序.空の墓で何を伝えようとするのか

今日は復活節(イースター)を迎えています。私たちは、十字架にお架かりになり、死んで墓に納められた主イエス・キリストが、三日目の朝に甦られたという、喜ばしい知らせを聞くためにここに集められています。
 
ところが、今日カリキュラムに従って与えられている聖書の箇所はヨハネによる福音書20章の1節から10節までであります。ここにはまだ復活のイエス・キリストは登場していません。来週に聞く11節以下では、マグダラのマリアが復活の主イエスにお会いしたという出来事が記されているのですが、今日の10節までの箇所には、マグダラのマリアが週の初めの日、すなわち日曜日の朝早くに墓に行って、墓が空だったことを見たのと、そのことを男の弟子たちの所へ知らせに行くと、彼らも墓へやって来て、既に主イエスのご遺体がなく、頭を包んであった覆いと、亜麻布が置いてあったのを見届けたことが書かれているだけであります。
 
墓が空だったということだけでは、主イエスがお甦りになったということの裏づけにはなりません。誰かがご遺体を持ち去ったかもしれないからであります。ですから、今日の箇所からだけでは、主イエス・キリストの復活のメッセージを聞くことは出来ないのではないか、とも言えるのであります。――しかし、よく考えてみる必要があります。この福音書を書いたとされているヨハネは、今日の箇所の中で「もう一人の弟子」という書き方をしている弟子のヨハネ自身か、あるいは、弟子のヨハネが証言したことを聞いて、ヨハネの名を借りて誰かが書いたと考えられています。いずれにしろ、ここに書かれていることには、「もう一人に弟子」と書かれているヨハネの見聞きしたことが反映されていることは間違いありません。弟子のヨハネは、この時には甦られた主イエスに直接お会いしたわけではないのですが、この後で主イエスがマグダラのマリアに現れたことは既に知っているわけですし、それだけでなく、その日の夕方に、弟子たちが集まっていた家に現れられた時に一緒にいたと考えられますし、何日か後にはガリラヤ湖畔で現れたことも弟子たちから聞いて知っていて、主イエスが復活された出来事を疑いのない事実として受け止めているのであります。ですから、今日の箇所の中には、直接には復活なさった主イエスのことは出てこないのですが、後から考えると、あの復活の朝に墓であったことは、主イエスの復活の事実に伴うことであり、あの時は何が起こったのかはよく分からなくて、ただ驚きと戸惑いを覚えるばかりであったのだけれども、今は、主イエスの復活に伴うしるしとしての喜ばしい出来事なので、それを書き残して、後世の人たちにも、その喜びを伝えようとしている、ということなのであります。
 
ですから、私たちは、空になった墓など復活の証拠にはならないとして捨て去るのではなくて、これを書き残した(あるいは証言した)弟子の喜びを、私たちの喜びとして聞き取りたいと思うのであります。

1.まだ暗いうちに

さて、1節の初めには、こう書かれています。週の初めの日、朝早く、まだ暗いうちに、マグダラのマリアは墓に行った。金曜日に十字架上で息を引き取られた主イエスは、十字架から取り降ろされると、急いで埋葬されました。なぜ急いだかというと、安息日の土曜日になると、墓に納めるというような行動は許されなかったからであります。ユダヤの一日の数え方は日没で次の日になります。午後3時ごろに息を引き取られたので、日没まであまり時間がなかったのです。ですから、他の福音書によると、御遺体に香料を塗る時間もなかったので、婦人たちは安息日が明ける週の初めの日の朝早く、まだ暗いうちに、香料を携えて墓に向かったのでありました。ヨハネ福音書ではマグダラのマリアの名前しか書かれていませんが、他の福音書が記すように、何人かの婦人たちが示し合って行ったと考えられます。
 
「週の初めの日」という言い方は、安息日の翌日の週明けに、という意味ではありますが、福音書がこぞってこの言い方をしているのは、それだけの理由ではないように思います。使徒言行録を見ると、初代教会ではある時期から、安息日に礼拝を行うのをやめて、主イエスが復活された週の初めの日、即ち今の日曜日に礼拝するように切り替えていました。ですから、福音書記者がここで「週の初めの日に」と記す場合には、<自分たちが主の復活を覚えて礼拝しているこの週の初めの日に>という意味が込められているのではないでしょうか。私たちもまた、日曜日が休日だから、便宜上、この日に礼拝するのではありません。主イエスが復活されたことを覚え、そのことによって私たちが今生かされていることを感謝し喜ぶために、「週の初めの日」に、こうして集められて、礼拝しているのであります。
 
