序.「わたしの足を?」

今日の箇所は、主イエスが弟子たちの足を洗われたという出来事が書かれているところで、大変よく知られている箇所の一つであります。しかし、よく知られている箇所というのは、説教を聞く前から、ここはこういうことが教えられている箇所だという先入観をもって聞いてしまいがちであります。説教者も、そういう先入観からなかなか離れられないで、ありきたりの説教に終わってしまいがちであります。
 
この箇所を読んで、誰でもすぐ分かることは、弟子たちが先生であるイエス様の足を洗うのであれば普通のことなのだけれども、ここでは先生のイエス様が弟子たちの足を洗われるという逆転が行われているということです。このことから教えられることについては、今日のテキストの最後になるのですが、1415節でイエス様自身がまとめておられます。「ところで、主であり、師であるわたしがあなたがたの足を洗ったのだから、あなたがたも互いに足を洗い合わなければならない。わたしがあなたがたにしたとおりに、あなたがたもするようにと、模範を示したのである。」1415節)――非常に分かりやすい教えであります。要するに、普通は奴隷や召使がする<足を洗う>という行為をイエス様がへりくだってなさったのだから、それを模範として、私たちも謙遜に人に仕える者にならないといけない、という教えとして受け取ることが出来ます。これは、社会生活をして行く上で、大変大事な教訓であります。
 
しかし、主イエスが弟子たちの足を洗われたのは、それだけのことを教えたかったからでしょうか。単に「謙遜になれ」という教えなのでしょうか。そうではなさそうだ、ということは皆様も感づいておられるだろうと思います。この出来事は、普通の日常的な状態の中で為されたのではありませんでした。ヨハネ福音書では、この13章から17章までは最後の晩餐の席での出来事が書かれているのであります。主イエスは十字架の時が迫っていることを御承知の上で、弟子たちの足を洗うという行為をなさったのであります。ですから、弟子たちの足を洗うという行為は、一般的な謙遜な行為とは違うのであります。弟子たちのために十字架に架かるということを指し示す象徴的な行為であったのであります。この箇所を何度か聞かれたことのある皆様は、恐らく、そのこともお分かりになっていたのではないかと思います。ところが、この時、弟子たちにはそのことがまだ分かっていませんでした。ですから6節をみると、足を洗おうとされる主イエスに向かって、ペトロは、「主よ、あなたがわたしの足を洗ってくださるのですか」と言っております。それに対して主イエスは、こう言われたと7節に書かれています。イエスは答えて、「わたしのしていることは、今あなたには分かるまいが、後で、分かるようになる」と言われた。「後で」というのは、十字架の上で死なれ、墓に葬られ、三日目におよみがえりになった後で、という意味です。弟子たちは復活の主イエスに出会って初めて、この時に足を洗われたことの意味が分かったのでありました。どう分かったのでしょうか。――それは、主イエスの十字架は自分のためであった、ということが分かったのであります。では、なぜ、主イエスの十字架が自分のためであったと分かったのでしょうか。2節を見ると、夕食のときであった。既に悪魔は、イスカリオテのシモンの子ユダに、イエスを裏切る考えを抱かせていた、とあります。ユダの裏切りが引き金になって、主イエスは逮捕され、十字架に架けられることになりました。しかし、それだけなら、主イエスの十字架が自分たちのためであったという理解に達することは出来ないでしょう。先週は、ペトロが大祭司の屋敷の庭で主イエスのことを「知らない」と言ってしまった箇所を学びました。ペトロもユダと同じように裏切ったのでありました。だからこそ、弟子たちは後に、主イエスが自分たちのためにも十字架にお架かりになったということが身に浸みて分かったのでありました。しかし、この最後の晩餐の時には、まだそのことが全然分かっていなかったので、ペトロは、いぶかしげに「あなたがわたしの足を洗ってくださるのですか」と尋ねなければならなかったのであります。
 
以上のことは、主イエスの十字架の前後の経緯を知れば、私たちも理解ができるのであります。しかし、それが分かっただけでは、今日の箇所で主イエスが私たちに伝えようとしておられることが分かったことにはならないのではないでしょうか。主イエスは今日、2000年前のこの出来事をお示しになりながら、実は、私たちの足を洗おうとなさっているのであります。それに対して私たちは、どうお応えするのでしょうか。私たちもペトロと同じように、「主よ、あなたがわたしの足を洗ってくださるのですか」と、いぶかりながらお尋ねするしかないのでしょうか。――今日は、この問いについて、与えられた箇所を見て行くことを通して、御心を聴いて参りたいと思います。

