序.どの掟が最も重要か

皆さんがもし誰かから、<あなたは何を規範として生きておられますか>と問われたなら、何とお答えになりますでしょうか。キリスト者であれば、<聖書(の御言葉)を規範としています>と答える人が多いと思います。それが正解であると言ってよいでしょう。日本キリスト教会の憲法の第2条には、「信仰の唯一の規範は、旧・新約66巻の聖書である」とあります。これは「信仰の規範」ということですが、聖書は私たちキリスト者の生き方・生活の規範でもあります。けれども、もし、<あなたは本当に聖書を生き方・生活の規範にしていますか>と問い詰められるならば、どうでしょうか。私たちの生き方が、聖書よりも、伝統や習慣とか、世の中の動向とか、世間の評価とか、生活の必要とか、自分の好みや感情によって動かされている部分が多くて、御言葉に立ち帰って判断するということが少ないというのが、正直なところかもしれません。
 
主イエスの時代のユダヤの社会では、生活の規範と言えば、律法でありました。それは誰も異論のないところでありました。しかし、律法があまりにも多くて、600以上もあったそうですから、その解釈や適用について、色んな考え方があって、そのために、律法学者と呼ばれる人がいて、律法の一つ一つに解釈を与え、人々に教えていました。この律法学者を多く含んでいるファリサイ派と自称していた人々は、その600以上の戒めの一つ一つを忠実に守って、そのことによって自分たちが正しい生き方をしていることを誇っていたのであります。
 
今日の箇所では、そのファリサイ派の人々の中から送られた一人の律法の専門家が、主イエスを訪れて、「先生、律法の中で、どの掟が最も重要でしょうか」と尋ねたのであります。すぐ前の23節から33節までの段落では、ファリサイ派とは対立関係にあったサドカイ派の人々が主イエスのところに来て、復活についての問答をして、主イエスに言い込められたことが書いてあって、それを聴いたファリサイ派の人々は、自分たちの立場を誇示できる絶好の機会だと考えて、一緒に集まって協議の上、精鋭の律法学者を送り出したということでしょう。35節に、イエスを試そうとして尋ねた、と書かれていますが、この質問がどういう意味で主イエスを試すことになるのかは、はっきりしていません。推測できることは、これまでの主イエスの説教の中で、一見、律法を否定するかのような教えをされていましたので、そういう言葉を引き出して、揚げ足を取ろうとしていたのではないかと考えられます。今回の質問内容は、律法学者の間でもしばしば議論になっていたことのようですので、それを主イエスにぶつけてみよう、ということだったのでしょう。

律法学者がどのような意図でこの質問をしたのかはともかく、彼らがこの質問をしてくれたお陰で、聖書に記された律法という膨大な規範を私たちがどう捉えたらよいのかということの基本的な指針を、主イエスによって明確に示されることになるわけですので、主イエスの答えに、心して耳を傾けたいと思います。そして、その規範によって、私たちの生き方・生活を新たにされたいと思います。

1.第一の掟――神を愛する

さて、律法学者の質問に対して、主イエスはまず、こう答えられました。「『心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』これが最も重要な第一の掟である。」37
 
これは旧約聖書の中の申命記65節からの引用であります。少し言葉が違っています。申命記で「魂を尽くし」と言われていたところが「精神を尽くし」になっていますが、同じような意味で、「命を尽くして」とも訳せる言葉であります。もう一つ違うのは、申命記で「力を尽くし」と言われていたところを「思いを尽くして」と言っておられます。「力」と「思い」ではずいぶん違うような気がしますが、申命記で「力」というのは、心の力のことです。ですから、言葉は少し違いますが、この掟が言おうとしていることは、<あなたがたの全存在をもって、全てを尽くして、神を愛しなさい>ということであります。注目したいのは、申命記の方では、この掟の前に、「聞け、イスラエルよ。我らの神、主は唯一の主である」という言葉がついていて、マルコによる福音書の並行箇所では、主イエスはその部分も含めて引用されています。更に、申命記では、この掟のすぐ後の6節を見ますと、「今日わたしが命じるこれらの言葉を心に留め、子ども達に繰り返して教え、家に座っているときも道を歩くときも、寝ているときも起きているときも、これを語り聞かせなさい。更に、これをしるしとして自分の手に結び、覚えとして額につけ、あなたの家の戸口の柱にも門にも書き記しなさい」と命じられていましたから、ユダヤ人はこの掟をよく覚えていて、朝夕唱えていましたし、礼拝の時には、この掟を書いた羊皮紙を小さな箱に入れて額と手にくっつけていたようであります。ですから、誰もが知っていて、重要視していた掟であります。そういう意味では、主イエスがここでこの掟を引用されたことは、ユダヤ人にとって極めて常識的なことであったのであります。
 
