序.主の輝きに何を見るか

今日与えられておりますマタイによる福音書171節から8節の箇所は、小見出しには「イエスの姿が変わる」と書かれています。以前は少し難しい言葉で、「山上の変貌」と呼ばれていました。主イエスが弟子のペトロとヤコブとヨハネの三人だけを連れて山に登られたとき、主イエスの顔は太陽のように輝き、服は光のように白くなった(2)、という出来事があったからです。これは3つの福音書に書かれている出来事で、主イエスの公けの御生涯の中で、弟子たちにとって印象に残る出来事であったに違いないと思います。
 
ところで、加藤常昭先生は、ここの説教の題を「イエスの正体」とされました。先生はその説教の中で、「正体」という言葉は、悪い者の本性が暴露されたような場合に使うので、違和感があるかもしれないけれども、「正体」と言う言葉の本来の意味は、「物事の本質」とか「物事の精髄」を表す用語なのだと説明されていて、その後で、「変貌」という表現が誤解を生みやすいということを仰って言っておられます。どういうことかと言いますと、「変貌」というと、主イエスがこれまでとは違う別の何者かに変わってしまうと理解して、ここで主イエスが初めて本当の神様におなりになったと考えてしまう恐れがあるのだけれど、ここで起っていることは、そういうことではなくて、ずっと主イエスが持ち続けておられた正体、すなわち本質が明らかにされたということなのだ、ということであります。
 
では、今日の箇所の出来事で、主イエスの本質がどのようなものであると明らかにされたのでしょうか。現象としては、御顔が太陽のように輝き、服が光のように白くなったということですが、これはどのような主イエスの本質を表しているのでしょうか。今日は、そのことをこの箇所から聴き取りたいと思うのですが、マタイによる福音書は、どこにそのポイントがあるということを、一つの言葉で指し示してくれています。その言葉は残念ながらこの新共同訳では隠れてしまっていてよく分からなくなっていますので、週報の裏面に別の訳を紹介させていただきました。
 
六日の後、イエスはペトロとヤコブとその兄弟ヨハネとを同行させ、彼らだけを高い山の上に連れて行かれた。そして、彼の姿が彼らの目の前で変わった。彼の顔は太陽のように輝き、彼の衣服は光のように白くなった。すると、見よ、モーセとエリヤとが彼らに現われ、彼と話していた。ペトロが答えて、イエスに言った、「主よ、われわれがここにいるのは素晴しいことです。あなたがお望みなら、私はここに三つの小屋を建てましょう。あなたのために一つ、モーセのために一つ、そしてエリヤのために一つを。」彼がまだ話しているうちに、見よ、光の雲が彼らを覆った。すると見よ、その雲の中から、「これは私の愛する子、この者を私は気に入る。彼に聞け」という声が(した)。弟子たちは、それを聞いたとき、ひれ伏して、非常な恐れに陥った。するとイエスが近づき、彼らに手を触れて、「起き上がりなさい。恐れるな」と言われた。彼らが目を上げたとき、彼らは彼イエスひとりだけの他は、誰も見なかった。
 
これは「EKK新約聖書註解」の訳ですが、そこには「見よ」という言葉が3回出て来ております。原文にはそういう言葉がちゃんとあるのです。そこで今日は、この言葉に導かれて、主イエスの正体(本質)はどこにあるのか、主イエスの輝きは何を表しているのかということを聴き取りたいと思うのであります。

1.公生涯の転換点で

「見よ」と書かれている部分に入るまえに、今日の箇所の出来事の前後関係を見ておくことが大切なので、そのことをまずお話ししておきます。冒頭に、六日の後、とありますが、主イエスが三人の弟子たちと山に登られたときの出来事の六日前には、直前の段落に書かれているように、主イエスがご自分の死と復活のことを予告されたのでありました。これはマタイによる福音書の記されている最初の予告であります。そして、その予告は、更にその前の1613節以下にあるように、主イエスと弟子たちがフィリポ・カイザリア地方に行かれた際に、主イエスが「あなたがたはわたしを何者だというのか」と尋ねられたときに、弟子のペトロが「あなたはメシア、生ける神の子です」と告白した、すぐ後のことでした。その告白に至るまでは、主イエスのガリラヤでの伝道活動がありました。そこでは、天の国が近づいたことを告げられました。そして、多くの奇跡の業を行なわれました。また、数々の説教をなさいました。そして、主イエスへの期待は次第に高まって参りました。その期待は、主イエスを王にしようというような、必ずしも的を射たものではありませんでしたが、当時の為政者や宗教指導者たちが危険視するには十分な高まりでありました。
 
