序.「仕える者になれ」は処世訓か

「今月の聖句」は週報の裏面にもありますように、今日の箇所の中の26節の後半から27節にかけての言葉で、「あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、いちばん上になりたい者は、皆の僕になりなさい」であります。「今月の聖句」はいつも、その月の説教テキストの中から選ぶことにしていて、それを週報や教会ごよみに書いて、1ヶ月の間、皆様が目にすることによって、心に刻みつけていただこうという狙いがありますが、もう一つの狙いは、表の掲示板に書いて、通りがかりの人に見ていただいて、教会の礼拝に出てみようという気持ちを持っていただけたら、という願いが込められています。そういう狙いがありますから、読んだだけで分りやすくて、「なるほど」と思えるような言葉を選ぶのですが、聖書の言葉というのは、背景があったり、特有の意味を持っていたりしますから、聖書の知識がなくて、それを読むだけでは、聖書が告げようとしている本当の意味を受け損ねる場合が多いのではないかと思います。今読んだ「今月の聖句」もそういう言葉の一つであります。聖書のことを知らない人でも、<なかなか良い言葉だ>と思うのではないでしょうか。例えば、会社などで、偉くなりたい人は、威張り散らすのでなく、逆に、人に仕えることが大事だ、という出世術として、的を射た言葉だと受け止めることが出来るのであります。確かにこの言葉は、私たちが社会生活をして行く上での一つの真理を表していて、私たちの陥りがちな姿勢を改めさせる警告として有益な言葉であるように思えます。しかし、一方で、この言葉のようには振舞えない自分があることにも気付かされるのであります。また、現実の社会の中では、仕えてばかりいては中々上に昇って行けないという、厳しい現実があるかもしれません。そういう現実を私たちは知っていますので、こういう言葉を聞いても、〈理想はそうかもしれないけれども、現実はなかなかそうは行かない〉というところで止まってしまうのではないでしょうか。
 しかし、この言葉は他でもない主イエスの言葉であります。単なる処世訓ではありません。今も生きて働いておられる主イエスの言葉であります。私たちはこの言葉をどう聞けば、主の御言葉として聴くことが出来るのでしょうか。どのように聞けば、私たちも「仕える者」になることが出来るのでしょうか。――今日は、そういう問いを持ちながら、与えられた箇所を見て行きたいと思います。

1.十字架の道へ引きずり出されて

今日の箇所はエルサレムへ上って行く途中で、主イエスとゼベダイの二人の息子たちとその母との間で交わされた対話であります。ゼベダイの二人の息子とは、先週の「山上の変貌」の場面でも登場したヤコブとヨハネでありまして、彼らは、元は漁師でありましたが、ペトロとアンデレ兄弟と同じ時に、主イエスの弟子として召し出されたのでありました。二人はその時から、主イエスの選びのうちにあって、将来「仕える者」になるようにと、召し出されていたということであります。今日の箇所で、彼ら二人とその母親は、二人の将来のことについて願いごとを持って主イエスの所にやって来るのですが、それよりずっと以前に、既に主イエスは彼らの将来について、すなわち彼らの特別な使命について考えておられた、ということであります。ですから、主イエスがおっしゃった「皆に仕える者になりなさい」という言葉は、決して一般論ではない、ということです。誰にでも通用するような処世訓ではない、ということです。
 
今日、私たちは同じ御言葉を聞いておりますのも、決して一般論としての人生訓を聞いているのではないのであります。主イエスが私たちを召し出し、私たちの人生、私たちの働きを考えながら、わざわざこの場所に導いて下さって、語っておられるのであります。主イエスは私たちを「仕える者」にしようと、今日、ここに召し出して下さっているのだ、ということをまず覚えたいと思うのであります。
 