しかし、この掟が律法学者やイスラエルの人々の間で、心から重んじられていたかどうかは別問題であります。イスラエルの民にとって神様とは、「我らの神、主は唯一の主である」と言われるように、他の神々に換えることの出来ない、かけがえのない神であります。世界の多くの民の中から自分たちを選び、エジプトの奴隷状態から救い出し、約束の地カナンへ導いて下さり、その後も捕囚など、幾多の苦難を経験しましたが、イスラエルの民を捨てることなく愛し貫かれた神であります。それですから、その神をイスラエルの民は愛し尽くして当然なのであります。しかしながら、イスラエルの民の実態は、この掟を形の上では尊重していながら、心を尽くして神を愛するということにはなっていなかったからこそ、主イエスは改めて、この掟を第一の掟としてお示しにならなければならかったのでありましょう。
 
では、私たちにとって、神様とはどのようなお方でしょうか。神様は御子イエス・キリストを世に遣わして、私たちを罪の奴隷から救い出すために、御子を十字架に引き渡されたお方であります。独り子をも惜しまず、私たちを愛し尽くして下さった神であります。愛されている者は愛し返すことが出来る筈であります。「愛する」とはそのような関係であります。それですから、愛して下さった神を私たちが愛して当然なのであります。ところが私たちの実態はどうでしょうか。神に愛されたこと、今も愛されていることに気付こうとしません。少し気付いても、あたかも愛されることが当然のように、感謝を怠っています。神様は私たちが犯した大きな罪をも御子の犠牲によって赦して下さるという、他にはない愛を受けていながら、他人の罪を赦せないでおります。また、他に比べることの出来ない数々の恵みを受けていながら、他の神々、他の楽しみ、他の興味に心を奪われて、神様の愛に応えることを怠っています。ですから、「聞け」と言って語られた申命記の言葉を改めて聞かなければなりませんし、主イエスが律法学者の質問に答える形で言われた、「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい」という御言葉を、今私たちにも語って下さる御言葉として聴くことによって、もう一度、神様の愛に立ち帰って、私たちが全存在をかけて神様の愛に応答する者とされなければなりません。それならば、神様の大きな愛に応答して私たちが差し出す神様への愛とは、どのようなものでしょうか。神様の愛に見合うように神様を愛することなど出来るのでしょうか。それは、私たち自身を差し出すほかありません。神様の御前に自らを投げ出してひれ伏す以外にないのです。言い換えれば、礼拝するということです。パウロがローマの信徒への手紙121節で、「自分の体を神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げなさい。これこそ、あなたがたのなすべき礼拝です」と言っている通りであります。私たちの生活全体が礼拝となっているような生き方へと招かれているのです。

