イエスは、この世から父のもとへ移る御自分の時が来たことを悟り、世にいる弟子たちを愛して、この上なく愛し抜かれた。
                        (ヨハネによる福音書131

 主イエスが弟子たちの足を洗われたあと、主イエスは、「主であり、師であるわたしがあなたがたの足を洗ったのだから、あなたがたも互いに足を洗い合わなければならない」と言われた。これは、単に謙遜に仕え合いなさいという道徳訓ではない。このことが行われたのは、羊の血による救いを覚える過越祭の直前であり、主イエスの十字架の死が迫っていた時であって、標記のように、この世に遣わされていた主イエスが、神の御心に従って救いの業をなさり、天に帰られるという特別な時だったのだ。足を洗うという行為は、単なる謙遜な行為ではなく、愛する者たちのために命を捨てることを示す象徴行為なのである。
 主がペトロの足を洗おうとされると、彼は「主よ、あなたがわたしの足を洗ってくださるのですか」と言った。これは、先生に自分の足を洗わせては申し訳ないという思いから出た言葉かもしれないが、そこには人間の傲慢が潜んでいる。私たちは弱さや汚れを持っているにもかかわらず、そのために主の御手を煩わすには及ばない、自分で何とかできる、と考えてしまう。こうして、主イエスの救いを拒否するのである。「わたしの足など、決して洗わないでください」というペトロに対して、主は、「もしわたしがあなたを洗わないなら、あなたはわたしと何のかかわりもないことになる」と言われた。私たちの罪を主イエスの前に差し出して清めていただくのでなければ、せっかく教会生活をしていながら、主イエスとは何のかかわりもないことになるのである。
 だが、自分の裏切りのことも分かっていなかったペトロを、主はお見捨てにならず、深くかかわり続けられ、悔い改めの機会を備えられた。そのように主は、裏切りの可能性のある私たちのためにも、命を捨てるほどにかかわり続けてくださって、罪の購いの御業を成し遂げてくださるのだ。私たちは、他人の問題点ばかり取り上げては審く者であるが、主イエスに真っ先に洗っていただかねばならないのは、私自身である。そのことに気付くなら、ペトロのように救われ、互いに審き合うのではなくて、互いに足を洗い合い、仕え合う者にしていただけるのである。

米子伝道所 主日礼拝説教<要 旨> 2012年4月1日  山本 清牧師 

 聖  書:ヨハネ13:1−15
 説教題:「弟子の足を洗う」
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