次に、「朝早く、まだ暗いうちに」とあります。この言葉で筆者が表現したかったことは、一つには、一刻も早く墓に行って主イエスのご遺体を仰ぎ、香油を塗りたいと思っていた婦人たちの気持ちではないでしょうか。安息日が終わる土曜日の日没からは、暗くなってしまいますから、電灯のない時代には行動が出来ません。ですから、朝早く、少し白みかけた頃に、待ちきれずに行動を開始したのでありましょう。男の弟子たちはまだ動き出しておりません。彼らはまだ、主イエスを捕らえた人たちに対して警戒心を抱いていたのかもしれません。それに対して、女性の地位が低かった当時は、敵対者たちが女性の行動にまで目を光らすようなことはなかったので、警戒する必要もなく、ただ、主イエスを愛する思いから、女たちだけで行動を開始したのでありましょう。そして、(11節以下にあるように)復活の主イエスと最初に出会うという光栄に浴することになるのであります。このことは、私たちが復活の主イエスに出会うのも、あれこれと余計なことを考えてためらうのではなく、ただ主イエスの愛を覚えて、単純に主を求めることによって許されることを示しているのではないでしょうか。
 
「朝早く、まだ暗いうちに」という言葉で筆者が示そうとしているもう一つのことがあるように思います。この時、まだ婦人たちのところにも、男の弟子たちのところにも、復活の光は届いていませんでした。まだ、十字架の闇が覆っていました。罪と悪が勝利したかのような状態が続いていました。婦人たちの心にも弟子たちの心にも、闇が支配していました。まだ新しい信仰は目覚めておりませんでした。この時、実は既に主イエスは復活しておられたのであります。しかし、婦人たちも弟子たちも、それを知る由もありませんでした。まだ、復活の光は隠されていたのであります。「まだ暗いうち」だったのであります。婦人たちを動かしたのは、復活の主イエスに会えるという思いではなく、もう一度御遺体を見て、かつての主イエスを偲びたいという思いでありました。生きた主に出会うことを期待したのではなくて、ただ、死んだ主の体に懐かしさを求めて墓に向かったのであります。ルカによる福音書では、婦人たちの前に現れた天使が、「なぜ、生きておられる方を死者の中に捜すのか」と言った、ということが記されています。このことは、私たちも、生きた方を死んだ人の中に捜すという愚かなことをしていないか、ということを思わせられます。既に日は昇り始めていましたが、まだ辺りは暗さに覆われていたように、私たちもまだ日が昇り始めていることに気付かないで、闇の支配のもとに留まっているのではないでしょうか。そして、過去のしがらみや、思い出や、人間的な感情に囚われているのではないでしょうか。しかし、「週の初めの日」の光は、間もなく、辺り全体を明るく照らし出すのであります。そして、新しい光の世界が始まるのであります。

2.主が取り去られた

次に、1節の後半から2節を見て参ります。マリアが墓に行くと、墓から石が取りのけてあるのを見たのであります。石はかなり大きいもので、女一人の力では簡単に動かせないものだったと思われます。マルコ福音書では、婦人たちは「だれが墓の入り口からあの石を転がしてくれるでしょうか」と話し合っていた、と記されています。墓の番人にでも手伝ってもらうつもりだったのでしょうか。しかし、墓に来てみると、既に石は取りのけられていたのであります。この時点でマリアが墓の中に主の御遺体がないことを確かめたのかどうかは書かれていませんが、2節に、マリアがシモン・ペトロと「イエスが愛しておられたもう一人の弟子」すなわちヨハネのところへ走って行って告げた言葉が記されていますが、そこでは、「主が墓から取り去られました。どこに置かれているのか、わたしたちには分かりません」と言っております。多分、墓の周辺を探し回ったけれども見つからなかったのでしょう。「わたしたち」と言っておりますから、他の婦人たちも到着して手分けして捜したのかもしれません。そして、誰かが御遺体を持ち出したにちがいないと判断したのであります。復活ということを考えてもみない彼女たちは、そう考えざるを得なかったのでしょう。既に復活のことを知っている筆者のヨハネは、マリアが主の復活のことを知らずに、石が取りのけてあることに驚いている様子や、弟子たちのところへ走って行った様子や、「主が墓から取り去られました」と言ったことを書きながら、自分にとっても、主の復活のことが如何に思いがけない出来事であったのかを伝えようとしているのでありましょう。そして、ヨハネがここで言いたいことは、石が取りのけてあったのは、他でもなく、甦った主イエスが墓から出ようとして取りのけられたのだ、ということでしょうし、そこに既に主の御遺体が見当たらなかったのは、誰かが取り去ったのではなくて、神様が主イエスを復活させなさって、主イエスが御自分で出て行かれたからだ、と言いたいのでしょう。
 
