序.良いこととは何か

今、読んでいただいたマルコによる福音書1439節に書かれている出来事は、教会にしばらく来ている人なら、一度はお聞きになったことがあると思います。4つの福音書で少しずつ違いますが、いずれにも書かれている記事で、最後の9節にも書かれていますように、世界中どこでも、福音が宣べ伝えられる所では、必ず語り伝えられている出来事であります。
 
この出来事で問題になっていることは、女が主イエスに香油を注いだ行為が、良いことであったのか、それとも無駄な行為であったのかという点であります。女のした行為を無駄だとしてとがめた人たちの言い分を、私たちも<尤もである>と思えるのに対して、主イエスは「良いことをしてくれた」と言われました。そして、その理由として言われたことは、主イエスがいつまでも一緒にいるわけではないことと、埋葬の準備をしたことになるからということでありました。確かに、主イエスの十字架の死の時が迫っていたのであります。しかし、まだ生きておられる主イエスに香油を注いでも、埋葬の準備にはなりませんし、もっと別の無駄のない仕方で主イエスに対する愛を表すことも出来たのではないかと思いますし、貧しい人々に施すことは、この切迫した時機ではあっても大事なことで、決して否定されるようなことではないのではないか、という気もして来るのであります。皆様はどうでしょうか。<主イエスがおっしゃることは尤もだ>と納得することが出来れば幸いであります。しかし、納得するということは、単に2000年前にこの女がしたことに意味があると認めることに留まりません。納得するということは、私たちもこの女と同じようにすることにつながらなければおかしいのであります。この女と主イエスの関係が私たちと主イエスとの関係にならなければ、この女の行為を納得したことになりません。私たちが、女のしたことに何かしら納得できないところがあるのは、この女のようには出来ないからであります。
 
今日は説教の題を「良いこととは」といたしました。「私たちが為すべき良いこととは何か」ということを学ぶということであります。主イエスの説明を聞けば、この女のしたことが「良いこと」であることは、ある程度の理解は出来るのですが、私たちも同じように出来るかどうかは別問題であります。同じようにすると言っても、もちろん、私たちが主イエスの頭に香油を注ぐということではありません。主イエスと女との関係と、主イエスと私たちの関係が同じような関係になれるかどうかということであります。そこには大きな隔たりがあるのではないでしょうか。けれども、同じような関係になれなければ、この出来事を心から納得したことにならないのであります。
 しかし、今日、この箇所が私たちに与えられているということは、神様がこの箇所を通して、私たちと主イエスとの関係を、この女と主イエスとの関係と同じようにしようとしておられるからであります。今、私たちの上に聖霊において主イエスの御心が働くことを信じて、この箇所を見て行きたいと思います。

1.指導者たちがしようとしていたこと

まず、この時の状況を確認しておきましょう。すぐ前の141節を見ていただきますと、さて、過越祭と除酵祭の二日前になった、とあります。受難週の水曜日のことです。過越祭と除酵祭はいずれも、イスラエルの民がエジプトを脱出したことを記念する祭であります。出エジプトというのは、イスラエルの民が奴隷状態から救い出された出来事であって、神様の恵みを示す最も重要な出来事でありました。二つの祭は、もとは別々の祭であったのですが、この頃には同じ時期に行われたようで、過越祭は一日だけでしたが、除酵祭は1週間続きました。過越祭には神殿で小羊が屠られて、それを各家庭に持ち帰って、晩餐をしました。それから1週間、種を入れないパンを食べる除酵祭が続くわけです。
 
次に、1節の続きと2節を読みます。祭司長たちや律法学者たちは、なんとか計略を用いてイエスを捕らえて殺そうと考えていた。彼らは、「民衆が騒ぎだすといけないから、祭の間はやめておこう」と言っていた。――彼らは以前から主イエスを捕らえようとしていたのでありますが、この祭の時期には地方からも大勢の人々がエルサレムにやって来ていて、彼らの多くは、主イエスに対して大きな期待を抱いていましたから、主イエスを捕らえると騒動が起こる可能性がありました。それはローマを刺激することになるので、まずいと考えたのでしょう。
 