さて、次に注目しなければならないのは、冒頭の20節に、そのとき、とありますように、今日の対話の場面の直前には、主イエスの三度目の死と復活の予告が記されていて、そこには、前の2回の予告と違って、主イエスの死の有様について、「死刑を宣告して、異邦人に引き渡され、侮辱され、鞭打たれ、十字架につけられる」と、具体的に言われていることと、更に今日の箇所の最後の28節には、人の子が・・・多くの人の身代金として自分の命を献げるために来た、と書かれているということであります。つまり、これからの主イエスとゼベダイの母子との対話は、何でもない平常時の対話ではなくて、主イエスが十字架と復活の話をされたことと密接に結びついているということであります。弟子たちは、主イエスの予告を聞いていたのに、見当はずれの全く別のことを考えていたのではないのです。むしろ、弟子たちは主イエスのただならない御決意を感じていたのだと考えられます。主イエスが前から言い続けておられた神の国が、いよいよ実現する時が迫っているということを感じていたのでありましょう。とは言え、彼らが十字架の死と復活ということがどういうことなのか、神の国が実現するということがどういうことなのか、よく分かっていたわけではありません。このあと見るように、彼らはこれから起ころうとしていることには相応しくないことを主にお願いしてしまいます。しかし、ここでも大切なことは、そのような彼らも、主イエスの御業に巻き込まれて行くということです。主イエスがおっしゃる「仕える者」になる道へと引きずり出されるということであります。
 
私たちも同様であります。私たちは、十字架と復活のことについて、その意味について、この時の弟子たちよりもよく知っています。しかし、「仕える者になる」ということがよく分かっていません。主イエスとどのような関係を結べばよいのかがよく分っていません。けれども、主イエスはそんな私たちを、「仕える者」になる道、十字架の道へと引きずり出して下さるのであります。

2.弟子たちの願い/私たちの願い

さて、20節によると、ゼベダイの息子たちの母が、その二人の息子と一緒にイエスのところに来て、ひれ伏し、何かを願おうとしました。「ひれ伏す」というのは、<礼拝する>という言葉であります。礼拝するというのは、神様の前に自分を差し出すことであります。しかし彼らは、「何かを願おうと」しました。
 
ここに、私たちの礼拝の姿が写し出されていないでしょうか。私たちは礼拝に来て、自分を差し出すことよりも、何かをいただくこと、自分に益になること、自分に得になることを期待しています。礼拝において御言葉によって大きな恵みをいただくことを願っておりますが、それと共に、自分の人生の願いが叶うこと、自分の立場が有利になること、自分が困っていることが改善されることを期待しています。主イエスはそんな私たちの期待にどう応えて下さるのでしょうか。
 
二人の弟子の母親は、さすがに、いきなり自分たちの願い事を言い出すのは気が引けたのか、口ごもっていたようであります。すると、主イエスの方から、「何が望みか」とお尋ねになりました。主イエスは、私たちが願い事をすることを拒否されません。主イエスは私たちの身勝手な願い事も聞いて下さるお方であります。日頃の様々な悩みや思いを主イエスの前に持ち出してよいのであります。
 
この「何が望みか」という主イエスのお言葉に、母親は早速、自分たちの願いを申し出ました。「王座にお着きになるとき、この二人の息子が、一人はあなたの右に、もう一人は左に座れるとおっしゃってください。」――これは厚かましい願いであります。しかし、主イエスが予告されたことと無関係ではありません。「王座にお着きになるとき」と訳されていますところは、原文は「あなたの御国において」であります。主イエスの十字架と復活の予告を聞いて、いよいよ神の国が実現すると思ったのであります。その点では彼らは間違っておりません。彼らは神の国の実現を素直に信じているのであります。彼らは、この世的な良い地位を確保したいと思っているのではありません。彼らはかつて、舟や父親を残して主イエスに従った弟子でありました。この世の地位や財産に執着があったわけではないでしょう。1928節を見ますと、「人の子が栄光の座に座るとき、あなたがたも、わたしに従って来たのだから、十二の座に座ってイスラエルの十二部族を治めることになる」と主イエスは約束しておられました。彼らは、この主イエスのお言葉を素直に信じているのであります。この点では、私たちよりも神の国について真剣であると言えるかもしれません。
 
そのように、彼らは神の国のことに真剣でありましたが、神の国を誤解しておりました。神の国をこの世の上下関係で捉えてしまいました。そして、他の弟子たちよりも高い地位について、より多くの人々を支配したいと考えたのであります。
 
