序.私たちを救う信仰とは

今日与えられていますマルコ福音書の1046節から52節までの箇所は、以前に伝道礼拝の時に取り上げたことのある箇所で、他の教会の伝道礼拝に呼ばれた時にもお話ししましたし、神学校時代に説教演習で課題として与えられたこともある箇所であります。このたび、カリキュラムによって与えられて、改めてこのテキストを読み、他の人の説教もいくつか読んだりいたしまして、ここで書かれている出来事は一人の盲人の目が見えるようになったという単純なことなのですけれど、大変多くのことを学ばされる箇所であることを覚えさせられました。今日は、それらの全部触れるわけには参りませんので、焦点を絞りたいと思います。
 
最後の52節で、主イエスが「あなたの信仰があなたを救った」と言われました。バルティマイというこの盲人の信仰が素晴らしかったので、この人の目が見えるようになった、と読むことが出来ます。確かに、48節あたりを見ますと、彼がしつこく叫ぶので、多くの人が黙らせようとしたが、ますます叫び続けたということが書かれていて、そのことを主イエスが評価されたのか、と読むことも出来るのですが、皆様はそれで納得なさるでしょうか。私たちは聖書の物語を読む場合、主イエスが地上の歩みをなさっていた時の昔話の一つとして読んでいません。そこに描かれている主イエスと登場人物の関係を今の自分と主イエスの関係と重ね合わせながら読むわけであります。そうすると、私たちが抱いている切なる願いを中々叶えていただけないのは、この盲人のように激しく叫び続けていないからなのか、ということになるわけであります。そのように、この出来事を通して自らを省みることは大変大切なことではあります。しかし、信仰というのは、ただ激しく叫び求めることなのか、という疑問も湧いて来るのではないでしょうか。今までずっと心の中では叫び続けて来たことがあるのに、自分はまだ叶えてもらっていない、という思いも出て来るかもしれません。では、主イエスが「あなたの信仰があなたを救った」と言われる場合の信仰とは、どのような信仰なのか、どうすればそのような信仰を私たちが持つことが出来るのだろうか、ということを知りたくなるのであります。今日は、その点に的を絞って、与えられた御言葉を聴いて行きたいと思います。
 
その場合に、この与えられた箇所だけでなく、この出来事がどのような状況の中で行なわれたのかということを押さえておくことが大切です。すぐ前には、小見出しで「ヤコブとヨハネの願い」という記事があります。これは、私たちが219日にマタイ福音書で聞いたのと同じ出来事で、そこでは、この二人の弟子の願いが問題となっていて、今日の盲人の願いと対比することができます。また、その前の1017節以下には、小見出しで「金持ちの男」の記事があります。この男は「永遠の命」を与えられることを願って、主イエスのところにやって来たのですが、結局、主イエスのお言葉に従うことが出来ずに、悲しみながら立ち去るのであります。これらの記事で問題となっている信仰の状態と今日の箇所の盲人の信仰を見比べることによって、主イエスがここで「信仰」と言われるものがどういうものかを知ることが出来るのではないかと、思うのであります。また、もう一つ忘れてならないことは、32節から34節の箇所に書かれているように、今日の箇所の出来事は、主イエスが三度目の死と復活のことを予告なさった直後のことであるということです。32節を見ていただきますと、「一行がエルサレムへ上って行く途中、イエスは先頭に立って進んで行かれた。それを見て、弟子たちは驚き、従う者たちは恐れた」とあります。主イエスの並々ならぬお気持ちが伝わって来ます。主イエスはもう、エルサレムでの十字架の出来事を見据えておられるということです。一方、弟子たちには、これから何が起こるのか、まだ何も見えていなかった様子が伺えます。そのような事情の中で、この盲人のバルティマイが登場するのであります。

1.わたしを憐れんでください

さて、今日の箇所に入りますが、その主イエスと弟子たちの一行が、エリコの町に着きました。エリコの町はエルサレムへの旅の最後の宿泊場所となる位置にあります。そこで一行が何泊したかは分りませんが、いよいよそのエリコを出て、十字架が待つエルサレムへと向かわれようとした矢先のことでありました。その町の門の近くでしょうか、バルティマイという盲人の物乞いが道端に座っていました。恐らく、何年も毎日のようにその場所で物乞いをしていたのでありましょう。盲人のバルティマイには、こうするしか生きるすべがなかったのであります。これからもそのような毎日が続く筈でありました。
 
しかし、この日はいつもと違うことが起こりました。ナザレのイエスがここを通られるということを聞いたのであります。主イエスがこれまでに数々の癒しの業を行なって来られたことも聞いていたのでありましょう。けれども、他の人のように、主イエスのもとに自分の窮状を訴えに行くことも出来ませんでした。ところがこの日は、その主イエスが通られるということを耳にして、またとないチャンスだと思ったのでしょう。「ダビデの子イエスよ、わたしを憐れんでください」と言い始めました。
 