ところが、今日の箇所のすぐ後の10節以下には、イスカリオテのユダの裏切りのことが書かれています。彼は主イエスを祭司長たちに引き渡す時を狙っていました。そして、12節以下にありますように、除酵祭の第一日、すなわち過越の小羊を屠る日(これは木曜日のことと考えられます)に主イエスは弟子たちと最後の晩餐をなさって、パンとぶどう酒で犠牲の死のことを示されました。その後、ゲッセマネで祈りをなさった直後に、ユダが祭司長たちを引き連れて主イエスを捕らえにやって来るのであります。こうして、金曜日には十字架にお架かりになるのであります。祭司長・律法学者たちが考えたスケジュールよりも事が早く進んだのであります。神様は、彼らの計略を用いて、救いの御計画を進められます。しかし、タイミングは彼らの思惑をずらされて、小羊が屠られる過越祭が行われる時に合わせて行われるのであります。なぜなら、主イエスの十字架は、主が犠牲の小羊になられる出来事であり、それが罪の奴隷から解放される真の救いの御業であるからであります。
 
さて、今日の箇所の出来事は、そのような緊迫した状況のもとで、神様の御計画が着々と進められる中で行われたということであります。ここに登場する女は、そうした状況について詳しく知っているわけではありません。しかし、彼女もまた、神様の救いの御業の一環に組み込まれて、ここで用いられることのなるのであります。

2.女のしたこと――香油注ぎ

3節にありますように、主イエスはエルサレムに程近いベタニアで重い皮膚病の人シモンの家にいて、食事の席に着いておられました。当時は重い皮膚病の人は隔離されなければなりませんでしたから、シモンはこの時はもう癒されていたのでしょう。恐らく、主イエスに癒していただいたことを感謝して、主イエスや多くの人々を食事に招いたのではないかと考えられます。
 
その食事の席に、一人の女が入り込んで来ました。名前は記されていません。ヨハネ福音書ではベタニアのマルタ、マリア、ラザロ兄弟姉妹のマリアだと書いており、ルカ福音書では良く似た出来事が書かれていて、「罪ある女」としていますが、別の出来事かもしれません。ともかくマルコは名前を伏せております。それは、誰もがこの女になり得るということを示したかったからではないかと思われます。その女が、純粋で非常に高価なナルドの香油の入った石膏の壷を持って来て、それを壊し、香油をイエスの頭に注ぎかけたのであります。ナルドの香油というのは、ヒマラヤ原産のナルドという植物の根から採るものだそうで、有名な高級品だったようで、5節には、それを三百デナリ以上に売ったらよかったという人がいたと書かれています。1デナリが労働者一日分の給料ですから、今の日本円で言うなら300万円もするような高価なものです。石膏の壷に入れられていたのを壊して頭に注ぎかけました。壊わしたら、そこいらがベトベトになって困るのではないかと思うのですが、そんなことはお構いなしに注ぎました。
 
香油は普通、どのように使われたかというと、恋人の前に出る女性が自分の頭や髪の毛につけたことが雅歌の出ていますのと、賓客をもてなす際に注ぐという習慣もあったようですし、死者の葬りの際に死体の臭いを打ち消すためにも用いられたようですが、もう一つ忘れてならないのは、王や祭司や預言者の任職の時に、頭に油を注ぐということがありました。ここで女がどういう意味で、またどういう思いでナルドの香油を注いだのかは分かりません。ともかく、常識的な行動ではありませんでした。主イエスを愛する気持ちがあったにしても、あるいは非常に尊敬する心があったにしても、行動は異常であります。彼女は、これから行われる主イエスの御業について知っている筈はありませんが、主イエスの言動や、周りの状況を見聞きして、主イエスにとって何か大変なことが起りそうだということを、本能的に感じ取ったのかもしれません。そして、今、主イエスに対して自分が出来る最高のことをしておきたい、どんな手段をもってしても主イエスとの関係を結びたいと思って、前後のことを何も考えず、周りのこともお構いなしに、この行動に走ったのではないかと思われます。

3.女のしたことへの批判

この異常な行動に対して、そこにいた人たちから怒りの声が噴出しました。4、5節にこう書かれています。そこにいた人の何人かが、憤慨して互いに言った。「なぜ、こんなに香油を無駄遣いしたのか。この香油は三百デナリオン以上に売って、貧しい人々に施すことができたのに。」そして、彼女を厳しくとがめた。――ヨハネ福音書では非難をしたのはイスカリオテのユダであったとしておりますが、マルコはここでも「そこにいた人の何人かが」と書いていて、特定していません。これも、先ほどと同様に、誰もが非難したくなる行動であったからでありましょう。「何人か」の中には、私たちも入っているのではないでしょうか。<たとえ主イエスに対する愛を表すのであっても、あるいは主イエスに対して尊敬の念を示すのであっても、何も壷を壊して全部注ぐことはない>、と考えるのが常識であります。<必要なだけ注げば、残りは、それこそ貧しい人々への施しのために売った方が役に立つ>と考えるのが常識であります。
 
