序. 誰と出会っているのか

先週の復活節礼拝では、ヨハネによる福音書20章の1節から10節までの箇所からイースターのメッセージを聴きました。そこに書かれていた出来事は、週の初めの日の朝早く、マグダラのマリアが主イエスのご遺体を納めた墓に行ってみると、入り口の石が取りのけてあり、既に主のご遺体がなかったので、直ちに弟子のペトロとヨハネに知らせると、彼らがやってきて、ご遺体がないことと、そこにはご遺体を包んであった亜麻布と頭覆いが置いてあるのを発見した、ということでありました。そこではまだ、復活の主イエスとの出会いは起こっておりませんでした。彼らはまだ何が起こったのかを理解しないまま、ペトロとヨハネは家に帰ってしまうのでありますが、今日の11節以下では、墓に残って泣いていたマリアが復活の主イエスに出会ったことが書かれているのであります。
 
しかし、そのマリアも、初めは何が起こったのかを理解しておりませんでした。先週の箇所の2節に、マリアが男の弟子たちに伝えた言葉が書かれていますが、「主が墓から取り去られました。どこに置かれているのか、わたしたちには分かりません」と言っております。主のご遺体は誰かに取り去られたと理解しているのであります。同様の言葉は、今日の箇所でも繰り返されています。13節で天使に向かって言った言葉の中でも、「わたしの主が取り去られました。どこに置かれているのか、わたしには分かりません」と言っておりますし、15節では、そこに主イエスがおられるのに、園丁だと思って、「あなたがあの方を運び去ったのでしたら、どこに置いたのか教えてください」と言っております。彼女は完全に主イエスを見失ってしまっています。これは単に、主イエスのお体を見失ったということではありません。主イエスの御人格を見失ったのであります。主イエスとは誰なのか、ということが分からなくなったのであります。主イエスが十字架に架けられ、殺されたことによって、彼女や弟子たちにとって、主イエスが何者であったのか、自分たちにとってどのようなお方なのか、ということが分からなくなったのであります。だから、主が誰かによって取り去られたとしか考えられないのです。福音書の記者は、このようなマリアや弟子たちの姿を描くことによって、私たちにも問いかけています。<あなたがたにとって、主イエスはどのようなお方なのですか。十字架に架けられて死んだイエスという人物は、今、あなたとどのような関係にありますか>、と問われているのであります。マリアは復活の主イエスに出会いました。私たちは聖書を通して、復活の主イエスに出会います。そのとき、私たちが問われるのは、今、誰と出会っているのか、ということであります。――今日は、この問いを念頭に置きつつ、マグダラのマリアと復活の主イエスの出会いの出来事を聴くことを通して、私たちも復活の主イエスにお会いできる幸いを与えられたいと願っております。

1.泣いていたマリア

まず、墓の外に立って泣いていたマリアのことを考えてみたいと思います。マグダラのマリアは、他の福音書によれば、以前に七つの悪霊を追い出していただいた婦人であると紹介されています。主イエスに対して大きな恩義を感じ、深く敬愛していたのでありましょう。ですから、主イエスの十字架の場所にも来ていて、ご遺体を墓に納めるのにも立会いました。彼女がこの朝早く墓にやって来たのは、金曜日には安息日が迫っていて、主イエスのご遺体に香油を塗って埋葬する余裕がなかったので、改めて丁寧に香油を塗って、お世話になった主イエスに対する感謝の気持ちを表したいと思ったからでありましょう。しかしながら、そのご遺体すら奪われてしまったことで、ひどく動揺していたのでありましょう。男の弟子たちは家に帰ってしまいましたが、彼女は墓を離れられず、そこに立ち尽くして泣いていたのであります。
 
墓は死が支配する場所であります。その死の世界に行ってしまった者を、如何に愛していても、人間はどうすることも出来ません。香油を塗って丁寧に埋葬するくらいのことしかできません。あとは、亡くなった愛する人のことの思い出に生きるしかないのであります。マリアも今、そのような現実に身を置きながら、死の支配に屈しようとしていました。七つの悪霊を追い出す力を持ち、死んだラザロを甦らせた主イエスであっても、御自分の死を克服できなかった十字架の死を目の当たりにして、為すすべもなく、せめてご遺体だけでも丁寧に扱いたいと思って来たのに、それも叶わず、ただ涙に暮れるしかないマリアでありました。死は完全に彼女を支配したかに見えました。
 

