序.主の御業にどう用いられるか

今日与えられたマルコ福音書11111節の箇所は、普通、「エルサレム入城」と呼ばれています。4つの福音書に共通して出ている記事は、十字架と復活の出来事の他は極く限られているのですが、「エルサレム入城」の出来事はその一つです。ということは、これが主イエスのご生涯において欠かすことの出来ない重要な出来事であると認識されていたということを示しています。
 では、どういう意味で重要視されたのかというと、二つの理由があると思います。一つは、エルサレム入城の際になされた主イエスの行為が、かつて預言者が時々行った象徴行為で、これからエルサレムで為そうとしておられることを象徴的にお示しになったと考えられるからです。今一つは、エルサレムへの入城に先立って、子ろばを調達された出来事を通して、私たちが主の御業にどう関わることが出来るのか(どのように用いてくださるのか)ということが示されていると受け止められるからであります。
 
今日は、説教題を「主が用いてくださる」といたしましたように、後者に重点を置いて、御言葉を聞きたいと思っていますが、その場合でも忘れてならない大切なことは、主イエスがエルサレムで何を為して下さったかということでありますから、まずは、エルサレム入城の象徴行為で何を示そうとされたのかということから、出来事を見て行きたいと思います。

1.エルサレム入城の姿が示すこと

先週も見ましたが、1032節には、こう書かれています。一行がエルサレムへ上って行く途中、イエスは先頭に立って進んで行かれた。ここに、主イエスがエルサレムに向かわれる並々ならぬ御決意の様子が描かれていて、その後に、御自分の死と復活について三度目の予告をされたことが書かれているのであります。エルサレムはその重大な出来事が行われる舞台であると共に、そこには神殿があって、イスラエルにおける祭儀の中心地であります。エルサレム入城の翌日には、神殿から商人たちを追い出すという行為を行われることになります。それは、神殿で行われている礼拝を改革なさることを象徴する行為でありました。つまり、主イエスはエルサレムにおいて、自らの命を献げることによって、罪の問題を解決し、悪に対する勝利を成し遂げて、礼拝の改革を実現しようとされたのであります。それは、旧約の時代から預言されて来た救い主の到来ということであり、真の王による神の国の実現ということでもありました。しかし、人々はそのことを正しく理解していたわけではなくて、ただ主イエスの数々の奇跡の業に驚いて、この方こそ、ローマの支配下にあるイスラエルを解放して下さる王となられることを期待していたのであります。そうした状況の中で、主イエスのエルサレム入城がどのように行われたのか、1〜6節は後回しにして、まずは7節以下を見て参りましょう。
 
二人が子ろばを連れてイエスのところに戻って来て、その上に自分の服をかけると、イエスはそれにお乗りになったのであります。なぜ子ろばにお乗りになったかというと、このマルコ福音書では説明がありませんが、マタイ福音書とヨハネ福音書では、旧約聖書のゼカリア書の言葉を引用しています。ゼカリア書99節には、こう書かれています。「娘シオンよ、大いに踊れ。娘エルサレムよ、歓呼の声をあげよ。見よ、あなたの王が来る。彼は神に従い、勝利を与えられた者、高ぶることなく、ろばに乗って来る。雌ろばの子であるろばに乗って。」つまり、救い主となる新しい王は、ろばに乗ってエルサレムの入城されることが預言されているのであります。普通、戦いに勝利して凱旋する王は軍馬に跨って入城するのですが、真の救い主は高ぶることなく柔和なろばに乗って入城されるのが相応しいのであります。
 
続いて8節にこう書かれています。多くの人が自分の服を道に敷き、また、ほかの人々は野原から葉の付いた枝を切って来て道に敷いた。服を道に敷くというは、王の即位を思わせる行為であります。また、葉のついた枝を道に敷くということは恭順のしるしであります。人々は主イエスを新しい王になるべき人として歓迎したのであります。
 
更に、9節、10節で人々が叫んでいる言葉は、先ほど朗読していただいた詩編118編の25節以下の言葉で、これは本来エルサレム神殿を訪れる巡礼者たちに祭司が述べる祝福の言葉なのですが、ここでは、ダビデ王の子孫として生まれるとされた救い主メシアを歓迎する言葉として叫んだのであります。確かに、主イエスはダビデの子孫であり、救い主として来られました。そういう意味では、人々が間違ったことを言っているのではありません。しかし、人々の思っている救い主と、主イエスの考えておられる救い主とは全然違っていました。主イエスはそのことを子ろばに乗ることで示そうとされましたが、人々はそれを理解しませんでした。そして、やがて数日後には、主イエスに失望して、「十字架に架けよ」と叫ぶことになります。主イエスはそのことをすべて御存知の上で、黙々と子ろばに乗って、エルサレムに入城されたのであります。そのお姿には、人々に理解されず、独り罪を背負って十字架にお架かりになる主イエスの御業が象徴されています。
 