主イエスと私たちの関係において、このように常識的であることが良いことなのかということを、改めて考え直さなければなりません。私たちは特定の宗教や特定の教祖のような人に入れ込むことを警戒します。オーム事件以来、マインドコントロールということが恐ろしいものであることを知りました。最近も、オセロ中島という芸人が占い師のマインドコントロールにかかっているのではないかということが、盛んに報道されました。香油を注いだ女とオセロ中島を同列に扱うことは出来ませんが、私たちは主イエスに対しても、あるいはキリスト教の信仰を持つということに対しても、オームの麻原彰晃やオセロ中島の占い師に対して抱く警戒心と同じような警戒心を持ってしまうことがあるのではないか、ということであります。主イエスと麻原彰晃や占い師を同一視するようなことはしないまでも、主イエスと私たちとの関係において、あまり深入りせずに、ほどほどにしておいた方が良いのではないかとか、色々な価値観がある中で、聖書やキリスト教の価値観だけに人生を賭けるのは危険ではないか、という思いがどこかにあるのではないでしょうか。あるいは、キリスト教の社会貢献活動が明治時代のように先進的でなくなっている現代において、「礼拝、礼拝」と言っているだけでは駄目なのではないか。もっと社会の中に出て行って、福祉活動に貢献しなければ、伝道も進まないのではないか、それこそ貧しい人々や困っている人々のために時間やお金や労力を割く方が、大切なのではないか、といった批判をする人もあります。こうした批判に、私たちも耳を傾けなければなりません。主イエスも貧しい人々や困っている人を放っておいてよいと考えておられるわけではなく、むしろ積極的にそうした人々に手を差し伸べられました。しかし、キリストを見失って、ただ奉仕活動を懸命にしても、そこには人間の思い上がりや偽善が出て来るだけになってしまいます。人間の行いは、どんなに立派に見えることでも、罪を孕んでいます。自分と同じように出来ない人を裁いてしまったり、自分が誉れを受けようとしてしまいます。主イエスによって罪を知らされ、赦され、主を仰ぐことがなければ、せっかくの奉仕も意味を失うのであります。

4.「良いことをしてくれた」

さて、女に対する人々の批判に対して、主イエスは6節から8節にかけて、こう言われました。「するままにさせておきなさい。なぜ、この人を困らせるのか。わたしに良いことをしてくれたのだ。貧しい人々はいつもあなたがたと一緒にいるから、したいときに良いことをしてやれる。しかし、わたしはいつも一緒にいるわけではない。この人はできるかぎりのことをした。つまり、前もってわたしの体に香油を注ぎ、埋葬の準備をしてくれた。」
 
主イエスは女が香油を注いだことを「わたしに良いことをしてくれた」とおっしゃっています。女は、自分の損得を度外視したのはもちろん、貧しい人のことさえも忘れて、ただひたすら主イエスを愛し、主のために出来ることをしたいと思って、香油を注ぎました。そのことを主イエスは「良いこと」だとおっしゃいました。「良いこと」というのは、単に倫理的に善いということでなく、神様に喜ばれる美しい振舞いという意味があります。主イエスはこの女の行為をとても喜んでおられるのであります。しかし、貧しい人々に施しをするより自分に精一杯のことをしてくれたことを喜ばれるなんて、あまりにも自己本位ではないか、と言いたくなるかもしれません。けれどもそれは、この女の行為を非難した人々と同じように、建前に囚われた考えであります。主イエスは今、人々のために御自分の命を献げようとしておられます。自分を計略にかけて、亡き者にしようとしている人々の罪のためにも死のうとしておられるのであります。この女はそのことまでよく分かっているわけではありません。しかし、直感的に主イエスが大変なことになりそうだと感じながら、今出来ることをしようと思ってしてくれたことを、主は喜んでおられるのであります。
 
主イエスはここではっきりと、「わたしはいつも一緒にいるわけではない」とおっしゃいます。死の時が迫っていることを告げられたのであります。主イエスは「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」(マタイ2820)と約束されるお方ですが、その言葉と矛盾するわけではありません。地上のお体で一緒におられる時間は、もう残り少ないのであります。その主イエスに今出来る精一杯のことをしたことは「良いこと」であり、神様も喜ばれることなのであります。貧しい人々には、しようと思えばいつでも出来るのであります。
 