1.御自分の時が来た

まず、1節の冒頭に、さて、過越祭の前のことである、とあります。他の福音書では弟子たちとの最後の晩餐が過越しの食事であったと理解しているのですが、このヨハネ福音書だけは、もう一つ前の日に、弟子たちの足を洗われたことから始まる最後の食事が行われたと理解しているようであります。どちらが正確であるのかは、今となっては検証の手立てがないのですが、いずれにしろ、主イエスの十字架の出来事を過越祭と結びつけて考えていることには違いありません。過越祭とは出エジプトの際に、殺された羊の血を家の鴨居と柱に塗ったことで死を免れて、エジプトを脱出することが出来たことを感謝する祭であります。それと同様のことが、主イエスが小羊となって十字架に架かってくださることによって行われるという理解であります。
 
1節の後半を見ますと、イエスは、この世から父のもとへ移る御自分の時が来たことを悟り、世にいる弟子たちを愛して、この上なく愛し抜かれた、と記しています。主イエスは、この過越祭の時を、御自分がこの世から父のもとへ移る「御自分の時」だと悟られたというのであります。これを、<主イエスの置かれた状況が悪くなって、敵対者たちによって殺されて、天国へ行く時が来たことを覚悟された>、というように理解するなら、間違いでしょう。「御自分の時」というのは、主イエスが父なる神様から託された救いの御業をなさる決定的な時という意味であり、それは人々の思惑によって殺されるということではあるのですけれども、そのことが即ち神様の愛が全うされることであり、神様の御栄光を現すことになることを悟られた、ということであります。この時は、歴史上のいかなる時によっても代えることの出来ない特別な時であります。その決定的な時に当たって、主イエスは不甲斐ない弟子たちを、この上なく愛されたというのです。ここで「世にいる弟子たち」と訳されているところは、口語訳では「世にいる御自分の者たち」となっていました。そちらの方が原文のギリシャ語に近いのです。つまり、「世にいる弟子たち」というと、この時の弟子だけのように思ってしまいますが、ここで福音書記者が言おうとしているのは、筆者自身も含めて「世にいる主イエスの愛されている者たち」ということです。ですから、ここを読む私たちは、主イエスは「世にいる私たちを愛して、この上なく愛し抜かれて」、御自分が十字架に架かるべき時が来たと判断された、と読むべきなのであります。なぜ、主イエスは十字架にお架かりになろうとなさるのか。それは、ユダが裏切ったからだけではありません。ペトロや弟子たちが不甲斐なかったからでもありません。私たちが主イエスを理解せず、主イエスに従い切れない罪深い者たちであるからであります。その私たちを主は愛し抜かれて、私たちが罪の奴隷から救われるために、御自分が過越しの小羊になろうと決心された、ということであります。2000年も前の主イエスの十字架の死と私たちの不信仰とがどうつながっているのだ、と疑問に思われるかもしれません。しかし、神さまと私たちの関係、主イエスと私たちの関係というのは、私たちの考える時間や空間の観念を越えています。神さまの愛、主イエスが私たちを愛して下さる愛は、時空を越えて私たちに注がれています。私たちはそのことに気付かずに、ペトロと同じように、「あなたがわたしの足を洗ってくださるのですか」といぶかってしまいます。しかし、主イエスは私たちの気付いていない罪のためにも、御自分の命を捨てようとなさって下さるのであります。それが「愛し抜かれた」ということです。

2.弟子たちの足を洗う

3節から5節には、主イエスが弟子たちの足を洗われた様子がかなり詳しく書かれています。イエスは、父がすべてを御自分の手にゆだねられたこと、また、御自分が神のもとから来て、神のもとに帰ろうとしていることを悟り、食事の席から立ち上がって上着を脱ぎ、手ぬぐいを取って腰にまとわれた。それから、たらいに水をくんで弟子たちの足を洗い、腰にまとった手ぬぐいでふき始められた。このうち、3節に書かれていることは、1節で、「この世から父のもとへ移る御自分の時が来た」と書かれていたこととつながっています。要するに、主イエスの御生涯――その誕生から始まり、これから起る十字架の御業までの全てが、父なる神様の御心による、ということであります。繰り返しになりますが、決して成り行きから十字架にお架かりになる羽目になったとか、ユダをはじめとする弟子たちの裏切りによって、思わぬ結果になってしまったということではないということです。そのことを踏まえた上で、足を洗われた出来事も見なければならない、ということであります。主イエスは、食事の席から立ち上がられます。そこには、決然と十字架へ向われるお気持ちが表わされているように思います。また、「上着を脱ぎ」の「脱ぎ」という言葉は、「捨てる」という意味があります。「良い羊飼いは羊のために命を捨てる」と言われた時の「捨てる」と同じであります。主イエスの十字架の死を暗示しています。ですから、足を洗うという行為は、単なる謙遜な行為ではなくて、弟子たちのために、命を捨てるということを表わしているのであります。ついでにもう一つ言えば、この後12節で、「イエスは、弟子たちの足を洗ってしまうと、上着を着て、再び席に着」かれるのですが、この「着る」という言葉は、復活を意味する言葉が使われているのであります。つまり、主イエスは弟子たちの足を洗われることによって、十字架の死と復活の御業を指し示されたのであります。
 