この主イエスは、こうしてエルサレムの都に入られたように、主の日の礼拝ごとに私たちのところにも入って来られるお方であります。この主イエスを私たちはどのようにお迎えしているのでしょうか。私たちは表面的には喜んでお迎えしています。讃美の歌も歌っています。けれども、私たちが期待していることは、主イエスが望んでおられること、私たちのために為そうとされていることと、食い違っていないでしょうか。私たちは、結局は主イエスを十字架へと追いやってしまうようなことをしているのではないでしょうか。――けれども主イエスは、そんな私たちを重々御存知の上で、私たちの讃美を受け入れ、黙々と子ろばに乗って、十字架への道を歩んで下さり、今も私たちのために執り成して下さっているのであります。

2.入城に関わったものたち

さて、ここからは、そのようにしてエルサレムに入城された主イエスに関わったものたち、即ち、二人の弟子たち、子ろば、子ろばを貸した人、そして歓迎した多くの人々が、どのように用いられたのかということを見ることによって、私たち自身の召しと奉仕について考えてみたいと思います。

2−1.二人の弟子

まず、二人の弟子ですが、1節によれば、一行がエルサレムに近づいて、オリーブ山のふもとにあるベトファゲとベタニアにさしかかったとき、イエスは二人の弟子を使いに出そうとされました。主イエスはかつて、十二人の弟子を派遣された時に、二人ずつ組にして遣わされました(67)。主イエスは弟子たちの弱さを御存知であります。私たちの弱さを知っておられます。一方だけで足りない力を補い合うということもありますし、一方が間違えば、他方が正すとか、一方が落胆すれば、他方が慰めるということもあります。更に、二人が遣わされることによって公的な性格がはっきりし、二人の約束や証言には確かさが加わります。主に仕える仕事、教会の働きは個人プレイではなくて公的な働きであります。ですから大事なことにはペアで当たることが必要です。そのことは教会の複雑な問題に当たる場合にも必要なことですし、今回の近畿中会には久しぶりに委員の方と二人で出席できることは、単に心強いというだけでなくて、中会の働きと伝道所の働きがつながるという意味でとても大切なことであると思います。
 
さて、主イエスは二人を使いに出そうとして、「向こうの村へ行きなさい。村に入るとすぐ、まだだれも乗ったことのない子ろばのつないであるのが見つかる。それをほどいて、連れて来なさい。もし、だれかが、『なぜ、そんなことをするのか』と言ったら、『主がお入用なのです。すぐここにお返しになります』と言いなさい」と言われました。このように命じられて、二人は当惑したのではないかと思います。主イエスがあらかじめ連絡をとって準備させておかれたのか、それとも主イエスの予知能力で、そこに気軽に子ろばを貸してくれる人がいることを察知出来たのか、そういう説明は何もされていません。いずれにしろ、大事なことは、主が必要なものは備えて下さるということであります。二人の弟子は、主イエスの命じられたことの意味がよく分からなかったのではないかと思います。なぜ子ろばが必要なのか、子ろばが旨い具合に見つかるのか、見つかったとしても貸してくれるのか、不安であったに違いありません。しかし、二人の弟子は疑問を提起することなく、主イエスの御命令に従いました。すると、すぐに子ろばは見つかりましたし、それをすぐ借りることも出来ました。そして、この日の主イエスが計画されていた大事なことを為し遂げることが出来たのであります。主イエスはここで「主がお入用なのです」と、御自分のことを「主」と言っておられます。子ろばの持ち主は誰であろうと、この日の出来事の主人公は主イエスなのであります。
 
私たちが教会の御用のために働いたり、この世に出かけて行く場合も、それは主が主体となって為そうとしておられることに仕えるのであります。ですから、自分の力でやらねばと思ってビビる必要はありませんし、自分で思い描いたように出来なくても、落胆する必要はありません。また、自分の名誉や功績のためにするのではありませんから、困難な課題が克服出来たり、大きな事業が成功したからといって、自分を誇ることは間違いですし、逆に、旨く行かなかったり、非難されるようなことがあったとしても、主の御旨に従っている限り、卑下したり、面子に拘るのは間違いです。すべて主が備えて下さった限りで出来ることであります。私たちには、主イエスの為さろうとしていることの意味が隅々まで分かっているわけではありません。ですから、主イエスの御命令に素直に従うだけでよいのであります。結果は、主の御計画どおり、主の御旨を行うことになるのであります。