2.「なぜ泣いているのか」/「主が取り去られました」

ところが、泣きながら身をかがめて墓の中を見ると、イエスの遺体を置いてあった所に、白い衣を着た二人の天使が見えた、のであります。マルコ福音書とルカ福音書では「天使」とは書かれておらず、「白い長い衣を着た若者」とか、「輝く衣を着た二人の人」というように書いておりますが、その時は天使とは思えなかったのかもしれません。そして、天使たちはこう言いました。「婦人よ、なぜ泣いているのか」。この天使たちの問いは、もちろん、マリアが泣いている理由が分からないということではなくて、泣いているマリアの姿勢に疑問を投げかけているのであります。マリアが陥っている状態、死に支配されている状態に対して、疑問符をつけているのであります。マリアの前から主イエスの遺体が消えたことで、マリアが主イエスご自身を見失ってしまったことに対して問題提起をしているのであります。
 
しかし、この問題提起に対して、マリアは2節と同じように、こう答えます。「わたしの主が取り去られました。どこに置かれているのか、わたしには分かりません。」――この言葉の表面的な意味は、<主イエスの遺体が誰かに取り去られて、どこに持って行かれたのか分からない>、という意味ですが、もう一つの深い意味は、<主イエスが十字架において死なれて、自分たちのところから奪い去られて、主イエスが何者であるか、自分たちにとって誰であるのかが分からなくなってしまった>ということが隠されています。彼女は主イエスの本質、主イエスが神の子であることを見失ったのであります。
 
「なぜ泣いているのか」という天使の問いかけは、私たちに対する問いかけでもあります。私たちもマリアと同じように、弱い立場の人、人々から阻害されている人の重荷を背負って下さる主イエス、私たちの体や心の患いを癒してくださる主イエスが好きです。そのような主イエスが私たちの手が届かない遠い死の世界に行ってしまわれることを受け入れることが出来ません。お優しい主イエスがいつも一緒にいてほしいのであります。主イエスが私たちの罪のために命をお捨てにならなければならない、ということを受け入れることができません。それは、私たちの罪が主イエスの死をもって贖っていただかなければならないほどであることに気付いていないか、その罪の現実を受け入れたくないからであります。もっとも、私たちには主の死を泣かなければならない理由があります。しかし、それは主と別れる悲しみではなくて、自分の罪の大きさをこそ泣かなければならないのであります。けれども、私たちは、そのような自分の罪を棚に上げて、自分のお気に入りの主イエスを見出せずに落胆し、泣くのであります。主イエスはわざと、そんな私たちから、一旦身を隠されるのかもしれません。そして、天使を通して、「なぜ泣いているのか」と問いかけられます。それは天使の言葉でありますが、主イエスの問いかけでもあります。
 
そんな問いかけに対して、私たちもマリアと同じように、誰か他の人に責任があるかのように、「わたしの主が取り去られました」と答えるのでしょうか。あるいは、<私にはまだ主イエスのことがよく分かりません>と言って逃げるのでしょうか。――しかし、そんな私たちを主イエスは見捨てようとはなさいません。

3. だれを捜しているのか」/「わたしが、引き取ります」

14節にはこう書かれています。こう言いながら後ろを振り向くと、イエスの立っておられるのが見えた。しかし、それがイエスだとは分からなかった。そこにはやはり、天使だけではなくて、主イエスもおられたのであります。しかし、マリアはその時点ではそれが主イエスだとは気付きませんでした。「後を振り向くと」という言葉が象徴的であります。マリアがそれまで見ていた方向には主イエスはおられなくて、後ろを振り向いて初めて、そこにもう一人の人がいたことに気付いたのであります。16節でも、主イエスに名前を呼ばれた時に、彼女は「振り向いて」、答えたことが記されていますが、これは、彼女が求めている方向に主イエスがおられるのではなくて、180度反対の方向におられるということを福音書記者が言おうとしているのでしょう。
 
15節で主イエスは、「婦人よ、なぜ泣いているのか。だれを捜しているのか」と問いかけられました。前半の「婦人よ、なぜ泣いているのか」という問いは天使の言葉と同じです。後半の「だれを捜しているのか」という問いは、マリアが主イエスのご遺体を捜していることが分からなくて質問しておられるのではなくて、<マリアにとって主イエスが誰であるのかが分からなくなっているのではないか>という問いかけであります。マリアは七つの悪霊を追い出していただいた恵みの体験をしたことで、主イエスを愛し、主に従って来ました。マリアにとって主イエスとは、自分を病から解放して下さった、優しく、力あるお方でありました。その延長上で、主イエスをメシア・救い主と信じていました。しかし、主イエスは十字架にお架かりになり、死んでおしまいになりました。それはマリアには受け入れ難いことであり、メシアとしてあってはならないことでありました。十字架の出来事によって、マリアのメシア像が否定されたのでした。しかし、マリアはこれまでのメシア像を捨て切れなくて、そんな主イエスを捜し求めていたのであります。「だれを捜しているのか」、という主イエスのお言葉は、<私はあなたの捜しているイエスではないよ>という意味が込められています。主イエスは、これまでマリアが持っていたイエス像・メシア像を否定されたのであります。
 