また、足を洗うという行為は、当時の舗装されていない道を歩いて汚れた足を、家に入る前に洗うということですが、それは冒頭にも申しましたように、普通、奴隷や召使がやる仕事でした。しかし、奴隷だけではなくて、妻が夫の足を洗い、子供が両親の足を洗い、弟子が先生の足を洗うということもあったようです。いずれにしても、ここでは、足を洗ってもらうべきお方が、足を洗うべき弟子たちの足を洗われた、ということであります。ここで示されていることは、単なる「謙遜」以上のものであります。神の子であるお方が、罪に汚れた者たちのために命を捨てられるという十字架の御業が示されています。しかし、弟子たちには、まだそのことが分かる由もありません。

3.「決して洗わないで」

6節から10節までは、ペトロと主イエスの問答が記されています。シモン・ペトロのところに来ると、ペトロは、「主よ、あなたがわたしの足を洗ってくださるのですか」と言いました。今日の冒頭にも触れましたように、この問いは今日の主題であり、私たちの問いでもあります。ペトロがこう言ったのは、<先生の主イエスに自分の足など洗わせては申し訳ない>、という思いだったと理解出来ます。しかし、この思いの背後に、人間の傲慢さが潜んでいるということを見逃してはならないと思います。ペトロの中には、<足の汚れくらいは、主イエスに洗っていただかなくても、自分で洗うことが出来ます>という思いがあったでしょう。私たちも、<自分には色々と問題点があるのは分かっています。けれども、わざわざ主イエスのお手を煩わすには及びません>という思いがあるのではないでしょうか。そこに傲慢さがあります。私たちは自分の弱さに悩みます。しかし、どこかで、自分は誰かに頼らなくても生きていける、人の世話にはなりたくないという思いがあります。誰かの世話になるということは、その人に支配され、自分の自由が侵されることだと思ってしまいます。そして、主イエスに対しても同じように、仕えてもらうことに抵抗を感じ、主の助けを受ける必要がないと思ってしまうのであります。自立心を持つことは大切です。しかし、自分の弱さ、自分の問題点が見えなくなってしまうところに、大きな落とし穴があります。
 
ペトロの問いに答えて、7節で主イエスは、「わたしのしていることは、今あなたには分かるまいが、後で、分かるようになる」と言われました。「後で」とは何時でしょう。ペトロはこの最後の晩餐の後で、主イエスを知らないと言ってしまいます。(これは、先週学んだ通りであります。)そして、主イエスは独り十字架にお架かりになります。その時、ペトロは自分の弱さ、自分の罪に気付くのであります。しかし、この時はそのことに気付いていません。そして、8節にあるように、「わたしの足など、決して洗わないでください」と言ってしまうのであります。主イエスの救いを拒否しているのであります。これと同様のことを、私たちもしばしばやっているのではないでしょうか。主は私たちの足の汚れを洗おうとして下さっています。私たちの罪を洗い清めようとして下さっています。それなのに私たちは、主イエスのお世話にならなくても、自分で何とかなると思っているのであります。

4.「もしわたしがあなたを洗わないなら」

足を洗ってもらうことを拒否したペトロに対して、主イエスは、「もしわたしがあなたを洗わないなら、あなたはわたしと何のかかわりもないことになる」と答えられました。これはとても重いお言葉です。ペトロはこれまで弟子として、主イエスに密着した生活をして来ました。十分過ぎるほどの「かかわり」を持って歩んで来ました。しかし、足を洗っていただくということがなければ、つまり、自分の最も汚れた部分を差し出して清めていただくということがなければ、主イエスとの関係はなかったに等しい、と言われるのであります。私たちも、長年の教会生活を続けて来て、それなりの奉仕を献げて来たとしても、もし、罪に汚れた自分を主イエスの前に差し出すことがなければ、主イエスとは何のかかわりもないことになるのであります。私たちは自分の問題点や汚れが分かっているつもりでいます。そして主イエスを煩わせなくても、何とかやって行けると思っています。しかし、主イエスは私たちの汚れが簡単には落ちないことを知っておられます。私たちにこびりついた汚れであります。主イエスにしか洗い落とせない汚れであります。主イエスはその汚れを落とすためにこそ、この世に来られ、私たちと関わろうとされています。ここで主イエスにその汚れを洗ってもらわなければ、主イエスと何の関係もなくなってしまうのであります。私たちが主イエスと出会ったことも、こうして教会に来ていることも、何の意味もないことになるのであります。だからこそ今、主は私たちの最も汚れた部分に関わろうとして下さっているのであります。
 
