序.私たちを新しい生き方に向かわせるものは?

ヨハネによる福音書の20章以下には、復活された主イエスが弟子たちに現れられたことが記されています。20章の初めの箇所には、週の初めの朝、マグダラのマリアが主イエスの葬られた墓に行って、そこに主イエスのお体が見当たらず、悲しんでいると、復活の主が出会って下さったことが記されていました。20章の19節以下には、復活の日の夕方、弟子たちが家の戸に鍵をかけて集まっていると、そこに復活の主イエスが入って来られて、十字架の傷跡が残る手とわき腹をお見せになったことが書かれていて、その続きには、その場にいなかってトマスが主イエスの復活を疑っていると、一週間後に再び主イエスが現れて、トマスにも主の復活を信じられるようにされたことが書かれています。そこでヨハネ福音書は一旦終わったかのように、20章の最後には「本書の目的」が記されるのですが、21章では、再び復活の主イエスと弟子たちとの出会いのことが書かれているのであります。
 
聖書学者によると、21章は後から追加されたのだと考えられていますが、なぜ追加されたのか、そこに大切な意味が込められていると思われます。追加したのは、主イエスがエルサレムで弟子たちに現れただけでなく、ガリラヤでも会えるとおっしゃっていたことが実現したことを書き加える必要があったとか、ここに名前が挙げられているペトロやヨハネの初代教会での位置づけをはっきりさせるためだとか、色々なことが考えられますが、注目しなければならないのは、弟子たちが20章に書かれているように復活の主イエスに出会っていながら、直ちに宣教活動に邁進したわけでなくて、彼らの故郷であるガリラヤに帰って、元の漁師の生活に帰ろうとしていたことであります。彼らが「人間をとる漁師」として本格的に働き始めるまでには、まだまだ主イエスの方からの働きかけが必要でありました。どんな働きかけがあったのか、そのことを書き残す必要があるので、ここに付け加えられたのではないかと考えられるのであります。
 
彼らは復活の主イエスに出会うという、驚くべき体験をしていながら、なぜ再びガリラヤ湖で漁を始めたのでしょうか。なぜ、昔の生活の戻ろうとしたのでしょうか。それは、復活の主イエスに一度や二度出会っただけでは、その後の新しい生き方がすぐに分かるわけではない、ということを示しているのではないでしょうか。弟子たちは主イエスの十字架の傷跡を目の当たりにしたのであります。しかし、それだからと言って、何を始めたらよいか直ちに分からなかったとしても、責めることは出来ないのではないでしょうか。主の復活の出来事は、あまりにも大きな出来事であって、そのことを自分たちの生活にどう反映させたらよいかは、直ちに分かるようなことではありません。復活の主イエスに出会うということは、異常な体験をして、興奮状態に陥って、直ちにこれまでの生活を捨てて、神秘的な生活を始めるということに直結するというような、単純なことではありません。むしろ、自分のそれまでの生活を祈りのうちに冷静に見直し、更に主イエスからの丁寧な働きかけがあって、初めて主イエスと共に歩む新しい生活が日常の中で始まって行くのではないでしょうか。
 
ここに描かれている弟子たちと主イエスとの出会いは、古い生活の中で、復活の主イエスと出会うことによってどのようにして新しい生き方に変えられて行くのかを指し示しています。今日は、この箇所を通して、私たちの日常生活の中で、新しい生き方を生み出し、成り立たせるものは何かということを聴き取りたいと思うのであります。

1.イエスだとは分からなかった――不安な日常

さて、復活の主イエスに出会いながらも、再び漁に出て行った弟子たちの姿を、もう一度21章の初めから見て行きましょう。
 
この日、弟子たちはティベリアス湖畔、即ちガリラヤ湖畔に来ておりました。彼らは皆、ガリラヤ出身であります。そこは、かつて彼らが主イエスの弟子へと召し出された所であります。なぜ今、ガリラヤに戻って来たのか。それは、主イエスが十字架のお架かりになる前に、「わたしは復活した後、あなたがたより先にガリラヤへ行く」(マルコ1428)とおっしゃっていましたし、復活の朝には主イエスが女の弟子たちに、「兄弟たちにガリラヤへ行くように言いなさい。そこでわたしに会うことになる」(マタイ2810)と言われたことを聞いていたからでしょう。ですから、弟子たちはガリラヤで再び復活の主イエスに出会えるという期待を持っていたと考えられます。2節によると、7人の弟子たちが一緒にいましたが、そのうち少なくとも4人は元漁師でありました。そのうちのシモン・ペトロが、「わたしは漁に行く」と言うと、彼らは、「わたしたちも一緒に行こう」と言いました。こうして、主イエスの弟子となる前の昔の仕事を始めるのであります。彼らは復活の主イエスに少なくとも2回は出会っているのです。しかし、そこから弟子としての新しい生活を始めるのではなくて、昔の漁師の生活に戻ろうとしているのであります。なぜでしょうか。
 