だからこそ、マリアは振り向いて見た復活の主イエスが、愛する主イエスだとは分からなかったのであります。マリアは、園丁だと思って言いました。「あなたがあの方を運び去ったのでしたら、どこに置いたのか教えてください。わたしが、あの方を引き取ります。」――マリアは、「どこに置かれているのか」という同じ質問を三回しました。マリアは相変わらず、以前の主イエスを捜し求めています。そして、その主イエスを園丁がどこかに移動したのであれば、それを引き取るというのであります。つまり、主イエスを自分の手で管理しよう、面倒を見ようというのです。それが、主イエスに対する自分の恩返しであり、主イエスに対する自分の愛を示す方向だと思っているのです。しかしながら、その方向には主イエスはおられないのであります。
 
私たちもまた、主イエスを自分の手許で管理したいのであります。「管理」しようなどとは思ってもいないかもしれません。しかし、私たちは主イエスを自分が気に入る姿に留めておきたいのであります。自分のイメージや都合に合わせて登場してほしくて、私たちの理解を越え、私たちを支配するような動きをしてほしくないのであります。けれども、そんな主イエスを捜しても、見失ってしまうのであります。主イエスは私たちの願望や理想を満たして下さるお方ではありません。主イエスは私たちが引き取って管理できるお方ではありません。私たちこそ、主イエスの御許にあって、御心に従うべき者であります。

4.「マリア」/「ラボニ」

さて、主イエスを捜し求めながらも、自分本位の思いを捨てきれないマリアを、主イエスは切り捨てておしまいになるのでしょうか。そうではありません。マリアが求めているのとは180度違う方向から、声をかけられます。主イエスは「マリア」と呼びかけられました。ユダヤの伝統では、名前はその人の人格を表します。「マリア」という名前には、彼女がこれまでに生きて来たその生活の全体が込められています。良いことも悪いことも、楽しかったことも苦しかったことも、正しいことも過ちも、ここまでの歩みだけでなく、これからの歩みも含めて、マリアの人生の全てが、今、主イエスによって呼びかけられているのであります。しかしそれは、マリアが捜し求めていた方向からではなくて、180度反対の方向からでした。ですから、彼女は振り向いて、「ラボニ」と答えました。それは「先生」という意味です。この二人の呼びかけ方は、おそらく以前からの呼びかけ方だったのでしょう。かつて地上の歩みをされていた時の主イエスは死んでおしまいになられました。けれども今、甦って、同じように呼びかけて下さり、同じように答えたのであります。しかし、その方向はマリアが求めていた方向からではありませんでした。マリアは墓の中に主イエスを求めていましたが、主イエスはそれとは反対の、命の世界から呼びかけて下さいました。主イエスは死が支配する世界におられるのではなくて、今や、神がご支配なさる命の世界からマリアを呼びかけて下さったのであります。呼びかけ方は以前と同じですが、この呼びかけによって、今マリアは新しい命の世界に呼び出されたのであります。16節の「振り向いて」という言葉は、空間的に向きを変えるという意味でありますが、心の向きを変えることでもあります。これまで確かだと思って見ていた方向から、まったく見ていなかった反対の方向へと心の向きを変えることであります。悔い改めるということであります。自分の知識や経験から見るのではなくて、主イエスが指し示される方向に向き直ることであります。自分の思いを中心にして捜し求めるのではなくて、主が備えて下さったものを受け止めるのであります。主イエスはマリアが求めていたものを拒否なさることによって、新しい御自分をマリアに差し出されたのであります。

5.「わたしにすがりつくのはよしなさい」

このようにして主イエスはマリアに御自分を差し出されたのでありますが、マリアはその主イエスにすがりつこうとしたようです。あるいは、主イエスがマリアの中に残っている古い思いを察知して、未然に防ごうとされたのでしょうか。17節でこう言われました。「わたしにすがりつくのはよしなさい。まだ父のもとへ上っていないのだから。」「すがりつく」というのは、主イエスとマリアの古い関係を象徴しています。マリアは主イエスを自分の手許に、自分の管理下に置いておきたかったのであります。以前の優しくて力強い主イエスのままであってほしかったのであります。しかし、今や、主イエスは天の父なる神様のもとに帰られるのであります。そこで主イエスは、マリアの思いを越えた新しい関係を築こうとなさっているのであります。その関係とは、目で見、肌で感じる感覚的な関係ではなくて、信じるという霊的な関係であります。「まだ父のもとへ上っていないのだから」ということが何を意味するのか、難解でありますが、恐らく、主イエスはまだこれから何度か地上の弟子たちに復活のお姿を現されることになるわけで、その際に以前の関係に逆戻りすることを危惧されたのではないでしょうか。主イエスが天に昇られたならば、もはやその心配はなくなり、ただ信仰によってしか結ばれなくなるからであります。
 