主イエスの8節の言葉を聞くと、ペトロは9節で、「主よ、足だけでなく、手も頭も」と、訳の分からないことを言っております。ペトロはまだ自分の罪に気付いていません。そして、やがて裏切ってしまうことになります。しかし、主イエスはそのようなペトロをお見捨てになるわけではありません。「何のかかわりもないことになる」どころか、(先週聞きましたように)裏切りを予測して、鶏の鳴き声を用意されましたし、復活後には、ペトロを悔い改めにまで導かれ、もう一度弟子としての使命を果たすことが出来るようになるまで、深くかかわられるのであります。

5.「皆が清いわけではない」

この後、主イエスは10節で、こう言われました。「既に体を洗った者は、全身清いのだから、足だけ洗えばよい。あなたがたは清いのだが、皆が清いわけではない。」――この言葉は非常に難解であります。まず、「既に体を洗った者は」という意味ですが、一つの手懸りは、153節の言葉です。こう言っておられます。「わたしの話した言葉によって、あなたがたは既に清くなっている」と。つまり、主イエスの御言葉を聞く者とされたことによって、既に清くされている、ということです。弟子たちは主イエスの言葉を聞いて参りました。しかし、まだよく分かっていないので裏切るようなことになるけれども、そこを洗えばよい、という意味にとることが出来ます。このことと関連して、「既に体を洗った者」というのを、水による洗礼を受けた者と理解することも出来ます。洗礼を受けた者は、救いを約束された者であります。しかし、洗礼を受けた者でも、日々の生活を営むうちに、足が汚れてしまいます。罪を重ねてしまいます。この罪を主イエスによって洗い落としていただかなければ、神の国に入ることが出来ません。ここで「足だけ洗えばよい」とおっしゃったことを、聖餐を意味しているとする解釈があります。他の三つの共観福音書では、主イエスが最後の晩餐の時に聖餐を制定されたことが記されているのでありますが、ヨハネ福音書にはそれがなくて、その代わりのように、この足を洗われたことが書かれているのであります。それで、私たちが日々に犯す罪を、足を洗うこと、即ち聖餐に与ることによって清められるのだと解釈するのであります。このように理解すると、洗礼と聖餐という教会に与えられている二つの礼典の意味がつながって、私たちの罪からの救いが、両者によって確実にされて行くということが良く分かるのであります。
 
では、「あなたがたは清いのだが、皆が清いわけではない」というのはどういう意味でしょうか。この意味は11節に解説されているように、直接的には、主イエスを裏切ろうとしているユダのことであります。しかし、裏切ったのはユダだけではありません。ペトロも私たちも裏切るのであります。私たちはいつも、ユダになる可能性があります。神の国に入ることが出来なくなる可能性を持っています。しかし、主イエスはユダを見捨てようとしておられるわけではありません。この時足を洗っていただいた弟子たちの中にユダがはずされていたわけではないでしょう。この足を洗うという行為が十字架の購いを指し示しているとすれば、主イエスはユダのためにも命を捨てて、罪の贖いをされたのであります。しかし、ユダは最終的に主の愛を受け止めることが出来ませんでした。私たちはこの現実を厳しく受け止めなければなりません。

結.私たちを愛し抜こうと

主イエスは今日も、私たちの足を洗おうとなさっています。私たちが救いから洩れないために、御自分の命を注ごうとしておられます。しかるに私たちは、ペトロが「わたしの足など、決して洗わないでください」と言ったように、自分で洗えるかのように拒否してしまうのであります。そこには、救いから洩れるのではないかという危機感が欠如していると言わざるを得ません。そして、他人の問題点ばかり取り上げては審いております。しかし、真っ先に足を洗っていただかなければならないのは、私たち自身であります。そのことに気付くなら、ペトロのように救われます。そして、互いに審き合うのではなくて、14節で言われているように、互いに足を洗い合い、仕え合う者になることが出来るのであります。そうなるために、主イエスは今日も私たちに御言葉をもって語りかけて下さっていますし、御自身の命を差し出して、私たちを愛し抜こうとされているのであります。
 
祈りましょう。

祈  り

救い主イエス・キリストの父なる神様!
 
私たちの汚れた足を洗い清めるために、今日も御言葉において、主イエスをお遣わし下さいましたことを、感謝いたします。
 
どうか、主イエスの深い愛の御業を受け止めて、汚れた足を感謝をもって御前に差し出すことの出来る者とならせて下さい。またどうか、重荷を負っている方々、まだあなたの恵みに気づいていない方々のために、痛みを分かち合い、恥を負うことの出来る者とならせて下さい。そして、主の愛を一層深く覚え、御栄光を仰ぐ者とならせて下さい。
 
主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

米子伝道所 主日礼拝説教<全原稿> 2012年4月1日  山本 清牧師 

 聖  書:ヨハネ13:1−15
 説教題:「弟子の足を洗う」
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