色々な推測が出来ます。復活の主イエスに出会ったものの、次に何をすればよいかが分からなかったということが考えられます。マタイ福音書によれば、弟子たちは主イエスの宣教命令を聞きました。そしてガリラヤへ行けということも聞きました。しかし、そこで何を始めたらよいか、分からなかったのではないか、と考えられます。そういう中で、日々の生計を立てて行かなければならないので、昔の仕事で稼ごうとしたのではないかという推測が出来ます。一方、こんな推測も出来ます。復活の主イエスに出会ったものの、それは一時的でありました。以前のように、いつも主イエスと一緒にいるわけではない。そうなると主イエスの復活ということが事実だったのかどうか、幻に過ぎなかったのではないか、と思い始めて、今も生きておられるということが怪しくなって来たのではないか。主イエスのお言葉に従ってガリラヤに来たものの、日が経つにつれ喜びが薄れて、将来に対する希望よりも、不安が大きくなって来たのではないかという推測です。そうなると、昔の慣れた仕事に帰った方が、安心できると考えてもおかしくありません。4人のほかは元漁師ではなかったかもしれませんが、彼らも他に生きていく当てもなく、ペトロたちと一緒に漁の仕事を始めざるを得なかったのではないでしょうか。
 
このように、想像を交えて色々な推測が出来るのですが、いずれにしましても、何度か復活の主イエスに出会っただけでは、新しい生き方は始まらなかった、ということであります。では、かつての漁師としての日常を取り戻すことが出来たのかというと、そうでもありませんでした。彼らは舟に乗り込んで漁を始めましたが、その夜は何もとれなかったのであります。かつての仕事場として知り尽くしている筈のガリラヤ湖、――そこで漁師たちは、かつては安定した生活を営むことが出来ていたでしょう。今、何をしてよいか分からなくなって、漁をすることなら、手の内に入ると考えて、やり始めましたが、それもうまく行かなかったのであります。暗い夜は、彼らの気持ちを表しているかのようであります。
 
この弟子たちの姿は、また私たちの姿を暗示しているのではないでしょうか。私たちも、こうして教会に来て、目には見えませんが、御言葉を通して復活の主イエスに出会います。その時は何だか喜ばしい気持ちになるのですが、教会を出て日常の生活に戻ると、その喜びも醒めて、そこには様々な困難な現実や先が見えない不安が待ち構えています。慣れ親しんで来た日常生活、そこではある程度自分の力でコントロールしながら、安定したる生活が出来た筈なのですが、思い通りに行かないで暗礁に乗り上げることがある。何の収穫や楽しみも得られないで、将来に対する望みが見えて来ない。たとえ表面的には、何とか平静を装ってはいても、確かな拠り所はなく、心の奥の不安を消すことができない。教会で主イエスに出会ったことにどんな意味があったのだろうかとさえ思えて来る。それが弟子たちの姿から見えてくる私たちの真実の姿ではないでしょうか。
 
4節に進みますと、既に夜が明けたころ、イエスが岸に立っておられた。だが、弟子たちは、それがイエスだとは分からなかった、と書かれています。何をしてよいのか分からない弟子たち。やむを得ず昔の漁師の仕事を始めてみたものの、それもうまく行かず、暗闇の中で沈んでいた弟子たちのところに、世が明け始めると、主イエスが立っておられたのであります。しかし、心が暗さで覆われている弟子たちには、主イエスのお姿が分かりません。よく知っている筈の主イエスのお顔。しかも、「ガリラヤで会うことになる」という約束を与えられていながらも、そこにおられるのが主イエスだとは認識出来なかったのであります。復活の主イエスに二度も会っていながら、ガリラヤのかつての生活の場に戻って、それがうまく行かずに暗い心になっている中で、復活の主イエスを目の前にしても、そこにおられるのが主イエスだとは分からなかったのであります。
 
この弟子たちの姿がまた、私たちの姿を指し示しているのではないでしょうか。私たちも教会で何度か主イエスに出会っても、その出会いが私たちの日常生活と結びつかないのであります。不安が覆い、望みが見えない私たちの日常生活の中に、復活の主がお立ち下さっていても、そこに主イエスがおられることに気付かないのであります。
 
そのような閉塞状況が破られるのは、弟子たちの方からではなくて、私たちの側からでなくて、主イエスの方からであります。

2.「網を打ちなさい」――主の命による出直し

5節を見ると、イエスが、「子たちよ、何か食べる物があるか」と言われます。「子たちよ」という呼びかけは、指導的な立場にある人が、自分の生徒や子供たちに愛情を込めて語りかける場合の言い方だそうです。復活の主イエスに出会いながらも主イエスを信頼出来ずに元の仕事に帰えろうとした弟子たちですけれども、主イエスは彼らを非難するどころか、愛情を込めて呼びかけておられるのであります。
 