私たちは今、主イエスのお体にすがりつくことは出来ません。主イエスと顔と顔を合わせ、目と目を合わせてお会いすることも出来ません。生のお声を聞くことも許されておりません。私たちの祈りや叫びが主イエスの耳に入っているのかどうか確かめることが出来ません。そのために、主イエスが私たちから遠い存在であるように思い勝ちであります。しかし、そのことが幸いなのであります。私たちは今、信仰によって主イエスと交わることが出来るのであります。霊の働きによって主の御心を聴き取ることが出来、霊の働きによって、私たちの思いを聞き上げて下さるからであります。
 
「まだ父のもとへ上っていないのだから」と言われたのに続けて、マリアにこう命じられました。「わたしの兄弟たちのところへ行って、こう言いなさい。『わたしの父であり、あなたがたの父である方、また、わたしの神であり、あなたがたの神である方のところへわたしは上る』と。」ここで主イエスは、マリアに一つの使命を与えておられます。ここに直接的に命じられていることは、主イエスが父なる神様のところに上られるということを告げることでありますが、それは、主イエスがお甦りになったこと、その主イエスにお会いしたということであり、それは、十字架が敗北や終わりではなくて、そこに救いがあり、それによって、主イエスと弟子たちとの関係がこれまでの地上における関係ではなくて、新しい関係に創り変えられたのだ、ということを人々に伝えることであります。復活の主イエスに出会った者は誰でも、この新しい使命を与えられるのであります。この使命は、新しく課せられる重荷というよりも、主イエスと新しい関係に入ったことの喜びを表すことに他なりません。そのことが、主の救いの御業を証言することになり、主の救いの御業を完成するために、些かなりとも貢献させていただくことになるのであります。

結.「主を見ました」

18節を見ますと、マグダラのマリアは弟子たちのところへ行って、「わたしは主を見ました」と告げ、また、主から言われたことを伝えた、と記されています。マリアが言った、「わたしは主を見ました」という言葉は、見過ごしてしまいそうな単純な言葉ですが、重要な意味が含まれています。一つは「主」という言葉です。これは「ご主人」というような目上の人に対する普通の尊称でもありますが、旧約聖書で神様のことを示す「アドナイ」という言葉をギリシャ語に訳したのが「主」です。ですから、元々は神様を示す特別な言葉でありました。マリアはその言葉を使ってイエス様のことを「主」と言ったのです。イエス様を神様と捉えて告白しているのであります。「ラボニ」と呼んだ時は、生前に親しく「先生」と言っていた言葉を使って、そのイエス様が今や甦って生きておられることを言い表したしたのでありますが、ここではそのイエス様を「主」と呼んで、神と等しい方であることを証言したのであります。これは、主イエスを礼拝の対象としたということです。主イエスに対する最初の礼拝が行われたということであります。もう一つ大切なことは、「わたしは見た」という言葉です。ここで使われている言葉は、普通に目で見るという言葉であります。しかし、お甦りになった主イエスを、この目で見たということですから、大事な証言であります。夢を見たのでもなく、幻を見たのでもありません。更に大事なことは、ここで起こったことは、単に主イエスを目で見たということに留まりません。マリアはここで、復活された主イエスと人格的に出会っているのであります。それも、古い人間同士の愛の関係を超えた新しい関係をもって出会っているのであります。このヨハネ福音書の1章で、主イエスがナタナエルを弟子にされた時、「はっきり言っておく。天が開け、神の天使たちが人の子の上に昇り降りするのを、あなたがたは見ることになる」(151)と約束されました。今、その約束が実現したと言ってよいのであります。主イエスによって、天と地が結ばれたのを見ることが出来たのであります。
 
こうして、マグダラのマリアは主の復活の最初の証人となりました。このマリアはその後の教会の歩みを先取りしたと言ってよいのではないでしょうか。私たちは復活の主イエスをこの目で見ることは出来ませんが、マリアや弟子たちが復活の主イエスの出会った証言を通して、私たちも信仰において復活の主イエスに出会うことが出来ます。そして、マリアと同じように、私たちも他の人々に向かって、「復活の主イエスに出会いました」と、驚きと喜びをもって、伝えるのであります。それが、今も主の日の礼拝で起こり続けていることであります。祈りましょう。

祈  り

主イエス・キリストの父なる神様!
 
聖書に残された証言を通して、今日も、復活の主イエスに出会うことを許され、罪を赦された新しい命に生きる者とされましたことを感謝いたします。
 
どうか、私たちをもマリアと同じように、そして代々の教会がして来たように、復活の主を、喜びをもって証し続ける群れとして用いて下さい。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

米子伝道所 主日礼拝説教<全原稿> 2012年4月15日  山本 清牧師 

 聖  書:ヨハネ20:11−18
 説教題:「なぜ泣いているのか」
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