2−2.子ろばを貸した人

次に、4節以下をご覧下さい。二人は、出かけて行くと、表通りの戸口に子ロバのつないであるのを見つけたので、それをほどいた。すると、そこに居合わせたある人々が、「その子ろばをほどいてどうするのか」と言った。二人が、イエスの言われたとおり話すと、許してくれた。46節)ここには「居合わせたある人々」と書かれていますが、ルカ福音書では「持ち主たち」と書かれています。その方が分かりやすいですが、恐らく、子ろばの管理に関係している人でしょう。しかし、主イエスがあらかじめその人に連絡されていたというように合理的に解釈することは、福音書記者の意図とは違うでしょう。子ろばの管理者は、「主がお入用です」と言われても、何のために子ろばが使われるのか、分かっていたわけではないでしょう。しかし、主イエスのことは多少とも知っていたのだと思われます。子ろばを連れて行くことをすぐに許しました。なぜ、簡単に許すことが出来たのか、それは謎であります。そこには主イエスの不思議な力が働いたとしか言いようがありません。
 
私たちにも、自分が持っているもの、管理しているものについて、誰かを介して「主がお入用なのです」とのお言葉が届くかもしれません。求められるものは、私たちの能力であったり、時間であったり、財産であったりします。それが、どんな役に立つのか、どれほどの意味を持つのか、自分にとって益なのかどうか、自分に可能かどうかは、私たちには分からないことがあるかもしれません。しかし、他でもなく「主がお入用」だということであれば、主がもっとも有効に用いて下さる筈であります。そして、この無名の人が子ろばを貸したことが、主イエスの救いの御業を指し示す大きな働きをすることになり、聖書の書き記されるようになったように、私たちの小さな働きも、主の大きな御業の一部分にでも用いられるなら、幸いなことであります。

2−3.子ろば

ここで、子ろばについて考えてみましょう。ろばは見栄えがしない動物です。馬のように堂々とはしていませんし、勇猛ではありません。戦場で用いられるのは馬であって、ろばではありません。凱旋将軍が乗るのも馬であります。ろばは忍耐深く、寡黙であります。そのようなろばは平和の君、十字架の主であるイエス・キリストに相応しい乗り物であります。主イエスが選ばれたろばは「まだだれも乗ったことがない」子ろばでありました。旧約聖書の考え方によれば、聖なる目的に用いられる動物や物は、まだ使われたことのないものでなければならないとされていました。主イエスがこれからエルサレムでなさろうとしておられることは聖なる御業でありますし、主イエスより前に誰も為し得なかったことであります。それ故に、「まだだれも乗ったことのない子ろば」でなければなりませんでした。
 
これらのことから教えられることは、私たちが主の御用に用いられるのは、見栄えの良さ、格好の良さ、力の強さによるのではないということと、世の営みに使い古されてない初穂でなければならない、ということであります。教会の御用に当たる者は格好良い必要はなく、鈍臭くてよいのです。力の強さが要求されるのではなくて、むしろ弱い者こそが用いられるのであります。これは私たちにとって、大きな慰めであります。しかし、他のことを優先して、そこで精力を使い果たしてから奉仕するのでは遅いのであります。献金は生活で余ったものを献げるのではなくて、所得の中からまず献金を献げて、残りで生活するのが正しいとされるように、私たちの時間や精力も、まず礼拝のために献げて、残った時間や余力をこの世のことに用いるのが、相応しい奉仕のあり方だということを教えられます。
 
子ろばについて、ある人はもう一つのことに注目します。それは、2節後半で「子ろばのつないであるのが見つかる。それをほどいて、連れて来なさい」と言われたことです。子ろばはつながれていて自由に行動出来なかったのであります。そんな子ろばをほどいて解放してやるようにとお命じになったのであります。人間の神様に仕える能力(礼拝する能力)や人を愛する力は、罪によって「つながれて」いるというのです。主イエスは弟子たちをお遣わしになることによって、子ろばをほどかれたように、罪につながれていて主に仕えることも人を愛することも出来なくなっている者を解放なさるのであります。主イエスがエルサレムでなさろうとしておられることは、正に、そのことでありました。

2−4.群衆(多くの人々)