ここで、もう一つヨハネが言いたかったことがあります。それは、マタイによる福音書の27章、28章に書かれていることと関係するのですが、主イエスが葬られた次の日、(その日は安息日であったにも関わらず、安息日の掟を破って)祭司長たちとファリサイ派の人々は、ピラトのところに集まって、一つの相談をしたことが書かれています。それは、弟子たちが来て死体を盗み出して「イエスは死者の中から復活した」などと民衆に言いふらすかもしれないので、墓を見張る番兵をつけようという相談であります。ところが、復活の日、マタイ福音書によれば、墓で見張っていたはずの番兵たちは、恐ろしさのあまり震え上がり、死人のようになった(284)、と書かれています。更に、番兵たちがこの出来事を祭司長たちに報告すると、兵士たちに多額の金を与えて、「弟子たちが夜中にやって来て、死体を盗んで行った」と言うように命じるのであります。こうして、そういう噂がユダヤ人の間で広がっていたようであります。この話は、ヨハネも知っていて、自分たちが御遺体を盗んだのではない、ということを主張したかったのでしょう。ですから、マリアたちから「主が墓から取り去られました。どこに置かれているのか、わたしには分かりません」と言われても、あの時は、主イエスの体を盗み出すどころか、自分たちも何が起こったのか分からず、急いで墓に確かめに行くしかなかったのだ、ということを暗に言っているのであります。
 
弟子たちは主イエスから、復活の予告を予め聞いていました。しかし、そのことと、この日マリアから聞いたこととを結びつけることが出来なかったのが、正直なところであります。「主が墓から取り去られました」というマリアの言葉は、男の弟子たちの思いでもありました。彼らは主イエスの予告の言葉を聞いていたにもかかわらず、主を見失ってしまったのであります。主イエスがどこにいらっしゃるのか、自分たちとどのような関係にあるのか、主イエスは一体誰なのかということを見失ってしまっていたのであります。主イエスの復活の出来事は、私たちにとっても容易には受け入れ難いことであります。しかし、主の復活を受け入れられないならば、主イエスは私たちから取り去られてしまい、私たちも主イエスを見失ってしまうのであります。

3.亜麻布が置いてあった

次に、3節から7節に書かれている、男の弟子たちの動きを見て行きます。マグダラのマリアから知らせを聞いて驚いたペトロともう一人の弟子は、すぐに墓へ向かいました。もう一人の弟子の方が速く走って、先に墓について、身をかがめて中をのぞくと、主イエスの御遺体はなく、そこには亜麻布が置いてありました。しかし、彼は中には入らなくて、続いて到着したペトロが先に墓の中に入って、亜麻布が置いてあるのと、主イエスの頭を包んでいた覆いが離れた所に丸めてあったことを確認しました。なぜ、もう一人の弟子と記されているヨハネの方が速く走ったのか、なぜ彼がすぐに墓の中には入らなかったのか、ということについては色々な想像がなされますが、あまり重要なことではないと思われますので、詮索することは止めたいと思います。ただ、福音書記者がこのように詳細に書いているのは、その時のことが決して夢の中の出来事ではなくて、リアルな出来事であったということを書き残したかったということではないでしょうか。
 
ここで福音書記者がどうしても記しておきたかったことは、「亜麻布が置いてあった」ということであります。これはヨハネもペトロも確認しています。なぜこのことをしっかりと書いているかというと、誰かが御遺体を持ち出したとするなら、御遺体をくるんでいた亜麻布をわざわざ取りのけて置いて行くようなことはしないからであります。ですから、御遺体は誰かが盗んだのではないし、まして自分たちがどこかに隠したのでもなくて、主がお甦りになったので、不要になったものを置いて行かれたということを言いたかったのであります。頭を包んでいた覆いについても、同様の意図から、このように詳しく記しているのだと思われます。
 