2.第二の掟――隣人を愛する

さて、主イエスは第一の掟に続いて、39節で第二の掟を述べられます。「第二も、これと同じように重要である。『隣人を自分のように愛しなさい。』」この二重カギがついている所は、先ほど朗読いたしましたレビ記1918節からの引用であります。そこを一つ前の17節から読みます。(p192心の中で兄弟を憎んではならない。同胞を素直(そっちょく)に戒めなさい。そうすれば彼の罪を負うことはない。復讐してはならない。民の人々に恨みを抱いてはならない。自分自身を愛するように隣人(りんじん)を愛しなさい。わたしは主である。ここには、先ほどの第一の掟のように、「聞け」というような呼びかけはありませんし、他の多くの掟の中に埋もれるように、割とさらっと語られています。けれども主イエスはその掟を取り上げて、第一の掟と同じように重要であるとされたのであります。第一の掟が<神を愛する>ことであるのに対して、今度は<隣人を愛する>ことでありました。このことで思い当たるのは、十戒のことであります。ご承知のように、十戒のうちの第1戒から第4戒までの、<神のみを神とせよ>とか、<神の像を造って拝んではならない>とか、<安息日を覚えて聖とせよ>というのは、神様との関係についての戒めであり、第5戒から第10戒までの、<殺すな>とか、<姦淫をするな>とか、<貪るな>といったものは、隣人との関係についての戒めでありました。ですから主イエスはここで十戒を要約されたとも言えるわけであります。そう考えると、第一の掟も第二の掟も、同様の重みをもったものであるということが分りますし、律法学者が「どの掟が最も重要でしょうか」と質問したのに対して主イエスが二つ答えられたように見えるけれども、この二つは貨幣の裏表のように、しっかりと結びついたものであることが分るのであります。二つのうち、一方が欠けると、両方がおかしくなります。神への信仰と人への行動に分けて、信仰は大切だと言いながら、隣人への行動を疎かにするのは、どこか間違っているのであります。逆に、隣人への行動だけを強調して、信仰が疎かにされるなら、これも間違いです。どちらも重要なのであります。
 
しかし、そうかと言って、二つが肩を並べるように同じ、ということではありません。順序ははっきりしているのであります。まず、神に関することが優先されます。そこがしっかりすることで、人との関係が本物になります。神を神として仰ぐのでなければ、人を人として愛せないのであります。ある人はこの関係を譬えて、こう言っております。この第一と第二は繋がっているのだけれども、それは車の両輪のように同じ価値をもって繋がっているのではなくて、自動車に譬えれば、エンジンと車輪のように繋がっている、というのです。エンジンだけの自動車は走らないし、タイヤだけの自動車も走りません。しかし、車全体を推進するのはエンジンであります。神様を愛することで、人を愛することが動き出す、生きて来るのであります。神を愛しているが、人を愛さないということはあり得ません。ヨハネの手紙一420節にはこう書かれています。「『神を愛している』と言いながら兄弟を憎む者がいれば、それは偽り者です。目に見える兄弟を愛さない者は、目に見えない神を愛することができません。」
 
ところで、「隣人を自分のように愛しなさい」という掟の、「自分のように」というところにひっかかりを覚えられる方がおられるかもしれません。本当の隣人愛というのは、自分のように愛するのではなくて、むしろ自分を捨てて、自分を愛したい気持ちを断ち切って人を愛することではないか、という考え方があります。確かに、自己を否定して他を愛することは理想的かもしれません。また、私たちの中には、自分を捨てきれないエゴがありますから、それを反省することは必要でしょう。しかし、己を捨てて人を愛するということは、しばしば具体性を欠いた空論に終わり勝ちであります。それよりも、この掟によって、<私たちが本当に自分を愛しているのか>、ということを問われているのではないでしょうか。自分を愛することが出来ない人間が、他人を愛することが出来るか、と問われているのであります。自分が自分を愛して生きるということは、必ずしも自明のことではありません。私たちは自暴自棄になってみたり、時には<死んでしまいたい>などと思うのであります。欠点の多い自分、病から逃れられない自分をなかなか受け入れられないことがあります。そんな私たちに対して、神様は、<私はお前を愛しているよ、だから、お前も自分を愛しなさい>と言われているのであります。その上で、「隣人を自分のように愛しなさい」と命じられているのであります。これは、まず自分を愛することを優先させて、その上で余力があれば、隣人を愛しなさい、と言われているのではありません。そうかと言って、隣人を愛することを優先して、自分のことは考えないようにしなさい、と言われているのでもありません。神様は隣人も私自身も同じように愛して下さいます。だから、隣人も自分も同じように愛しなさい、ということであります。「自分を愛する」ということは、具体的であります。自分には何が必要かは分っています。自分の欠点や過ちを知っています。何がうれしいかも知っています。そのように、隣人のためにも具体的な必要を満たし、隣人の過ちを赦し、隣人の喜ぶことをしなさい、ということであります。そうすることで、自分自身もまた生かされるのであります。