主イエスは更に、「前もってわたしの体に香油を注ぎ、埋葬の準備をしてくれた」とおっしゃいました。この女はそこまで考えていたわけではないでしょう。しかし、主イエスはそのように受け取って下さったのであります。まだ生きておられる主イエスの体に香油を注いでも、葬りの準備にはならないではないか、という反論は主イエスのお心を理解していないことになります。結局、主イエスが十字架の上で息を引き取られてから墓に収めるまでには時間がなくて、女弟子たちも主のお体に香油を塗ることは出来ませんでした。ですから、復活の朝に香油を持って墓に向かうことになるのですが、その時は、既に主イエスのお体は墓にはなく、香油を塗ることはなかったのであります。そういう意味で、葬りの用意をしたのは、この女だけであったのです。彼女は葬りの用意をするという自覚があったわけではありません。愚かなことをしたに過ぎないとも言えるのであります。しかし、主イエスはその愚かさを喜んでおられるのであります。この女のしたことを非難した人々の方が、筋が通っています。自分たちは正論を言っているつもりです。しかし、主イエスとの本当の出会いは、この女のような愚かさにおいて起るのであります。非難した人たちのように計算ばかりしていても、屁理屈ばかり言っていても、主イエスに出会うことは出来ません。今、私たちに声をかけて下さり、今、私たちのために自分を献げ尽くそうとしていて下さるお方のために、私たちが出来ることを精一杯にすることを、主はお喜びになるのであります。今、私たちが行っている礼拝というのは、そのような、私たちが献げる精一杯の行為なのであります。

結.この人のしたことも記念として

最後に主イエスは9節でこう言われました。「はっきり言っておく。世界中どこでも、福音が宣べ伝えられる所では、この人のしたことも記念として語り伝えられるだろう。」
 
この言葉は、この女の人にとっても、また彼女を非難した人たちにとっても、驚くべき言葉であったに違いありません。彼女がしたことは、実質的には何も役立つことではありませんでした。しかし、この女は誰も為し得なかった、主イエスの葬りの準備をいたしました。それだけではありません。後になって分かったことですが、先ほど少し触れましたように、香油を注ぐということは、王や祭司や預言者の任職の時に行われることでありました。主イエスは十字架の御業によって、真の王となられ、また神と人間との間の執り成しをされたという意味で真の祭司となられ、また、その購いの御業によって、神の赦しの御言葉を語られたという意味で、真の預言者となられたのであります。主イエスがこの三つの職につく任職の油注ぎという大事な役割を、この女がしたのであります。ですから、「世界中どこでも、福音が宣べ伝えられる所では、この人がしたことも記念として語り伝えられる」のであります。事実、こうして聖書に書き残されて、世界中で覚えられていますし、今日も、私たちがそのことを覚えているのであります。
 
そして、更に付け加えるならば、主イエスは、私たちが主イエスのために行う精一杯の献げ物、私たちが今日行っている礼拝をも、この女のしたことと同じように喜んで下さるということであります。礼拝という行為は、何も生み出さない無駄な行為にも見えます。礼拝で献げる時間や労力や献げ物を、それこそ貧しい人々や東日本で震災に遭われた人々のために捧げた方が有用なのではないかとさえ思えます。しかし、ここで心からの礼拝を献げることこそ、神様が最も喜んで下さる最高の事柄なのであります。お祈りをいたします。

祈  り

恵み深い主イエス・キリストの父なる神様!
 
主イエスに香油を注いだ女のしたことを通して、私たちをも御前にぬかずき、礼拝を献げる者として下さいましたことを感謝いたします。
 
この女がまだ知らなかった主イエスの十字架の御業を、私たちは知っております。そこに示されているあなたの赦しの愛の大きさを覚えて、私たちにはその恵みにお応え出来るものが何もないことを覚えます。しかしながら、今日の物語を通して、私たちの精一杯の献げ物を、あなたは喜んで受け取って下さることを知らされました。ありがとうございます。どうか、いつも精一杯の礼拝を献げ続けることが出来るようにさせて下さい。
 
主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

米子伝道所 主日礼拝説教<全原稿> 2012年3月18日  山本 清牧師 

 聖  書:マルコ14:3−9
 説教題:「良いこととは」
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