このことを先の金持ちの男や弟子のヤコブとヨハネと比べてみましょう。金持ちの男は「たくさんの財産を持って」いました。貧しい人々に施すことのできる立場でありました。それだけでなく、20節によると、彼は子供の時から掟を守って、正しいとされる生活をして来たという誇りを持っていました。しかし、それでも満足できず、もっと高いもの、充実した人生を求めて、主イエスのところに来て、「永遠の命を受け継ぐためには、何をすればよいでしょうか」と尋ねたのでありました。立派な質問のようですが、自分の本当の姿が分かっていませんでした。目は見えていても自分の姿について盲目でありました。だから、「持っている物を売り払い、貧しい人々に施しなさい」と言われた時に、それが出来なくて、立ち去るしかありませんでした。それに対してバルティマイは、何の財産もなく、毎日、恥を偲んで物乞いをしなければ生きて行けない境遇にありました。人間の幸せというものからは程遠い存在でした。他人の憐れみに依存するしか生きられない立場でした。誇るものは何もありません。目は見えませんでしたが、そういう自分の憐れな姿は見えていました。主イエスに「何をしたらよいでしょうか」などという、余裕のある質問をする状況にはありません。恥も外聞もなく、ただ、「わたしを憐れんでください」と叫ぶ他ありませんでした。
 
それでは、弟子のヤコブとヨハネはどうでしょうか。二人は主イエスに、「栄光をお受けになるとき、わたしどもの一人をあなたの右に、もう一人を左に座らせてください」と願いました。主イエスはそれに対して、「あなたがたは、自分が何を願っているか、分かっていない」と言われました。彼らも、肉体の目は見えていましたが、自分たちの本当の姿、自分たちの憐れむべき罪の姿が見えていませんでした。主イエスは十字架の死を予告しておられたのに、それが聞こえておりませんでした。信仰の目も耳も開かれていなかったのであります。本当なら、主イエスがなぜ十字架にお架かりにならなければならないのかを問うべきでありました。そして、主に赦しを乞うべきでありました。バルティマイには自分の罪がはっきりと見えていたとは言えないかもしれません。しかし、自分には何も誇るものはないことを知っておりました。そういう点では、心の目は開かれていたのであります。
 
48節を見ると、多くの人々が叱りつけて黙らせようとしたが、彼はますます、「ダビデの子よ、わたしを憐れんでください」と叫び続けました。「ダビデの子よ」という叫び声は、2月にマタイ福音書で聞いたカナンの女の叫び声と同じであります。それは、救い主メシアを表す言い方です。しかし当時は、それを主イエスに向かって言うことは、勇気の要ることでありました。人間を神様扱いすることは許されないことだからです。しかし、カナンの女も、バルティマイもなりふりかまわず、ただ主イエスに聞いてもらいたい一心で叫び続けたのであります。今日の箇所のすぐ後、11章に入ると、一行がエルサレムに入ったことが書かれていますが、この時も人々は、棕櫚の葉を振って、「われらの父ダビデの来るべき国に、祝福があるように」(1110)と叫んで、主イエスを迎えたのであります。バルティマイはいわばその先取りをしたのであります。バルティマイがエルサレムで何が起こるのかを知っているわけではありません。棕櫚の葉を振って迎えた人々がやがて「十字架につけよ」と叫ぶ群衆に変わるという現実もあります。しかし、バルティマイは、自分が主イエスの憐みを受けるしか救いようがない者であることを知っていたのであります。
 
私たちはどうでしょうか。恥をさらして物乞いをしなければならないバルティマイに比べて、私たちは遥かにゆとりのある生き方をしています。しかし、私たちは、自分がいくらかの財産を持っていることで、本当の自分の貧しさに気がつかなくなっていないでしょうか。自分が多少なりとも世間の役に立つような事をしているということで、自分の罪の姿が見えなくなっていないでしょうか。このように教会に来ているということで、免罪符をもらっているかのように錯覚しているとすれば、この盲人の物乞いよりも真実が見えていない、心の目が閉じているということになるのではないでしょうか。

2.あの男を呼んで来なさい

さて、バルティマイの叫びを聞かれた主イエスは、立ち止まって、「あの男を呼んで来なさい」とお命じになられます。主イエスは今、並々ならぬ思いをもってエルサレムに向かってエリコを出て行こうとされていました。一人の物乞いに関わっている場合ではない状況であります。もっと大きなお仕事が待っています。しかし、主イエスは真実の叫びに、立ち止まって耳を傾け、御許に招かれるお方であります。私たちは本来、主の御前に立つことの出来ない罪人であります。主イエスに無視されてもしょうがない者であります。しかし、主イエスは、私たちがこのバルティマイと同じように、主イエスの助けなしには生きられない貧しい者であることを知っておられます。そして、私たちを憐れんで、御前に招いて下さいます。
 
