序.イエスと一緒にいられるか

今日、与えられている箇所は、ペトロが主イエスを知らないと三度言った、よく知られた場面であります。説教の題を「イエスと一緒にいる」といたしました。これは、67節で、女中の一人が言った、「あなたも、あのナザレのイエスと一緒にいた」という言葉からとったものです。「一緒にいる」というのは、英語で言えば、be withであります。「共にいる」ということであります。ペトロは主イエスの弟子として、いつも一緒に行動していました。しかし今、主イエスは捕らえられて、大祭司の屋敷で裁判を受けておられます。ペトロはその席にまで一緒に行くことは出来ませんでした。そして、大祭司に仕える女中に「あなたも、あのナザレのイエスと一緒にいた」と言われると、「分からない」と言って、それを打ち消してしまいます。その後、もう一度女中が「この人は、あの人たちの仲間です」と言われると、再び打ち消し、今度は、居合わせた人々が「あの連中の仲間だ」と言われると、「そんな人は知らない」と言うのであります。こうして、ペトロは主イエスと一緒にいたことを三度も否定することによって、心はどんどん主イエスから遠く離れて行きます。主イエスと一緒ではなくなって行くのであります。あるいは、もともと主イエスの弟子として、一緒に行動していた時から、心は必ずしも一緒ではなかったのかもしれません。それが、女の言葉によって顕在化しただけなのかもしれません。弱いペトロの姿が露呈されてしまうのであります。
 
このようなペトロの姿は、私たちに大きな問いを突きつけます。それは、<お前は、どんなことがあっても、主イエスと一緒にいることが出来るか>という問いであります。私たちは、出来ることなら主イエスと一緒にいたいと思っています。しかし、あのペトロも躓いたのであります。私たちはどうなのでしょうか。――今日は、この問いを念頭に置きながら、与えられた聖書の箇所を見て行きたいと思います。

1.御一緒に死なねばならなくなっても

今日の箇所に入る前に、ペトロに関して思い起こしておかなければならないことがあります。それは、主イエスと弟子たちとの最後の晩餐が行われた後のことであります。この14章の27節以下の段落を御覧下さい。
 
イエスは弟子たちに言われた。「あなたがたは皆わたしにつまずく。『わたしは羊飼いを打つ。すると、羊は散ってしまう』と書いてあるからだ。しかし、わたしは復活した後、あなたがたより先にガリラヤへ行く。」するとペトロが、「たとえ、みんながつまずいても、わたしはつまずきません」と言った。イエスは言われた。「はっきり言っておくが、あなたは、今日、今夜、鶏が二度鳴く前に、三度わたしのことを知らないと言うだろう。」ペトロは力を込めて言い張った。「たとえ御一緒に死なねばならなくなっても、あなたのことを知らないなどとは決して申しません。」皆の者も同じように言った。2731節)
 
ここで主イエスはゼカリア書の言葉を引用された中で、「羊は散ってしまう」と言っておられます。弟子たちが主イエスと一緒におれなくなる、ということを予告なさったのであります。それに対して、ペトロは31節で、「たとえ御一緒に死なねばならなくなっても、あなたのことを知らないなどとは決して申しません」と断言しているのであります。どこまでも一緒に行くという覚悟を披瀝しているのであります。しかし、すでにここに、主イエスと一緒にいないペトロの姿を見ることが出来るのではないでしょうか。主イエスのおっしゃっている言葉を否定して、自己主張しているからであります。
 
私たちも、主イエスの言葉に謙虚に耳を傾けなければなりません。主イエスは27節で、「あなたがたは皆わたしにつまずく」と明言されています。私たちは皆、主イエスに躓くのであります。ずっと主イエスと一緒にいることは出来ない者なのであります。

