イエスは必ず死者の中から復活することになっているという聖書の言葉を、二人はまだ理解していなかったのである。
                             (ヨハネによる福音書209 

 安息日が明けた「週の初めの日」、それは後に教会が礼拝を行う日となるのだが、その日、主イエスの女弟子マグダラのマリアが主の体を納めた墓に向かった。そこで彼女が見たのは、墓から取りのけられた石であり、中には主の体は既になかった。彼女は「主が(何者かによって)墓から取り去られた」(2)と判断した。彼女がペトロともう一人の弟子(ヨハネ)に知らせると、彼らは走って墓に来て、主の体を包んだ亜麻布と頭覆いが置いてあるのを発見した。何者かが主の体を持ち出したにしては腑に落ちないことである。ヨハネは空になった墓の様子を「見て、信じた」(8)と書いているが、標記のように、「聖書の言葉を二人はまだ理解していなかった」とも記す。彼らは、何か大きな事が起こったことを信じ始めたが、まだ聖書の言葉によって復活を信じるには至らないまま、家に帰った。――このように、墓が空だったということだけでは、主がお甦りになったことの裏づけにはならず、復活の確信を持つには至らない。
 では、福音書記者はなぜ空になった墓のことを記すのか。この後、マグダラのマリアは復活の主に出会い、その日の夕方、弟子たちが集まっているところに復活の主は現れた。その後、主は何度か弟子たちに現れるが、彼らが直ちに主の復活のことを人々に語り始めたのではない。彼らが宣教を始めるのは、ペンテコステに聖霊が降ってからであった。そうなった後はじめて、彼らが墓を見に行った時には既に主は復活されていたことに気付き、空の墓を主の復活の確かなしるしとして受け取ることが出来たのだ。そうして、驚きをもって見た空の墓の様子をリアルに記したのである。
 主の復活の出来事は、私たちにとっても容易に受け入れがたいことである。私たちが復活の信仰を確かにできるのは、ヨハネが記すように、「週の初めの日」の礼拝において「聖書の言葉」を聴き続け、主が、聖霊の働きにおいて今も生きて働いておられることを知ることによってである。その時、空になった墓の知らせは、私たちにとっても大きな福音となるのである。

米子伝道所 復活節礼拝説教<要 旨> 2012年4月8日  山本 清牧師 

 聖  書:ヨハネ20:1−10
 説教題:「空になった墓」
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