イエスは言われた。「婦人よ、なぜ泣いているのか。だれを捜しているのか。」マリアは、園丁だと思って言った。「あなたがあの方を運び去ったのでしたら、どこに置いたのか教えてください。わたしが、あの方を引き取ります。」        (ヨハネによる福音書2015 

 主イエスが復活された日の朝、マグダラのマリアは主の体が納められた墓に出かけたが、入口の石は取りのけられ、墓は空であった。主イエスの十字架の死を目の当たりにして、せめて主の体だけでも丁寧に扱いたいと思って来たのに、それも叶わず、ただ立ち尽くして泣くしかなかった。死は完全に彼女を支配したかに見えた。
 
ところが、そこに二人の天使が現れ、「婦人よ、なぜ泣いているのか」と、泣いているマリアの姿勢に疑問を投げかける。だが、マリアは「わたしの主が取り去られました」と答えている。彼女は、主の体を見失っただけでなく、主が神の子であることを見失っているのである。
 そのあと、人の気配を感じて後ろを振り向くと、そこに主イエスが立っておられたのだが、主を見失っている彼女には、それが主と気付かない。そこで主は、標記のように、天使と同じ言葉でマリアに問いかけられる。だが、彼女は園丁だと思って、「どこに置いたのか教えてください」との問いを繰り返し、「わたしが、あの方を引き取ります」と言う。彼女は、主イエスを自分の許で管理することが、主に対する愛を示す方向だと思っている。そこで主は、マリアが求めているのとは180度反対方向の命の世界から、「マリア」と呼びかけられた。彼女は、振り向いて「ラボニ(先生)」と答える。彼女はここで、体の向きを変えただけでなく、心の向きを変えられたのである。だが、まだ古い思いから離れられず、思わずすがりつこうとするマリアを主は拒否されて、新しい御自分を差し出された。そして主は、兄弟たちのところへ行って、主が甦られたこと、そして、父なる神のところへ上られることを告げるように命じられる。
 こうしてマリアは、「わたしは主を見ました」と言って、復活の主を証しする者となった。彼女は、人間同士の愛の関係を超えた新しい関係をもって、主と出会うことが出来たのである。私たちもまた、礼拝において、復活の主と新しく出会い、主を証しするものとされるのである。

米子伝道所 主日礼拝説教<要 旨> 2012年4月15日  山本 清牧師 

 聖  書:ヨハネ20:11−18
 説教題:「なぜ泣いているのか」
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