2.下役たちと一緒に

次に、53節以下を御覧ください。ここは大祭司の館で行われている裁判の場面ですが、その間、ペトロがどうしていたかが書かれています。人々は、イエスを大祭司のところへ連れて行った。祭司長、長老、律法学者たちが皆、集まって来た。ペトロは遠く離れてイエスに従い、大祭司の屋敷の中庭まで入って、下役たちと一緒に座って、火にあたっていた。53,54節)――主イエスが捕らえられたとき、50節に書かれているように、弟子たちは皆、イエスを見捨てて逃げてしまったのであります。けれどもペトロは、主イエスのことが心配になって、主イエスが裁判を受けている大祭司の屋敷の中庭まで入って来ました。しかし、54節に、「ペトロは遠く離れてイエスに従い」とありますように、もはや、主イエスと一緒ではありません。そして、「下役たちと一緒に座って」とありますように、主イエスを捕らえた人たちの側の下役たちと一緒に座っていたのであります。これは主イエスと一緒にいたいという気持ちの表れと見ることも出来ます。あるいは、いよいよの場面になれば、飛び出して行って、主イエスをお助けしようと思っていたのかもしれません。しかし、初めから裁判の席の近くまで行って、被告の仲間だと分かるような態度で傍聴しようとはしていません。野次馬の一人を装って、火にあたっているのであります。下役たちと一緒にいることで、安全圏に身を置いているのであります。こうして、主イエスとの距離は離れてしまっているのであります。
 
私たちもまた、主イエスとの間にこのような距離の置き方をすることがあります。自分が教会に行っていることやキリスト者であることを伏せたままにしておく場合があります。それは、恥ずかしいとか面倒臭いということもあるかもしれませんが、自分の自由が束縛されることを避けるためであることがあります。それは主イエスと距離を置くことであります。また、教会に行っていることやキリスト者であることを明らかにしている場合でも、キリストの体である教会との間には一定の距離を保って、責任ある形で関わろうとしないようなあり方も、この場合のペトロに似ていると言えるかもしれません。主イエスと一緒にいるということは、具体的には教会に行き、礼拝を中心にした生活をするということであり、そのことで受ける辱めや不利益があるとすれば、それをキリストと共に担っていくということであります。ところが私たちは、そこまでの勇気や覚悟を持てない場合があります。そして、下役たちと一緒に座っていたペトロと同じように、知らず知らずのうちに、主イエスとの間に溝を作ってしまうのであります。

3.「ナザレのイエスと一緒にいた」

さて、ここから今日の箇所に入りますが、ペトロが大祭司の館の下の中庭で、何食わぬ顔で火にあたっていると、大祭司に仕える女中の一人が来て、ペトロが火にあたっているのを目にすると、じっと見つめて、こう言いました。「あなたも、あのナザレのイエスと一緒にいた。」――ペトロは主イエスとの関係を隠しているつもりでありましたが、隠し通すことが出来ません。これまで主イエスと一緒であったことは明るみに出されないままではおかないのであります。
 
主イエスが漁師であったペトロを選んで弟子にされました。それはペトロの方から望んで弟子にしてもらったというより、主イエスの方がペトロと一緒にいることを望まれて、招き入れられたのでありました。3章13節以下に、主イエスが十二人を使徒に任命された時のことが記されていますが、そこに、「彼らを自分のそばに置くため」(14)であったと書かれています。主イエスはそのようなペトロとの関係を隠そうとはされませんから、ペトロがどんなに隠そうとしても、隠れることは出来ないのであります。ペトロが主イエスと一緒であったことに気づいたのは、一人の女中でありました。特別な権力や資格を持っている人ではありません。しかし神さまは、そのような一人の女中の何気ない言葉を用いてペトロの真実を明らかにされるのであります。
 
私たちと主イエスの関係も同様です。もともと私たちの方から主イエスの方ににじり寄ったというよりも、主イエスの方から私たちの方へ近づいて下さり、私たちと一緒にいることを望まれたのであります。ですから、私たちがそのことを隠そうとしても、否定しようとしても、忘れようとしても、出来ないのであります。主イエスがそのことを明らかにされるからであります。私たちは主イエスの存在が疎ましく覚えることがあるかもしれません。主イエスと距離を置きたくなることがあるかもしれません。キリストの存在が邪魔に思えることがあるかもしれません。しかし、主イエスが私たちと一緒にいて下さろうとしている以上、それを否定することは出来ません。私たちの信仰は不安定であります。手前勝手な信仰であります。ある時は主イエスが一緒にいて下さることがとても慰めに思えますが、ある時は主イエスから逃げたい気持ちになることがあります。しかし、主イエスは私たちから離れられることはありません。そして、私たちが主イエスと一緒であることを明らかにされるのであります。信仰の確かさというのは、この不確かな私たちをも捉えて、一緒にいて下さる主イエスの確かさに他ならないということであります。

