イエスが、「子供たちのパンを取って小犬にやってはいけない」とお答えになると、女は言った。「主よ、ごもっともです。しかし、小犬も主人の食卓から落ちるパン屑はいただくのです。」                               (マタイによる福音書1526,27

 「カナンの女の信仰」の記事には、二つのひっかかり(疑問)を覚える。第一は、主イエスが、娘のことで苦しむ異邦人の女に冷ややかな態度をとられたこと、第二は、その女が、主イエスの厳しい言葉にもめげず、標記のように言って、主イエスから「あなたの信仰は立派だ」と言われたが、その信仰はどこから来たのか、という点である。
 
第一の点は、主イエスが異邦人の救いをどのように考えておられたかということに関わる。主は御自身で明言されているように、まずはイスラエルの家の失われた羊を救うことを使命としておられた。しかし、その先には、「すべての民をわたしの弟子に」(2819)との展望を持っておられて、敢えて、異邦人が多く住んでいたティルスとシドンの地方に出かけられたのではないか。カナンの女には一見冷たい態度と言葉で対応されたが、それは、彼女が、<もともと、自分たちには神の憐れみを受ける権利などない>ということを知らせることによって、謙遜な信仰へと導くためであったのであろう。
 
第二の、カナンの女の信仰については、彼女がいきなり「主よ、ダビデの子よ」と、異邦人には言えないような言葉を叫び、しつこくつきまとう姿には、娘を思う気持ちと、主イエスに対する一定の信頼を読み取ることは出来るが、それはまだ不十分な信仰であることを主イエスが見抜かれて、一見冷たい言葉を述べることによって彼女の中に謙遜な信仰を育てられたのではないか。彼女も、主イエスの言葉の奥にある深い憐れみの心と、自分に対する招きを聴き取って、娘が必ず救っていただけると確信するに至ったのではないか。こうして、この異邦人の女の中にも、謙遜で、主に対する信頼と確信に満ちた「立派な信仰」が生み出されたのであろう。
 
私たちも、神様が何も答えてくださらないと思えることがある。礼拝で聞く御言葉も厳しいだけのものにしか聞こえないことがある。しかし、その裏には深い憐れみの御心がある。そこに、私たちを謙遜で信頼に満ちた「立派な信仰」へと成長させてくださる主の導きがある。

米子伝道所 主日礼拝説教<要 旨> 2012年2月5日  山本 清牧師 

 聖  書:マタイ15:21−28
 説教題:「立派な信仰とは」
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