最初、それが主だとは分からなかったが、主は彼らの不信仰を非難されず、「子たちよ、何か食べる物があるか」と愛情をもって呼びかけ、「舟の右側に網を打ちなさい。そうすればとれるはずだ」と指南される。弟子たちには、無駄ではないかとの思いがあったかもしれないが、網を打ってみると、大きな魚でいっぱいになった。そのとき、ヨハネはかつて彼らが弟子に召し出された時の体験が甦り、「主だ」と言うと、ペトロもそこにおられるのが主だと気付く。こうして復活の主に対する信仰と愛が甦り始めた。
 陸に上がると、標記のように、主は既に朝食の用意を整えておられる。しかし、主は「今とった魚を持って来なさい」と言って、弟子たちの働きと収穫物をも用いられる。そして、パンと魚をもって、最後の晩餐の時と同じように弟子たちに与えられることによって、主イエスの十字架の犠牲の上に、弟子たちの再出発が成り立つことを思い出させられた。私たちの人生の再出発も、私たちの反省や悔い改めによって始まるのではなく、 主イエスの十字架の犠牲の御業と、生ける主が日常生活の只中で行われる礼拝において、繰り返し私たちと出会って下さることによって起こるのである。主はそのとき、私たちの小さな奉仕や献げ物をも喜んで用いてくださる。   

米子伝道所 主日礼拝説教<要 旨> 2012年4月29日  山本 清牧師 

 聖  書:ヨハネ21:1−14
 説教題:「復活の主との出会い」
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