とは言え、ヨハネはこの時すぐに主イエスの復活をはっきりと確信したわけではなかったようです。そのことが、8節以下で分かります。

4.聖書の言葉の成就

8節にはこう書かれています。それから、先に墓に着いたもう一人の弟子も入って来て、見て、信じた。――ここには、ヨハネが「見て、信じた」と書かれています。ヨハネは墓の中に入って来て、主イエスの御遺体がないことを見ました。またそこに、亜麻布と頭を包んでいた覆いが置かれているのを見ました。そして「信じた」と書かれています。何をどのように信じたのでしょうか。主イエスが復活なさったことを信じたということでしょうか。ところが、次の9節を見ると、イエスは必ず死者の中から復活されることになっているという聖書の言葉を、二人はまだ理解していなかったのである、と書かれています。8節と9節とでは矛盾したことが書かれているように思えます。これには二つの解釈があります。一つの解釈は、「信じた」と書かれている内容を、マグダラのマリヤが知らせたこと、すなわち、「主が墓から取り去られました」と言ったこととするもので、マリヤの言ったことが本当で、主イエスは確かに誰かによって墓から取り去られたと信じた、という解釈であります。これは主イエスの復活を信じたということではないので、9節の言葉とは矛盾しませんから、分かりやすい解釈であります。もう一つの解釈は、主イエスの体が見当たらず、亜麻布などが置かれているのを見て、主イエスの復活を信じたという文字通りの解釈であります。ただし、そうしたことを見ただけでは、まだ確かな信仰とは言えない。この後の24節以下に、主イエスの復活を信じられなかったトマスに主イエスが現れて、手やわき腹の傷をお見せになったあと、「見ないのに信じる人は幸いである」とおっしゃったことが書かれているように、墓が空になっているのを見、亜麻布が置かれているのを見ただけでは、まだ不十分の信仰であって、確かな信仰は聖書の言葉を理解することによってである、という解釈であります。前者の解釈は分かりやすいですが、深みのない解釈のように思えます。二人が見たのは、そこに主イエスの御遺体がないということと、亜麻布や覆いだけが残されていただけで、それを見ただけでは、主が復活されたということの合理的な説明にはならないのですが、ヨハネは後から考えて、あの時から自分は主の復活を信じ始めたと思っているのであります。しかし、それは不十分な信仰であったとも思い返しているのではないでしょうか。その後、ヨハネは復活の主イエスが現れた場所にもいて、主の復活への確信を深めて行くことになるのですが、最終的に復活の信仰を確かにするのは、聖書の言葉である、というのがヨハネの結論であります。ここで、「聖書の言葉」というのは、具体的には、先ほど朗読していただいた詩編16編の10節を挙げることが出来ます。そこには、こう書かれています。「あなたはわたしの魂を陰府に渡すことなく、あなたの慈しみに生きる者に墓穴を見させず、命の道を教えてくださいます。」しかし、ここだけとか、特定の箇所というよりも、聖書全体の御言葉を聴くことによってこそ、信仰が養われ、確かなものにされて行くということが、この聖書記者の言いたいことなのではないでしょうか。最後の10節に、それから、この弟子たちは家に帰って行った、と書かれています。この日の出来事だけでは、まだ彼らに大きな変化は起こらなかったということです。まだ、主の復活のことを人々に伝え始める行動を始めたわけではありません。その後の弟子たちの行動を見ますと、ユダヤ人たちを恐れて家の中に閉じこもっていたり、故郷のガリラヤへ帰って昔のように漁を始めるのであります。彼らが立ち上がるまでには、まだ復活の主イエスの働きかけが必要でありましたし、聖霊が降らなければなりませんでした。復活は、誰でも直ちに理解できることではありません。復活の信仰は、聖霊の導きによって、徐々に私たちの中に確かなものへと育てられるのであります。

結.死からの勝利

このように、弟子たちの信仰が積極的な行動につながるまでには、まだ上からの働きかけが必要でありましたが、主イエスが墓から甦られたという出来事は既に起こっていたのであります。主イエスは既にサタンに勝利し、死は滅ぼされたのであります。罪の贖いの御業は成就したのであります。神様の救いの約束は実現したのであります。そして、やがて、聖霊が降って、主の御言葉が弟子たちの口によって語られ始められるのであります。その御言葉によって、主イエスと弟子たちに間の関係が回復され、多くの人々と主イエスとの新しい関係が築かれ、ついには私たちと主イエスとの出会いも起こり、私たちの中にも新しい命が生き始めるのであります。その命の源泉は主イエスの復活にあります。復活の主イエスは今も、不信仰で疑い深い私たちにも、御言葉を通して、新しい命を注ぎ続けて下さり、信仰を養って下さっているのであります。そして、私たちをも、主イエスの復活と私たち自身の復活を信じる者へと変えて下さるのであります。このことを覚えて、お祈りをいたしましょう。

祈  り

命の主なるイエス・キリストの父なる神様!
 この復活節の礼拝にお招きいただき、命の御言葉に与ることを許されて、キリストの復活を喜び・讃美する群れに加わることが出来ましたことを感謝いたします。
 
私たちには、空になった墓など多くのしるしが与えられているにも拘わらず、主の御復活を素直に信じることが難しく、私たちに永遠の命が与えられることを受け入れることが、なかなか出来ない者でありますが、どうか、御言葉をもって絶えず出会って下さり、語り続けて下さいますように。そしてどうか、地上で与えられた生のうちに、あなたの救いを心から信じて受け入れて、神の国に凱旋する者とならせて下さい。
 
主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

米子伝道所 復活節礼拝説教<全原稿> 2012年4月8日  山本 清牧師 

 聖  書:ヨハネ20:1−10
 説教題:「空になった墓」
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