一方、今日の箇所の後はどうでしょうか。二度目、三度目の「受難と復活の予告」の後、主イエスは決然とエルサレムに向かわれます。そしてエルサレム入城後の受難の一週間が待っているわけであります。
 
このように見て参りますと、今日の箇所の出来事は主イエスの公の生涯の中で、大きな転換点に位置することが分ります。次第に高まった期待が頂点に達した所で、この出来事があって、その後はエルサレムでの御受難の深みへと下って行かれるのであります。ちょうど、この高い山に登られた主イエスが、この後、9節にあるように、山を下りられるのですが、そのように、今日の箇所は主イエスの公生涯の峠に当たるのであります。このあとは、一目散に十字架へと下って行かれるのであります。
 
もう一つ、あらかじめ注目しておきたいのは、1節で、イエスは、ペトロ、それにヤコブとその兄弟ヨハネだけを連れて、高い山に登られた、と書かれていて、わざわざ「だけ」という言葉が添えられていることです。この三人の弟子は聖書の中で、しばしば重要な出来事の証人として選ばれています。死んだヤイロの娘を生き返らされた出来事(マルコ521以下)の場合も、この三人の弟子たちのほかは、だれもついて来ることをお許しになりませんでした。ゲッセマネで主イエスが苦渋の祈りをされた時に伴われたのも、この三人でした。彼らが特別に優れた弟子たちだったから選ばれたのでないことは、後に、ヤコブとヨハネは<イエス様が王座にお着きになったとき、右左に座らせてください>というような愚かなお願いをしましたし、ペトロは主イエスが捕らえられたときには、主イエスのことを知らないと言って裏切ってしまった弟子であります。そういう弱さを持つ弟子でありますが、主イエスは敢えてそういう弟子を重要な場面の証人として選ばれたのであります。今日の箇所の出来事も、後ほど4節以下で見ますように、ペトロはこの出来事の意味をこの時はよく理解出来ていなかったのでありますが、主イエスの復活後にやっと理解出来るようになって、自らの恥も曝しながらも、証人として証しする役割を果たしたので、聖書に書き残されることになったのであります。

2.見よ、モーセとエリヤと語り合う主

さて、第一の「見よ」は、3節にあって、そこではモーセとエリヤが現れ、イエスと語り合っていた、ということが記されています。光輝く主イエスがなぜモーセとエリヤと語り合われているのでしょうか。
 
モーセと言えば、エジプトで奴隷状態にあったイスラエルの民を、神様が解放される時にリ−ダーを務めた人であります。そして、出エジプトの荒れ野の旅の途中で神様から律法を与えられ、イスラエルの民に伝えた人です。そういう意味でモーセは律法を代表するような人です。先ほど、旧約聖書の朗読で出エジプト記3429節以下を読んでいただきました。ここはモーセが十戒を再授与されて、山から下って来た時の場面ですが、その顔の肌が光を放っていたのであります。神様との交わりが顔の輝きをもたらしたのであります。主イエスもまた、父なる神様と深い交わりを持たれているということ、神様と一体であるということが、今、その顔が太陽のように輝き、服が光のように白くなっていることによって分るのであります。モーセによって伝えられた律法は、イスラエルの民が神様の恵みのもとに生きるために守るべき規範として与えられたものでした。しかし、イスラエルの民は、その律法を形の上では守っていましたが、神様の望まれた本当の意味では守ることが出来ませんでした。そして、イスラエルの民ばかりでなく、私たち全ての人間は律法を守ることが出来ず、神様の御心に背いてしまいます。主イエスはその罪の贖いのためにこそ、これから十字架への道を歩もうとされているのであります。罪からの解放という、モーセにおいては達しえられなかったことを、これから主イエスが完成させようとされているのであります。そのことが語り合われているのでありましょう。
 
 次に、エリヤと言えば、預言者の一人でありますが、異教のバアル礼拝をする人たちとカルメル山で対決して勝利したことで有名な人で、旧約聖書の最後のマラキ書3章23節で、「見よ、わたしは大いなる恐るべき主の日が来る前に預言者エリヤをあなたたちに遣わす」と言われていて、イスラエルの人々は洗礼者ヨハネが現れた時に、約束のエリヤが再来したのではないかと考えたり、主イエスのことを再来のエリヤではないかと言ったりしたほどの人であります。預言者の代表のような人であります。
 