最後に、主イエスを歓呼して迎えた多くの人々を見てみましょう。もう一度8節を見ると、多くの人が自分の服を道に敷き、また、ほかの人々は野原から葉の付いた枝を切って来て道に敷いた、とあります。この行為は、王を迎える時の仕草であるということを申しました。「自分の服を道に敷く」というのは、自分の大切なものを惜しまず献げるという意味があると共に、王が自分たちの安全を守ってくれるので、身を守る服はもう要らなくなるという意味があるそうです。また、葉の付いた枝を道に敷くのは恭順を表す行為であります。多くの人々が主イエスを新しい王として迎えたのであります。そこには彼らの思い違いもありました。彼らはイスラエルをローマの支配から解放する王を求めましたが、主イエスは罪から解放する王でありました。けれども、ここで私たちは、主イエスを王として迎えているだろうか、と問われるのではないでしょうか。主イエスを王として迎えるということは、自分の生活を主イエスの御支配に委ねるということであります。然るに私たちは、自分の生活の支配者は自分であると思っています。なかなか主権を譲ろうとはしません。むしろ主イエスを自分に仕えさせようとします。自分の望みを叶えてくれたり、自分の力の足りないところを助けてもらおうとします。自分の僕にしてしまっています。しかし、信じるとは、主イエスを王として仕えるということであります。私たちは自分の服を脱いで、主イエスが通られる道に敷かなければならないのです。主権を明け渡さなければならないのであります。

3.私たちを用い給う主

主イエスは今日、このエルサレム入城の物語を私たちに聞かせようと、この礼拝の場所に入って来られています。そして、弟子たちや子ろばやその管理者や多くの群衆を、主イエスのエルサレム入城の出来事、即ち救いの御業に巻き込まれたように、私たちをも主イエスの御業に巻き込もうとされているのであります。群衆は皆、何が起ころうとしているのかを定かには知りません。人々は間違った王を求めていました。しかし、主イエスは確たる御計画をもって、入城されました。それは、エルサレムの神殿で行われていることを根本的に改革することであり、それは十字架と復活の御業によって成就することでありました。そのことは、巻き込まれたすべてのものが救われるためでありました。私たちもまた、主イエスがなさっていること、御国の到来の全貌を知っているわけではありません。自分本位な誤った期待をしたり、不完全な賛美を捧げているかもしれません。しかし、そのような無知で不信仰で役立たずの者をも、主イエスの御国建設の御業に巻き込んで用いようとされているのであります。そして、私たちを罪の縄目から解放して、罪を赦された自由な世界へ導き入れようとして下さっているのであります。

結.ホサナ

最後に、子ろばに乗って入城される主の前になったり後になったりして従いつつ叫んだ人々の言葉(910節)を聞きましょう。
 
「ホサナ。主の名によって来られる方に、祝福があるように。いと高きところにホサナ。」
 
この前半は、先ほど朗読された詩篇118編の2526節からの引用です。これは、本来はエルサレム神殿を訪れる巡礼者たちのために神殿の祭司たちが歌う祝福の言葉でありました。しかしこの時、祭司たちは迎えに来ていません。人々は自分たちで歌っています。主イエスを歓迎する歌として歌っています。
 
ホサナというのは、「救いたまえ」という意味ですが、それが主を賛美する言葉として用いられました。主イエスを迎えに来ない神殿の祭司たちにも問題がありましたが、「ホサナ」と歌った人々にも間違いがありました。そのために、この後、主イエスの方から神殿に向かわれて、礼拝の改革をなさらなくてはなりませんでした。そして人々の「十字架につけよ」という言葉によって、十字架の上で命を献げなければなりませんでした。しかし、「ホサナ」という言葉自体は間違いではありませんでした。主イエスが真実の礼拝を創り出して下さるからです。
 
私たちの礼拝も欠けだらけであり、間違った賛美が献げられているかもしれません。御言葉が素通りしてしまっているかもしれません。しかし、そのような礼拝をも主イエスは真実の礼拝に創り替えて下さるのであります。その主イエス仰いで、私たちも「ホサナ」と叫ぶ者となりたいと思います。祈りましょう。
 

祈  り

主イエス・キリストの父なる神様!
 
主イエスを私たちの王としてお迎えするために、私たちをこの場所に来させて下さいましたことを感謝いたします。どうか、私たちの全てを主なる王に委ねる者とならせて下さい。どうか、私たちの過ちをも赦して下さって、少しでも主のお役に立つ者として用いて下さい。
 
どうか、なお多くの人々と共に、永遠のエルサレムに入城することが出来ますように、主の日ごとの礼拝に加わる者を呼び集めて下さい。そして、全ての者に、あなたの祝福がありますように。
 
主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

米子伝道所 主日礼拝説教<全原稿> 2012年3月11日  山本 清牧師 

 聖  書:マルコ11:1−11
 説教題:「主が用いてくださる」
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