バルティマイは人々を介して、「安心しなさい。立ちなさい。お呼びだ」という喜ばしい招きの言葉を聞くことが出来ました。目が見えないことは不安であります。毎日のようにここに来て座って、人の善意だけに頼っている生活には未来がありません。しかし、そこから立ち上がることも出来ません。けれども今、「立ちなさい」という言葉を聞きます。ここで一つ疑問に思われるかもしれません。主イエスはここで、人々を通じて、間接的にバルティマイをお呼びになりました。なぜ、ご自分でバルティマイのところに行って、手を差し伸べて、その目に触れて、目を開いてやられなかったのだろうか、という疑問です。ある説教者は、<主イエスはこの男を、独りで立って、独りで主の許に来るようにと招かれたような気がする>、と言います。なるほどと思いました。主イエスの召しは、いつも直接の呼びかけや、直接に手をとって立ち上がらせて下さるということではないかもしれません。この場合のように、招きはしばしば誰かに取り次がれて私たちの許に来ます。直接手をとってくださらなくても、伝えられたお言葉によって、自らこれまでの状況を断ち切って、立ち上がるという喜びを味合わせて下さるのであります。
 
50節を見ると、バルティマイも、主イエスのお言葉を間接的に聞いただけで、上着を脱ぎ捨て、躍り上がってイエスのところに来たのであります。「上着を脱ぎ捨て」とありますが、当時の上着というのは、上から羽織る長い布のことで、衣服でもあるし、寝具としても、また物乞いをするときに道に広げて金銭や食べ物を置いてもらう布にも使っていたと考えられます。その上着を脱ぎ捨てたのです。そして、これまでの生活を捨て去るかもように、座り込んでいた道端から躍り上がって主イエスの許に来たのであります。この時点ではまだ目が見えたわけではありません。ただ、主イエスが自分の叫びを聞いて、呼んで下さったというだけで、躍り上がって喜んでいるのです。もう既に、喜びの絶頂に達しているかのようであります。この姿の中に、バルティマイの主イエスに対する信頼の心(信仰)が表れているように思います。その信仰は、「ダビデの子イエスよ」と叫んだ時よりも、明らかに進んでいます。主イエスのお言葉によって、信仰が大きく前進させられたのであります。

3.何をしてほしいのか

そのバルティマイに向かって、主イエスの方から、「何をしてほしいのか」と問われました。この問いかけは、36節でヤコブとヨハネに問いかけられたのと同じ言葉です。ところがバルティマイはヤコブとヨハネのように、「一人をあなたの右に、もう「一人を左に座らせてください」などという勝手なことを言いませんでした。彼は、主イエスが自分の声に耳を貸して下さったということだけで、喜びの絶頂に立っています。もちろん主イエスは、盲人の彼にとって、目が見えるようになることがこれからの生活でもっとも必要なことであることを知っておられます。しかし、彼自身はひょっとすると、目を開けてもらえるということまでは考えていなかったかもしれません。主イエスはこう問いかけられることによって、彼の願いをはっきりとさせられます。主イエスはここで、<もう、あなたの信仰の目、霊の目が開かれたのだから、肉体の目は開かなくても幸いだ>、などとはおっしゃいません。主イエスは私たちの魂の主であるとともに、肉体の主でもあります。主は私たちの霊も肉も共に顧みられるお方なのであります。バルティマイは主イエスに問われるままに、思い出したかのように、「先生、目が見えるようになりたいのです」と答えます。
 
そこで主イエスは言われました。「行きなさい。」主はここで、男の目に触れて癒されるのではなく、「目が開け」と声をかけられるのでもなく、自分の足で歩いて行くよう、お命じになるのです。単に目が開かれるだけでなく、これまでの不自由な生活から解き放って、新しい歩みへと出発させて下さるのであります。
 
このあと、52節の終わりを見ると、すぐ見えるようになり、なお道を進まれるイエスに従った、と書かれています。どこかで新しい人生を始めたのではなくて、エルサレムに向かって進まれる主イエスに従ったのであります。新しい信仰生活が始まったと言ってもよいでしょう。その後のバルティマイのことは聖書には出ていません。しかし、エルサレムでバルティマイは主イエスの十字架の出来事に出会うことになったと思われます。直接、その場面を見たかどうかは分かりませんが、大きな驚きを覚えたことでしょう。しかし、その体験を通して自分を縛り付けていたものからの解放に、主の十字架のお苦しみが必要であったことを知って、主の憐れみの御心を一層鮮明に覚えることが出来たのではないでしょうか。