3.二つの掟に基づいている

主イエスは最後に、40節のところでこう言われています。「律法全体と預言者は、この二つの掟に基づいている。」「律法全体と預言者」というのは、旧約聖書全体ということであります。旧約聖書の中で律法と預言者によって表わされた神の真理、私たちが如何に生きるべきかということの全ては、この二つの掟に基づいている、と言われたのであります。「この二つの掟に基づいている」という箇所は、口語訳聖書では、「これらの二つのいましめに、律法全体と預言者とが、かかっている」と訳されていました。この「かかっている」という言葉は、ちょうど扉が蝶番で柱にかかっていることを意味するのだと説明されています。この二つの掟が、蝶番になって、私たちの存在をしっかりと柱に繋ぎ止めて、外れないようにしていると理解出来るのであります。蝶番で柱に繋ぎとめられた扉は自由に動くけれども、決してぶれることはありません。そのように、私たちの信仰生活が、この二つの掟によって、決してぶれることなく、しかも生き生きと自由に動くようにされているということであります。

結.主イエスの十字架のゆえに

最後に、今日の箇所の問答が行われたのは、主イエスが十字架に向かわれる最後の一週間のうちであったことを、もう一度思い起こさなければなりません。
 
主イエスはここで、単に律法の中で重要な掟はこれとこれだよ、ということを示されただけではありません。また、旧約聖書全体が、この二つの掟に集約されているという一つの見解を述べられただけではありません。この二つの掟を守ることが理想的な生き方である、と教えられただけでもありません。そうではなくて、主イエスは今から十字架への道を歩まれることによって、神と人間との関係、人と人との関係を、もう一度新しく立て直そうとしておられるのであります。ですから、ここで主イエスが言おうとされていることは、私たちの罪によって破壊された神様と私たちの関係、私たちと隣人の関係を、主イエス御自身が十字架にお架かりになることによって、もう一度立て直すのだ、回復するのだ、と宣言しておられるのであります。私たちが神様と隣人に対して犯した償いきれない罪を、主イエスが自ら負って下さることによって、神様と私たち、私たちと隣人との間に和解をもたらそうとしておられるのであります。そして、その救いの御業は既に成就したのであります。
 
222日の「灰の水曜日」と呼ばれる日から、レントの季節に入っております。レントはイースターに向けて、主イエスの御受難を覚える季節であります。この季節に当って、私たちは主イエスが私たちのために、ご自身の命をかけて、この二つの掟が成就できる道を開いて下さったことを深く覚えたいものであります。今日は、初めに、この二つの掟によって、私たちが何を規範として生きているかが問われているということを申しました。その答えは、単に「神を愛すべし」「隣人を愛すべし」といった、冷たい規範ではありません。そこには、主イエスの尊い十字架の御業があるということ、その十字架が私たちの生きる規範であり、命の源であることを確認したいと思います。そして、主イエスによって備えられたこの大きな恵みに応えて、私たちの生活の中で、この二つの戒めを、単にお題目やお飾りにするのではなくて、これによって、救われたことの喜びと感謝をもって、力強く生きる者たちとされたいと思います。
 
祈りましょう。

祈  り

愛に富み給う父なる神様!
 
聖書を通して、主イエスの御言葉を通して、私たちに真実に生きる道を示して下さいまして、ありがとうございます。
 
私たちはしかし尚、神様を愛し敬うよりも、蔑ろにし、人を愛し仕えるよりも憎んで、見下して、罪を犯すものであることを覚えます。
 
けれども、主イエス・キリストが御自分の命をかけて、私たちを贖い出して下さり、もう一度、この掟によって生き直す者とならせて下さいましたことを感謝いたします。
 
どうか、神様と隣人とまた自分自身を愛することによって、ますますあなたの愛を深く覚えて、喜びをもって生きる者とならせて下さい。
 
主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

米子伝道所 主日礼拝説教<全原稿> 2012年2月26日  山本 清牧師 

 聖  書:マタイ22:34−40
 説教題:「神と隣人を愛する」
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