「もし、だれかが、『なぜ、そんなことをするのか』と言ったら、『主がお入り用なのです。すぐここにお返しになります』と言いなさい。」                   (マルコによる福音書113

 主イエスのエルサレム入城の記事が4福音書に記されるほど重要視されているのは、一つには、主イエスがエルサレムで行おうとされていることを象徴的に示しているからであり、今一つは、子ろばを調達されたことを通して、私たちが主の御業に用いられることを暗示しているからである。
 主イエスが並々ならぬ決意をもってエルサレムに向かわれ(1032)、子ろばに乗って入城されたのは、ゼカリア99に記された真の王の到来を示しており、人々が服や葉の付いた枝を道に敷いたのは、詩編11825以下の、巡礼者を祭司が祝福する言葉が主イエスにおいて成就したと受け取られたからである。
 この場面に登場するもののうち、まず「二人の弟子」は、主イエスの命令に初めは当惑したと思われるが、素直に従ったところ、主が言われた通りに子ろばが用意されており、調達することが出来た。そこには、御業に必要なものは全て主が備えて下さることが示されている。それ故、私たちが困難と見える課題に直面しても、思い悩む必要はないし、逆に、成功しても誇るのは誤りであることが教えられる。
 子ろばを管理していた人が、なぜすぐに貸してくれたかについて、事前に連絡があったなどと合理的に解釈することは福音書の意図とは異なる。謎ではあるが、そこには主イエスの不思議な力が働いたと受け取るべきである。私たちにも「主がお入用です」との言葉が届くことがある。その際、それが何の役に立つのか、自分にとって益があるのかが分からなくても、主が最も有効に用いて下さる筈だと信じて従うべきである。
 子ろばは見栄えがせず、勇猛でもないが、忍耐強く寡黙である。それは、平和の君、十字架の主をお乗せするのに相応しい。私たちが用いられるのも、見栄えの良さや力の強さによるのではない。また、「まだだれも乗ったことのない子ろば」が選ばれたことは、私たちも、世の営みに使い古されていない初穂を献げなければならないことを示す。私たちの時間や労力や持ち物も、まず、主に献げることを優先すべきであることを教えられる。
 多くの人々(群衆)が歓呼して主を迎えた。彼らはローマの支配から解放する王を期待したが、主イエスは罪から解放する王であった。私たちも、主を利用して自分のために仕えさせようとするのでなく、真の救いの王である主に主権を明け渡して仕えるとき、救いに入れられるのである。

米子伝道所 主日礼拝説教<要 旨> 2012年3月11日  山本 清牧師 

 聖  書:マルコ11:1−11
 説教題:「主が用いてくださる」
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