4.そんな人は知らない

ペトロは、思いがけなく一人の女中によって自分の真実を明かされたことで、ドギマギしたのでしょうか。すぐ打ち消して、「あなたが何のことを言っているのか、わたしには分からないし、見当もつかない」と言いました。もし大祭司が言ったのであれば、ペトロは堂々と主イエスの弟子であることを表明したかもしれません。けれども、女中の言ったことなので、まともに答える必要はないと考えたのでしょうか。しかし、裏切りは小さなことから始まります。ペトロは軽く受け流したつもりであったかもしれませんが、主イエスとの間の裂け目を広げてしまうことになります。
 
ペトロはその場にいるのが辛くなったのでしょうか、出口の方へ出て行くと、女中はペトロを見て、周りの人々に、「この人は、あの人たちの仲間です」とまた言いだしたのです。女中が最初に言った時は、ペトロを咎めるつもりはなかったのかもしれません。しかし、それを打ち消されたので、かえって追求したくなったのでしょう。周囲の人々に言いふらしました。ペトロは、再び打ち消してしまいます。すると今度は、女中だけではなく、居合わせた人々が言い始めます。「確かに、お前はあの連中の仲間だ。ガリラヤの者だから」。ガリラヤ地方の訛りが出てしまったのでしょう。
 
すると恐ろしいことに、ペトロは呪いの言葉さえ口にしながら、「あなたがたの言っているそんな人は知らない」と誓い始めたのであります。「呪いの言葉さえ口にした」とありますが、ペトロは誰を呪ったのでしょうか。説明がないのですが、考えられることは、<もし自分が嘘をついているなら神の呪いを受けてもよい>という意味で逆説的に、自分への呪いの言葉を口にしたのか、あるいは、ここに来て、主イエスによって弟子とされて、このような辛い目に遭わせられたことに対して主イエスを呪ったということなのか、あるいは、自分は主イエスの仲間ではないということを示すために、わざと主イエスに対する呪いの言葉を吐いたのかもしれません。いずれにしても、呪いの言葉を吐いた上で、「そんな人は知らない」と誓い始めたのでありますから、主イエスとの間の距離をますます広げることになって、罪の深みへと入り込んで行ったのであります。初めは、「たとえ御一緒に死なねばならなくなっても」というような元気のよい言葉を吐きました。主イエスを否認するつもりなど全くなかったと思われます。主イエスが捕らえられ裁判にかけられると、心配になって、勇気をもって大祭司の屋敷の庭までやって来ました。しかし、人間的な弱さということでしょうか。一人の女の言葉によって、主イエスと一緒にいるという関係はペトロの方から簡単に崩れてしまったのであります。

5.イエスが言われた言葉を思い出して

ところが、その崩れかけた関係は、主イエスの方から修復されます。と言うよりも、主イエスは予めペトロの弱さを御存知の上で、救いの道を備えておられたのであります。
 
ペトロが中庭から出口の方へ出て行こうとした時に、一度鶏が鳴いたのですが、今、「そんな人は知らない」と誓い始めるとすぐ、鶏が再び鳴いたのです。するとペトロは、最後の晩餐の後で言われた主イエスの言葉を思い出します。主は「鶏が二度鳴く前に、あなたは三度わたしを知らないと言うであろう」とおっしゃっていました。ペトロは、主イエスがあの時に既に自分のことを知っておられたことが分かりました。ペトロ自身は、こんな展開になるとは夢にも思っていませんでした。そんなペトロ自身よりも、主イエスの方が自分のことを知っておられたことに気づかされたのであります。
 
ここで、ペトロの弱さを非難したり、どこに原因があったのかを分析してみても、あまり意味はありません。大切なのは主イエスの言葉であります。主イエスは、ペトロの弱さも、苦悩も、そして否認してしまうことも御存知の上で、それを憐れんで、いざその事が起ってしまう時に、彼が立ち直れるように、あらかじめ語って下さっていたことが分かったのであります。主イエスの言葉が人を立ち直らせ、不確かな信仰をも立ち直らせるのであります。鶏の鳴き声というのは、やがて朝が明けることを告げます。この場合は、ペトロが陥った暗闇も、やがて明けることを告げる声となります。
 