ですから、モーセとエリヤと言えば、律法と預言者の代表であり、旧約聖書の代表ということになります。そのモーセとエリヤが主イエスと語り合うということは、律法と預言の完成について語るということになり、旧約聖書と新約聖書の語り合いであり、イエス・キリストによって、旧約以来の救いの御業の完成について、語り合われていたということになるのであります。ルカ福音書の平行記事では、この部分について、「イエスがエルサレムで遂げようとしておられる最期について話していた」と記しております。つまり、主イエスの御生涯の最期の十字架と復活の御業によって、救いの御業を完成することが語り合われていたということであります。六日前にペトロは、主イエスが十字架のことを予告された時に、「主よ、とんでもないことです」と言って、主のお叱りを受けました。そのペトロも、後にこの日の出来事を思い出して、十字架の意味が分かるように、この光景を見せられたということでありましょう。そして今、私たちにも、この3人の対話の場面の聖書を通して、旧約以来の救いの約束が主イエスによって完成されたのだということが示されているのであります。

3.見よ、輝く雲が彼らを覆い

次に、5節にあります第二の「見よ」についてですが、別訳では、こう訳されています。「彼がまだ話しているうちに、見よ、光の雲が彼らを覆った。」ここで「彼」というのはペトロのことです。4節でペトロが三人の会話に口をはさんで言いました。「主よ、わたしたちがここにいるのは、すばらしいことです。お望みでしたら、わたしがここに仮小屋を三つ建てましょう。一つはあなたのため、一つはモーセのため、もう一つはエリヤのためです。」ペトロは少々舞い上がってしまったようです。なにしろ旧約聖書を代表する人物が現れたのですから。ペトロは、このすばらしい状況がいつまでも続くようにとの思いから、三人の滞在のための仮小屋を三つ建てようと考えたのでしょう。しかし、それは見当違いのことでありました。3人は今、十字架の救いの御業のことを語り合っていたのであります。その御業を抜きにしては、救いの御業の完成はありませんし、主の御栄光もないのであります。地上にはなお、罪と苦しみと死の支配があります。主イエスはそのために十字架の道をお進みになるのであります。ですから、ここで満足することは許されません。そこで、光り輝く雲が彼らを覆ったのであります。「雲」というのは、旧約聖書では神様の御臨在を表すものである一方、神様を人の目から隠すものであります。今、ペトロが間違った思いに捕われそうになったので、隠されたのであります。見なければならないのは、これから始まる十字架の道なのであります。私たちもなお地上の罪人であります。ですから、栄光の場面に見とれているわけには参りません。再び地上の主イエスに目を注がなければならないのです。

4.見よ、・・・これに聞け

3人の対話の場面が光り輝く雲によって覆われた後、5節の後半で、別訳にあるように、三度目の「見よ」が語られます。「すると見よ、その雲の中から、『これは私の愛する子、この者を私は気に入る。これに聞け』という声がした。」――「見よ」というのに「聞け」というのはおかしいようですが、この場合の「見よ」というのは、「注意せよ」というような意味に受け取ったらよいと思います。
 
雲の中から聞こえた言葉は、「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者。これに聞け」でありました。この言葉は耳新しい言葉ではありません。詩編第27節にある言葉で、それは<王の即位の歌>と呼ばれるものです。ですから、主イエスが王として神様の御心に適った者である、と言われたと受け止めることが出来ます。
 
また、この言葉はイザヤ書42章の<苦難の僕の歌>の中で、イスラエルの救いのために登場する「苦難の僕」が神様から召命を受ける言葉を思わせるものであります。つまり、主イエスが「苦難の僕」として十字架に向かわれることを承認する言葉として聞くことも出来るのであります。
 
更にもう一つ忘れられないのは、この言葉は、主イエスが洗礼を受けられた時に、天から聞こえた言葉と同じであることです。それは、主イエスこそ、愛する神の子であるということです。苦しみを受け、殺される主イエスこそ、神様の最愛の御子であり、神様の御心を行なう者であり、ここに救いの道がある、ということであります。
 
最後に、「これに聞け」という言葉が付け加わっています。この言葉は、申命記1815節の言葉を受けていると言われます。そこは神様が預言者を立てる約束をされることをモーセが伝える場面ですが、こう言われています。「あなたの神、主はあなたの中から、あなたの同胞の中から、わたしのような預言者を立てられる。あなたたちは彼に聞き従わねばならない。」――主イエスは、モーセやエリヤを超えて神様の御心を伝える究極の預言者であります。神の御言葉そのものであります。主イエスに聞くことは、神様に聞くことであります。そのことがここで告げられたということです。私たちが救いを得るのに、この主イエスの御言葉に聞く以外の道はない、ということであります。ペトロは山の上に仮小屋を建てようといたしました。しかし、それよりも今なすべきことは、地上で主イエスの御言葉を聴くことだ、ということであります。私たちは理想郷のようなものを求めてはならない、ということです。教会の中にさえ、ただ麗しい心地よいだけの夢のような場所を求めてはならないということです。教会には罪と激しく戦われる主イエスの御言葉があります。その御言葉を本気で聴いて従うのでなければ、救いがもたらされることがないのであります。