こんな風に考えたのは、この二人の弟子だけではありませんでした。24節を見ますと、ほかの十人の者はこれを聞いて、この二人の兄弟のことで腹を立てた、とあります。皆が神の国のことを誤解し、我こそは神の国でよい立場に立ちたいと思っていたのであります。そのことは、以前にも181節で、弟子たちが、「いったいだれが、天の国でいちばん偉いのでしょうか」と主イエスに尋ねていることからも分ります。
 
こんな弟子たちを私たちは笑うことは出来ません。キリスト教の教会の歴史の中でも、だれがいちばん偉いのか、どちらが上なのか、という醜い争いが繰り返されて来ました。今の教会の中でも、ともすると、教会に対する熱心さから、自分の考えを押し通して、教会を支配しようとして、意見の違う者を排除しようとしたり、逆に、教会の中で自分が大切にされないこと、自分の功績が評価されないことに不平を持って、批判したり、教会を飛び出したりすることがあります。そのようにして、神の国の反映であるべき教会が、この世の組織と同じような、地位や名誉の争いの場になってしまうことがあります。

3.杯を飲む

ところで、弟子たちの厚かましい願いに対して、主イエスはどのように対応されたのでしょうか。主イエスはすぐに、「あなたがたは、自分が何を願っているか、分かっていない」とおっしゃいます。主イエスは、彼らの願いが間違っているとか、厚かまし過ぎるといって拒否することはされません。願っていることの中味が分っていない、願っていることが実現すると、どういう事態になることなのかをよく理解していない、と言われるのであります。
 
そして、続いて、「このわたしが飲もうとしている杯を飲むことができるか」と問われます。「杯」とは何でしょうか。先ほど朗読していただいた旧約聖書のエレミヤ書2515節にはこう書かれています。「それゆえ、イスラエルの神、主はわたしにこう言われる。『わたしの手から怒りの酒の杯を取り、わたしがあなたを遣わすすべての国々にそれを飲ませよ。彼らは飲んでよろめき、わたしが彼らの中に剣を送るとき、恐怖にもだえる。』」――この「杯」は、神の怒りの杯であります。「杯を飲む」とは、神様の裁きを受ける、或は神が定められた死を受け入れることを意味するのであります。ですから、「わたしと一緒に死ねるのか」と問うておられるのと同じことです。主イエスの右左に座るということは、主イエスと同じ苦しみを受けることになる、ということです。十字架の右左に架けられるのと同じ目に遭うということです。その覚悟があるのか、と問われたのであります。
 
これに対して二人は大胆にも、「できます」と答えます。二人がこのように答えたのは、十字架の死ということが、まだ現実のこととして捉えられていなかったということではないと思います。「杯」という言葉が「死」を意味することは分かったでしょう。ペトロは後に、「たとえ、御一緒に死なねばならなくなっても、あなたのことを知らないなどとは決して申しません」と言いました。他の弟子たちとて、それくらいの気持ちは持っていたのではないかと思います。彼らが口先だけで、「できます」と言ったのではないでしょう。ただ、ペトロも他の弟子たちも、いざという時に自分がどうなるか、という点が甘かったのであります。自分の弱さ、罪深さについて認識が甘かったのであります。結局は、十字架の時点では、彼らは主イエスと苦しみを共にすることが出来ません。十字架を共に担うことは出来ませんでした。
 
ところが、主イエスはこう言われます。(23)「確かに、あなたがたはわたしの杯を飲むことになる。」――これは主イエスも弟子たちのことを甘く見ておられたということでしょうか。そうではありません。主イエスは弟子たちの弱さを知っておられました。彼らが十字架の時には逃げてしまうことを御存知でありました。ですから、<お前たちは全然当てにならない>と言って、捨て去ってしまわれてもよかったのであります。それなのに、「確かに、あなたがたはわたしの杯を飲むことになる」と断言なさいます。これはどういうことでしょうか。――これは、主イエスがこの弟子たちを、<いつまでも自分に従って来る弟子にしよう>と決心なさったということであります。<この弱い弟子たちの罪も、自分が背負って、身代わりになって、十字架に架かろう>と決心なさった、ということであります。これは主イエスの決心の言葉なのであります。
 