弟子たちは素っ気なく、「ありません」と答えます。<一晩中働いて何もとれなかった自分たちにそんなことを聞いてどうしようというのか>、という思いで答えたことでしょう。落胆している自分たちを逆なでするような問いかけだと思ったかもしれません。「あるわけないでしょ」と言いたかったと思います。しかし、主イエスの問いかけは、決して彼らの失敗をあばくためのものではありませんし、彼らの不信仰を問い詰めるための問いかけでもありません。主イエスはこの言葉をきっかけに、弟子たちとの新しい関係を作り直そうとしておられる、愛情を込めた問いかけなのであります。去年の秋の伝道礼拝ではサマリアの女の物語を聞きましたが、水を汲みに来たサマリアの女に主イエスの方から「水を飲ませてください」と話しかけられました。そこから主イエスと女の新しい関係が始まったのでありました。ここもそれと同じで、主イエスの方から求められるのであります。弟子たちは「ありません」と言って、自分たちの力ではどうすることも出来ない現状を認識するしかないのですが、そこから、主イエスと弟子たちの新しい関係が始まります。
 
主イエスは言われます。「舟の右側に網を打ちなさい。そうすればとれるはずだ。」――この言葉に弟子たちは、<自分たちが一晩中試みたのに何もとれなかったのに、今更やってみても無駄だ>という思いがあったかもしれません。しかし、主イエスの言葉に何かしら力を感じたのかもしれません。彼らはもう一度網を打ってみると、魚があまり多くて、もはや網を引き上げることができなかったのであります。
 
主イエスと私たちの関係も同様であります。失意の中にある私たち、閉塞状態の中にある私たち、神様との関係を自分たちの方から断ってしまうようなことをする私たち、――そのような私たちともう一度新しい関係を結び直そうとして、主イエスの方から私たちに呼びかけて下さり、何をすればよいのかを示して下さって、それに従う私たちに必要なものを備えて下さるのであります。

3.「主だ」――復活の主を知る

網を引き上げることができないほどの魚がとれた時、「イエスの愛しておられたあの弟子」、即ちヨハネが気付きます。かつて同じような体験をしたことを思い出します。かつて自分たちが弟子になった時にも、夜通し漁をして何もとれずに網を洗っていると、主イエスが「網を降ろし、漁をしなさい」と言われて、そのとおりにすると、網が破れそうになるほどの魚がとれたのでありました。自分たちの技術や経験では無意味だと思えることが、主イエスによって意味のあることになった、その体験が甦って、目の前におられるのが、他でもない主イエスであることに気付いたのであります。ヨハネが「主だ」と言うと、シモン・ペトロはそれを聞いて、裸同然だったので、上着をまとって湖に飛び込んだのであります。ペトロもかつての出来事を思い出して、主イエスだと気付いて、裸では失礼だと考えたのか、上着をまとうのですが、そのまま水の中に飛び込むという愚かなことをしていて、ここにペトロのあわてぶりが示されているのですが、同時にそこに、復活の主イエスに対する信仰と愛が甦っており、新しい生き方が始まっていることが示されているのであります。弟子たちには、十字架の主イエスを裏切ってしまった負い目があります。ですから、復活なさった主イエスが出会って下さっても、どうしてよいのか、自分に何が出来るのか、分からなかったと思います。しかし今、自分たちが弟子になった時の原点となった大量の魚を引き上げた出来事を再体験することによって、主イエスがもう一度弟子としてやりなおす道を開いて下さったことが少しずつ見えて来たのではないでしょうか。十字架の主は不甲斐なかった自分たちをお捨てにならずに、もう一度出直しさせて下さる、もう一度人間をとる漁師としての道を歩み直させて下さる、ということが分かり始めたのであります。そして、主イエスに向かって、湖に飛び込むのであります。これが、回心の始まりであり、弟子としての再出発の始まりでありました。

4.喜びの食卓

復活の主イエスの恵みはそれだけではありませんでした。9節以下を御覧下さい。陸に上がってみると、炭火がおこしてあった。その上に魚がのせてあり、パンもあった。イエスが、「今とった魚を何匹か持って来なさい」と言われた。910節)
 
最初、主イエスが「何か食べ物があるか」と問いかけられたのに、既に魚が焼かれており、パンまで用意されていたのであります。弟子たちが食べ物を用意しなければ食事が出来ないわけではなかったのであります。しかし、主イエスは弟子たちの働きと、彼らの収穫物も用いられるのであります。そして、12節にあるように、「さあ、来て、朝の食事をしなさい」と言われました。主が備えて下さった喜びの食卓に弟子たちをお招きになります。
 