結.見ると、イエスのほかにはだれも

6節を見ますと、弟子たちはこれを聞いてひれ伏し、非常に恐れた、と記されています。神様の声を聞いて、恐れない者はいません。神様の言葉は私たちの罪を露わにするからであります。神様の言葉に聞き従うか従わないかによって、救われるか救われないかが決ります。それは私たちの命に関わることであります。恐ろしいことであります。しかし、この恐れが必要であります。神様の前で自分の汚れと滅びを知って、ひれ伏すことが必要であります。
 
弟子たちが天からの言葉を聞いた時、主イエスは近づき、彼らに手を触れて言われました。「起きなさい。恐れることはない。」――主イエスは近づいて来られたのです。雲の彼方の高い所にいて、ただ「起き上がれ」と声だけかけられるのではありません。主イエスは弟子たちの手を触れて言われたのであります。「手を触れる」というのは、病人を癒し、立ち上がらせるときのお言葉です。私たちも病の中にいます。罪の病の中にいます。幻想や心地よい夢を見て、自分の現実の姿を見ていません。そんな私たちに近づいて来て、手を触れてくださるのです。そして、「起きなさい。恐れることはない」と言って、立ち上がらせてくださるのであります。自らが十字架へと向かわれて、私たちの罪を担ってくださる主イエスが、手を差し伸べて、そう言ってくださるのであります。
 
8節にはこう書かれています。彼らが顔を上げて見ると、イエスのほかはだれもいなかった。そこにはもう、モーセもエリヤもいません。弟子たちの前には、主イエスのほかは誰もいませんでした。私たちを救ってくださるのは、主イエスをおいて他にありません。律法を伝えたモーセも、預言の言葉を伝えたエリヤも、結局イスラエルの民を救うことは出来ませんでした。自ら十字架に架かってくださって、律法と預言を完成してくださった主イエスだけが、私たちを罪の中から救い出してくださいます。この主イエスが差し出してくださる主の手にすがる以外に、誰も私たちを救ってくれる者はいないのであります。
 
3人の弟子たちは、こうして主イエスとともに、山を下りて、十字架が待っているエルサレムへと向います。この時点ではペトロたちにはまだ全てが分っているわけではありませんでした。主の十字架の時には、逃げ去ってしまった弟子たちであります。しかし、十字架と復活の後に、この時のことを思い出しました。そしてそれ以来は、この時のことを忘れることが出来なかったのでありましょう。後に教会の指導者になったペトロが書いたとされるペトロの手紙の二116節以下で、このように書いています(p437)。
 「わたしたちの主イエス・キリストの力に満ちた来臨を知らせるのに、わたしたちは巧みな作り話を用いたわけではありません。わたしたちは、キリストの威光を目撃したのです。荘厳な栄光の中から、『これはわたしの愛する子。わたしの心に適う者』というような声があって、主イエスは父である神から誉れと栄光をお受けになりました。わたしたちは、聖なる山にイエスといたとき、天から響いてきたこの声を聞いたのです。こうして、わたしたちには、預言の言葉はいっそう確かなものとなっています。夜が明け、明けの明星があなたがたの心の中に昇るときまで、暗い所に輝くともし火として、どうかこの預言の言葉に留意してください。」(1619節)
 
今、暗闇が覆っているように見えるこの世界で、教会の灯す火は消えそうにさえ見えるのですが、主の御言葉は一層確かなものとなっている、というのであります。そして、やがて夜が明け、明けの明星が昇って来ます。終わりの日が明け初めます。その時、主イエスが私たちのところに来て下さいます。その時まで、私たちは御言葉を聴き続け、希望を抱き続ける者たちでありたいと思います。
 
祈りましょう。

祈  り

私たちの希望の光であり給うイエス・キリストの父なる神様!
 
十字架へと向かわれるイエス・キリストを「わたしの心に適う者」とされて、私たちのために救いも御業を成し遂げて下さいましたことを覚えて、感謝いたします。
 
私たちはなお、罪の中にあり、希望の光を見失いがちな者で、様々な恐れや不安の中にあります。どうか、御言葉が私たちを捉えてくださり、御言葉によって私たちを造り変え、生きる希望と力に満たして下さい。そして、終わりの日に、輝く主を仰ぐ者とならせてください。
 
主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

米子伝道所 主日礼拝説教<全原稿> 2012年2月12日  山本 清牧師 

 聖  書:マタイ17:1−8
 説教題:「主イエスの輝き」
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