結.あなたの信仰があなたを救った

主イエスはこの盲人の目を見えるようにされた時、「あなたの信仰があなたを救った」とおっしゃいました。確かに、先ほどから見たように、彼が「ダビデの子よ」と叫び続けたことの中に、主の憐れみを求める、なりふり構わぬ彼の姿を見ることが出来ます。それを信仰と受け取ることも出来るかもしれません。しかし、その信仰の力、その信心の強さで、目が見えるようになったのでしょうか。主イエスは最初の素朴な信仰にとどまるだけでなく、自ら立ち上がることも出来る信仰へとお導きになりました。更に主イエスに従って行く信仰にまで引き上げられました。その信仰がこの盲人を本当の意味で救ったのであります。
 
バルティマイの最初の叫びというのは、何の希望も持てない状況の中から、ただ何とか脱出したい、という一心の叫びでありました。それは、立派な高い信仰からは程遠いものであったかもしれません。しかし、主イエスは哀れなバルティマイの叫びを信仰だと認めて下さいました。主イエスは彼の熱心だがあぶなっかしい信仰を、きっちりと捉えて、この「あなたの信仰があなたを救った」というお言葉によって、確実なものに仕上げて下さったのであります。私たちは、バルティマイの声の大きさや、求める思いの激しさによって癒されたと理解してはならないでしょう。主イエスが、バルティマイの叫びの中に、本物の信仰を創り出されたのであります。信仰とは、私たちの側の求めの大きさや熱心さのことではありません。信仰とは、キリストの力を感じ取って、それを自分のものとすることです。バルティマイは、少々身勝手であったかもしれない、常識的な人からすれば、少々乱暴であったかも知れませんが、主イエスなら自分を癒して下さる、自分の状態を変えて下さる、と捉えたのでありました。だからこそ、人々に叱られようが、遮られようが、叫び続けました。しかし、そのバルティマイの叫びを聞き取って、取り上げて、確実な信仰へと導かれたのは、イエス・キリストであります。主イエスが「行きなさい。あなたの信仰があなたを救った」と言って下さらなかったら、本物の信仰を持つに至ることはなかったでしょうし、目が見えるようにはならなかったでしょう。この主イエスの言葉によって、彼の心の目がぱっちりと開かれたのであります。それによって、肉体の目も開かれたのであります。
 
私たちもまた、主イエスの目から見るならば、この盲人の哀れな男と少しも変わらないのではないでしょうか。私たちの周りには、私たちが主イエスの許へ近づくのを妨げる色々な障害があります。私たちの心の目は色々なものに遮られて、主イエスがどこにおられるのか、はっきり見えていないということもあるかもしれません。<自分は、それほど哀れな存在ではない>とか、<自分なりに後ろ指を指されない人生を歩んできた>という自負が、主イエスを求める心を起こさせないでいるかもしれません。あるいは、<自分が今抱えている困難な問題は、信仰などという不確かなものでは解決しない>などと思い込んでいるかもしれません。しかし、主イエスは、私たちの叫びや祈りを、決して聞き逃されるお方ではありません。私たちは大胆に声を上げるべきであります。祈るべきであります。<いくら祈っても、聞き入れて下さらない>という嘆きが、皆様の中にあるかもしれません。けれども、主イエスは私たちの祈りを聞いておられないのではありません。ただ、今、私たちが何とか逃れたいと感じていることの解決だけが、本当の救いではないからであります。主イエスは「あなたの信仰があなたを救った」と言える時を、待っておられるのであります。そのために、このように、私たちを礼拝に招いて下さって、主イエスとの出会いの場を用意して下さっているのであります。ですから、私たちは、主イエスの言葉に耳を傾けるべきなのであります。そこから、信仰の目が開かれ、新しい人生が開かれるのであります。
 
祈りましょう。

祈  り

憐れみ深い主イエス・キリストの父なる神様!
 
今日、私たちを御許に呼び寄せて下さって、御心の一端に触れることが出来ましたことを感謝いたします。私たちの願いや思いを遥かに超えた御心をもって、私たちを真の信仰へと導こうとして下さっている恵みを覚えさせられております。どうか、私たちの心の目をいつも目覚ましめて下さい。どうか、人生のあらゆる問題を、信仰をもってあなたに委ねることが出来るようにさせて下さい。
 
主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

米子伝道所 主日礼拝説教<全原稿> 2012年3月4日  山本 清牧師 

 聖  書:マルコ10:46−52
 説教題:「信仰があなたを救う」
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