「あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、いちばん上になりたい者は、皆の僕になりなさい。」
                (マタイによる福音書
2026,27 

 標記の言葉は処世訓としても有益なものであるが、この言葉は主イエスが十字架の死と復活を予告された直後の、緊迫した状況の中で弟子たちに語られたもので、主が弟子たちを御業に巻き込み、「仕える者」となる十字架の道へと引き出そうとして語られた言葉である。
 主の弟子であるヤコブとヨハネの母親が、イエスのところに来て、ひれ伏し、何かを願おうとした。「ひれ伏す」とは礼拝することであるが、彼らは同時に、息子たちについての願い事を持って来た。ここに私たちの礼拝の姿が写し出されている。だが、主イエスはそれを拒否なさらず、「何が望みか」と問いかけて下さる。母親は、主が王座に就いた時に、二人の息子が王の左右に座るという厚かましい願いをする。これはこの世的な地位を求めたのではなく、神の国における処遇を真剣に求めたのであるが、神の国の秩序を誤解している。
 そこで主イエスは、「このわたしが飲もうとしている杯を飲むことができるか」と問われた。「杯」とは神の裁き、即ち、死を意味する。二人は大胆にも「できます」と答える。彼らは真剣ではあったが、自分たちの弱さ、罪深さについての認識が甘かった。ところが主は、「確かに、あなたがたはわたしの杯を飲むことになる」と言われる。主は、彼らの弱さをご存知でありながら、その弟子たちの罪をも自分が背負って十字架に架かることによって、彼らを終生主に従う者にしようと決心されたのだ。事実、この二人は主の復活の後、殉教の死をとげるまで主に仕えることとなる。
 さて、そう話された上、主は標記のように述べられた。これは神の国の秩序である。神の国では力や権力が支配するのではなくて、愛が支配原理である。主は最後に、「人の子が、仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのと同じように」と言われる。十字架に架かられた主イエスと「同じように」と言っておられるのだ。そんな主イエスにはとてもついて行けないと私たちは思ってしまう。だが、主イエスは、私たちが独り立ちして仕える者になるようにと放り出しておられるのではない。主イエスは御自分の命を捨てて、私たちを「仕える者」にしようと決心されているのである。

米子伝道所 主日礼拝説教<要 旨> 2012年2月19日  山本 清牧師 

 聖  書:マタイ20:20−28
 説教題:「仕える者になれ」
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