この弟子たちは、主イエスの十字架の時には、やっぱり逃げてしまう弱い弟子たちでありました。しかし、主イエスがお甦りになり、聖霊が弟子たちの上に降った時からは、勇敢に主イエスのことを宣べ伝える弟子たちになったのであります。この時点では、甘い、弱い弟子たちでしたけれども、後には、主イエスがこの弟子たちを用いて、世界中に福音を伝える大きな働きをさせられるのであります。そのことを、主イエスはこの時に決心されたということであります。事実、この二人の弟子は、主イエス・キリストのゆえに、苦難を受け、殉教することになります。ヤコブは、使徒言行録121節によれば、ヘロデ王の迫害によって剣で殺されたと記されていますし、ヨハネの最後については聖書に書かれていませんが、伝説によれば<釜ゆで>にされて殉教の死を遂げたと伝えられています。確かに、主イエスが言われたとおりに、主の杯を飲むことになったのであります。
 
弟子たちが言った「できます」という言葉は、まったく当てにならないものでした。しかし、主イエスはその言葉を確かな言葉に変えられたのであります。ここの対話の中で弟子たちが望んでいたことは的外れであり、彼らが語る言葉は頼りにならないのでありますが、この対話の前後に語られているエルサレムで起こる出来事は真実であります。この十字架の真実は、弟子たちの不甲斐なさを越えて、弟子たちを神の国の真実へ結びつけるのであります。
 
私たちの主イエスに対する信仰や決意も、この弟子たちの言った「できます」という言葉と同様に、頼りないものでありましょう。しかし、主イエスが決心して下さるならば、私たちの頼りない「できます」も、確かなものに変えられるのであります。
 
この後、23節の後半で、主イエスはこう言われています。「しかし、わたしの右と左にだれが座るかは、わたしの決めることではない。それは、わたしの父によって定められた人々に許されるのだ。」―――ここでは主イエスは断定を避けておられます。それは、主イエスにも自信がないということではありません。神の国のこと、終末のことに関しては、天の父なる神様に委ねておられるのであります。そうであれば、私たちも、終わりの日にどうなるかということについては、神様に委ねるべきであります。私たちが知る必要はないのであります。主イエスは、終わりの日に天の王座にお就きになるお方であります。しかし、今は、終わりの日のことについて何も知らない私たちの側について、<知らなくても全く差し支えないのだよ>ということを、身をもって教えておられるのであります。大事なことは、将来の自分の立場、自分と神様との関係の度合いを知ることではなくて、今、自分の将来の立場を含めて、全てを神様に委ねることであります。

4.仕える者になりなさい

さて、主イエスはこの後、25節以下で、この世における弟子としてふさわしい生き方、神の国に入ることを約束された者にふさわしい生き方について語られました。今日の最も重要な言葉です。「あなたがたも知っているように、異邦人の間では支配者たちが民を支配し、偉い人たちが権力を振るっている。しかし、あなたがたの間では、そうであってはならない。あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、いちばん上になりたい者は、皆の僕になりなさい。」
 
「異邦人の間では」と言っておられますが、これは〈神様を知らない人たちの社会では〉、〈一般の社会では〉という意味に受け取ってよいでしょう。この世の社会では、支配者たちが、勝ち取った権力を振るって支配しているのが現実であります。それは昔も今も変わりません。「しかし、あなたがたの間では、そうであってはならない」と言われます。「あなたがた」とは、主イエスに選ばれた新しい神の民、真実の教会の群れであります。神の国に属する者たちのことであります。そこにおける秩序は、この世の秩序とは逆転しています。そこでは、誰が偉いか、誰が力を持っているか、誰が上かということが重要なのではなくて、誰が仕えているか、だれが僕になっているかが重要なのであります。上に立つことではなくて、下で仕えることが大切なのであります。
 
ここで間違ってはならないのは、最初にも申しましたように、これは処世術や道徳訓ではありません。〈謙遜に周囲の人や上司に仕えることによって、皆に好かれて、結局は出世できるのだよ〉という処世術ではありませんし、〈人に奉仕しておけば、いつかは自分に帰って来る〉というような道徳訓でもありません。主イエスはここで、神の国の秩序のことを言っておられるのであります。神の国の秩序は、この世の秩序とは全く逆転しているということです。神の国の王座にお就きになる方が、私たちのような罪のどん底にある者のために仕えられたのであります。最低の人間のために命を捨てられたのであります。それが神の国の原理であります。力や権力が支配するのではなくて、愛が支配原理なのであります。仕えることによって、最終的に栄誉が得られるとか、最後はよい立場が得られるということではありません。仕えること自体が喜びであり、恵みであり、神の国なのであります。