主イエスの言葉を思い出したペトロは、いきなり泣きだしました。これは、悔し泣きではありません。自分の愚かさ弱さを嘆いて泣いたのでもなく、自分の至らなさを悔やんで泣いたのでもありません。そうではなくて、主イエスの言葉を思い出して泣いたのであります。主イエスがここまで自分のことを知っておられ、その自分を憐れんで備えて下さっていた、その深い愛を知って、泣いたのであります。
 
ペトロは主イエスの近くにいるつもりでおりました。しかし、はっきり言って、主イエスを裏切ってしまいました。主イエスと一緒にいることが出来なかったのであります。大祭司の屋敷の中庭まで行ったことも、ペトロを弁護することにはなりません。ペトロは主イエスを見捨ててしまったのであります。しかし、主イエスはペトロをお見捨てにはなりませんでした。初めから今までずっとペトロと一緒にいて下さいました。そのことに今、ペトロは気づいたのであります。
 
ペトロが泣き出したのは、彼が悔い改めたからだと言えます。しかしその意味は、ペトロが深く反省した、という意味ではありません。もちろん反省もしたでしょうが、それ以上に大切なことは、主イエスの愛に気付いたということであります。主イエスが一緒にいて下さることに気付かされるということであります。
 
私たちも、自分のしたことを悔いるとか、自分の失敗で泣くことがあるかもしれません。しかし、単なる反省とか、悔し涙というものは悔い改めではありません。主イエスの言葉を思い出し、主の愛に気付くのでなければ、真の悔い改めにはなりません。けれども、もし、ペトロと共に、主イエスの言葉と愛に気付いて、激しく泣くことが出来るならば、主イエスが私たちの人生の中に入り込んで来られます。それが、悔い改めということであり、信仰を持つということであります。
 
教会は、キリストの赦しの愛を知る者の共同体であります。個人も教会も色々な過ちを犯します。不幸な出来事が起ります。しかし、その中で、誰が悪いといって裁いたり、自分の間違いに気付くだけでは、不幸な出来事を克服したことにはなりません。自分たちの罪に気付き、それを赦すために十字架に向かわれた主イエスの愛に気付き、その主イエスが今も私たちと一緒におられることに気付くのでなければ、不幸な出来事からの本当の解放はあり得ません。

結.主は彼らと共に働き

最後に、このマルコによる福音書の最後の1619節以下の箇所を御覧下さい。主イエスが昇天される時の様子が書かれています。
 
主イエスは、弟子たちに話した後、天に上げられ、神の右の座に着かれた。一方、弟子たちは出かけて行って、至るところで宣教した。主は彼らと共に働き、彼らの語る言葉が真実であることを、それに伴うしるしによってはっきりとお示しになった。19,20
 
ここに、「主は彼らと共に働き」という言葉があります。主イエスが教会の群れと一緒におられる、ということであります。「一緒におられる」ということは、単にそばにおられて、何かがあれば助けて下さる、というだけの意味ではありません。主イエスが終始ペトロと一緒におられたように、<主イエスが私たちの過ちのために命を投げ出すまでに寄り添って下さる>、ということであります。そして、私たちが語る言葉が真実であることを、それに伴うしるしによってはっきりとお示しになるのであります。
 
感謝して祈りましょう。

祈  り

主イエス・キリストの父なる神様!
 
今日も、主イエス・キリストにおいて私たちと一緒にいて下さり、真実な御言葉を与えられることが出来ましたことを感謝いたします。
 
私たちは弱く、主イエスと一緒にいることに疲れたり、主が一緒にいて下さることを忘れて恐れたりする者でございます。そのような私たちをどうかお見捨てになることなく、御言葉を語り続けて下さり、主が一緒にいて下さることの恵みを深く覚えることの出来る者とならせて下さい。試練の中にあります者に、どうか主が寄り添って下さり、あなたの恵みをより深く覚える機会として下さい。って祈ります。アーメン。

米子伝道所 主日礼拝説教<全原稿> 2012年3月25日  山本 清牧師 

 聖  書:マルコ14:66−72
 説教題:「イエスと一緒にいる」
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