主イエスの宣教の御業も、弟子たちや私たちが必要なものを用意しなければ進まないのではありません。主イエスは既に必要なものを備えておられます。しかしなお、私たちにも、収穫の喜びを一緒に味合わせ、献げる喜びに参加させるために、私たちの働きを用いられ、その収穫物を喜んで受け入れられるのであります。伝道所開設20周年の歩みは、私たちの働きや献げ物がなければ、始まりの進みもしなかったのではありません。既に主が必要なものを備えて下さっていたのであります。しかし、主は、私たちの働きや献げ物をもお求めになります。それらがなければ伝道所が成り立たないかのように、用いて下さいます。そのことによって私たちは、自分たちの働きを過大評価してはなりません。自分の働きがなかったら、今の伝道所がなかったかのように思い過ぎてはならないでしょう。私たちは、自分たちのような罪深い者の働きや献げ物をも用いて下さったことを喜び、感謝すべきであります。そして、主のご用意下さった食卓に招かれていることを喜ばなければなりません。
 
13節を見ると、イエスは来て、パンを取って弟子たちに与えられた。魚も同じようにされた、とあります。パンを取って裂くという仕草は、主イエスが最後の晩餐で行われたことの再現であります。それは、十字架の上で御自分の体が裂かれることを表すものでありました。そのことを今繰り返されることによって、弟子たちの再出発が、主イエスの十字架の犠牲の上に成り立っていることを思い出させられました。魚は主イエスが流された血を表すぶどう酒の代わりに用いられたのでしょう。これらの仕草は、後に聖餐式として教会に定着することになります。
 
私たちの人生の再出発も、私たちがこれまでの生き方を反省したり、世の中のために貢献する生き方に変えればすむということではありません。私たちと主イエスとの関係、私たちと神様との関係が新たにされなければなりません。その新しい関係は私たちが悔い改めるとか、熱心な信仰生活をするということだけで生れるものではありません。私たちの罪の贖いのために、主イエス御自身の体が裂かれ、血が流されるという十字架の犠牲があったからこそ、そこに新しい関係が生まれたのであります。そのような関係が主によってつくり上げられたことを思い起こすのが聖餐式であります。しかし主は、私たちの献げ物が不要だとか役に立たないとはおっしゃいません。弟子たちのとった魚をも「持って来なさい」とおっしゃって食卓に上らされたように、私たちの奉仕、私たちの献げ物をも喜んで用いて下さるということであります。私たちは感謝して自分自身と私たちに与えられたものを献げたいと思います。そこに新しい喜びに満ちた、そして平安で希望にあふれた生き方が始まります。

結.日常生活における復活の主との出会い

今日の箇所を振り返って、ここでの復活の主イエスと弟子たちの出会いの特色は、弟子たちが何をしたらよいのか、どう生きたらよいのかが分からない中で、かつての日常の生活に戻ろうとしていた中での出会いであったということでありました。不安で先が見通せない弟子たちを新しい歩みへと導き出して下さったのは主イエスでありました。主イエスが彼らのところに来て、ご自身を現して下さったからこそ、新しい生き方へと歩み出すことが出来たのであります。
 
このように、主イエスは、私たちの、不安で先が見通せない日常の中入って来て私たちに出会って下さるということであります。主イエスは私たちから遠く離れた高い場所から私たちに従って来るように命じられているのではありません。私たちの罪にまみれた、醜い日常生活の中に入って来て出会って下さるということであります。教会の礼拝は、そういう私たちの日常生活の中で起きる、復活の主イエスとの出会いの場であります。ここで、御言葉において復活の主に出会って、罪の赦しをいただいて、新しい命に甦らされるのであります。しかもそれは1回や2回の出会いでは済まないで、日常生活の中で何度も繰り返される必要があるのです。そうすることで、主と共なる新しい生き方が定着して行くのであります。
 
祈りましょう。

祈  り

御子イエス・キリストを十字架に架け、復活させられて、私たちを罪の縄目から解き放って下さった、父なる神様!御名を賛美致します。
 
あなたは今日も私たちを日常の中から引き出して、復活の主イエスと出会わせて下さってありがとうございます。
 
どうか、この恵みを受けて、私たちの日常生活が平安と喜びに満ちたものとされますように。どうか、御心にかなった歩みをすることが出来、あなたの救いの御業の中で、少しでも用いられることが出来るようにさせて下さい。
 
主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

米子伝道所 主日礼拝説教<全原稿> 2012年4月29日  山本 清牧師 

 聖  書:ヨハネ21:1−14
 説教題:「復活の主との出会い」
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