結.人の子と同じように

主イエスはこのように、弟子たちに「仕える者になりなさい」「皆の僕になりなさい」と教えられました。しかし、そのように教えられた弟子たちは、仕える者になることが出来たのでしょうか。弟子たちは、主イエスの十字架の時には、主に仕えることが出来ませんでした。それが弟子たちの現実でありました。私たちもこの弟子たちと何ら変わるところがないのではないでしょうか。私たちも主イエスのためにお役に立つというよりも、迷惑ばかりかけている者たちであります。否、迷惑をかけているばかりか、主イエスの名を傷つけ、主イエスを死へと追いやっている者の一人であることを思わざるを得ません。
 
そのような弟子たちであり、私たちでありますのに、主イエスは更に28節でこう言われます。「人の子が、仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのと同じように。」――これは、主イエス・キリストの十字架のことが語られています。十字架は多くの人の罪のために、主イエスがご自分の命を代償として献げて下さる救いの御業であります。そのような主イエスの十字架の死と同じように、あなたがたも皆に仕えなさい、と言われるのです。そのように言われても、私たちにはとても出来るとは思えません。とんでもないと思います。では、これは理想が語られているだけで、私たちはこの主イエスの精神に沿って、少しでも人のために仕えられればそれでよい、ということなのでしょうか。――そうではありません。「人の子」と「同じように」と言っておられます。〈私が自分の命を献げるのと同じように、あなたがたもするのだ〉、と言っておられるのであります。あなたがたも命を献げなさい、と言っておられるのであります。
 
そんなことを要求されるのであれば、私はとっても主イエスについていけない、と思ってしまいそうです。すぐ前の19章には「金持ちの青年」との対話が書かれていますが、金持ちの青年は主イエスから「行って持ち物を売り払い、貧しい人々に施しなさい」と言われて、すごすごと立ち去ったように、私たちも今日の主イエスの御言葉を聞いて、すごすごと立ち去らなければならないのでしょうか。
 
そうではありません。主イエスはここで私たちを放り出しておられるのではありません。〈私のところから出て行って、独り立ちして、仕える者になりなさい〉、とおっしゃっているのではありません。先ほども申しましたように、主イエスはここで弟子たちのために決心をしておられるのであります。弟子たちを「仕える者」にしようと決心されたのであります。同様に、主イエスが私たちにこの言葉を語られる時には、主が私たちを「仕える者」にしようと決心しておられるのであります。御自分の命さえ献げて、それを成し遂げようとしておられるのであります。だから、私たちのような者でも「仕える者」になれるのです。人のために命を献げる者になれるのであります。〈命を献げる〉というのは、必ずしも肉体の生命が断たれるということではないかもしれません。自分の生活を献げるとか、自分の誇りやプライドを献げるということも、肉体の命を献げるのと同様に自分を捨てることであります。自分にはとても出来ないと思えることであります。しかし、主イエスは御自分の命を献げて、弟子たちがそれを出来るようになさいましたし、私たちにもそれが出来るようにして下さるのであります。「それは人間にできることではないが、神には何でもできる」からであります。主イエスのお言葉が、この私たちにも成就するように、お祈りいたしましょう。

祈  り

教会の頭なるイエス・キリストの父なる神様!
 
御子イエス・キリストを私たちのために遣わし、その命をもって私たちの罪を贖ってくださいましたことを覚えて、感謝いたします。今、「この主イエスと同じように、皆に仕える者になりなさい」との御言葉をいただきました。戸惑いながら、御前にある者ですが、どうか、私たちを召し出して下さった主が、それを成し遂げることが出来るように、導いて下さいますように。どうか、私たちの汚れた命、小さな献げ物が、あなたによって清められ、大きく用いていただけますように、お願いいたします。
 
主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

米子伝道所 主日礼拝説教<全原稿> 2012年2月19日  山本 清牧師 

 聖  書:マタイ20:20−28
 説教題:「仕える者になれ」
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