序.立派な信仰とは

 
私たちの伝道所では、3年前から「黙想ワークショップ」というのをやって参りました。何のためにこれをするのかと言いますと、聖書の御言葉を、自分に語られた神様の言葉として聴き取ることが出来るようになるためであります。もちろん、御言葉を聴き取ることが出来るかどうかは、聖霊の働きによることですから、私たちが「黙想ワークショップ」で訓練したり、共同作業をすれば、御言葉を聴けるというものではありません。しかし、御言葉を聴き取るということは、単に知識を得るとか道徳の訓話を聞くということではなくて、神様の御心と向き合うということですから、日頃から御言葉と向き合う姿勢を養っておくことが有益であります。その姿勢は、基本的には礼拝説教の中でこそ養われるものですが、説教者と各人の11の対話だけでなく、数名の人たちがそれぞれ自分の受け留め方を話し合う中で、御言葉の理解が深められるということがあるので、「黙想ワークショップ」という共同作業の場を設けたということです。
 
ところで、「黙想」をする際に大事なこととして、一昨年青木先生に教えられたことの一つは、まず御言葉のザラザラ部分(ひっかかりを覚える部分)について話し合うということでした。ひっかかりを覚える部分について話し合うことによって、御言葉への理解を深めることが出来るからであります。ひっかかりなしに、「そうかそうか」と読み進んでしまうと、恐ろしいことが起ります。「そうかそうか」では、自分の考えが神様のお考えと一緒であることを確認して安心するに留まって、自分の思いを超えた神様の御心を聞き逃してしまうことになるからです。ですから、自分の思いでは理解しにくいことや自分に語られた御言葉として聴くのに抵抗があるところにひっかかって、格闘することが大切なのであります。そこから、私たちの思いを越えた神様の豊かなメッセージを聴き取る道が開けて来るのであります。
 
少々前置きが長くなったのですが、今日の箇所にも大きなひっかかりがあります。今日は、そのひっかかりについて検討しながら、この物語に込められている私たちへの重要なメッセージを聴き取りたいと思っています。
 
この箇所の大きなひっかかりとして、二つを挙げることが出来ます。一つは、一読して既に皆様もお感じになっていることだろうと思いますが、カナンの女の切実な訴えに対して、主イエスが、初めは何もお答えにならず、弟子たちが「この女を追い払ってください」と言ったときにも、「わたしは、イスラエルの家の失われた羊のところにしか遣わされていない」という、普段の主イエスとは違う対応をされたことに疑問を感じますし、それでもひつこく「主よ、お助けください」と迫る女に対して、「子供たちのパンを取って子犬にやってはいけない」という、異邦人のことを「犬」と呼ぶような、差別発言とも聞こえる言葉を発せられたことにも、大きな抵抗を感じられたのではないかと思います。
 
今一つのひっかかりは、27節で女が言ったことに対して、主イエスは、「婦人よ、あなたの信仰は立派だ」と言われて、その信仰を認められて娘の病気はいやされるのですが、確かに、この女の主イエスに対する信頼は篤いですし、主イエスの冷たく見える対応にもめげなかった信仰は立派だと言えるのでありますが、そんな立派な信仰を持ち得ない私たちはどうなるのだろう、私たちが救われるために、主イエスはこれほど大きな信仰的功績を要求されるのか、主イエスはもっと憐れみに富んだお方ではなかったのか、という疑問が湧いて来るのであります。
 
今日は、これらの二つのひっかかりにこだわりながら、与えられたテキストから、主が今日、私たちに語ろうとしておられる御言葉を聴き取って、カナンの女が受けた恵みに劣らない大きな恵みを受け取りたいと思っております。

1.異邦人の救い

まず、第一のひっかかりである、<主イエスが異邦人の救いをどう考えておられたのか>という点にについて、今日の箇所を見て行きたいと思います。
 
最初の21節を見ますと、イエスはそこをたち、ティルスとシドンの地方に行かれた、とあります。ティルスとシドンというのは、巻末の聖書地図の「6新約時代のパレスチナ」で見ると、上の方の地中海沿岸にある町ですが、ここはユダヤ人たちからすると異邦人が多く住む地域であります。22節を見ると、この地に生まれたカナン人の女、という表現があります。「カナン人」というのは、もともとパレスチナ地方一帯に住んでいたのですが、ユダヤ人がそこに侵入して来て定着するようになって、追われるようにして、北の方に住んでいたのであります。主イエスはこれまでガリラヤ地方で伝道されていたのですが、この時わざわざ、その異邦人が多く住む地域に行かれたのであります。その目的については、聖書にはっきりとは書かれていないのですが、ガリラヤ地方での伝道では人々に追い掛け回されておられたので、一時静かに祈りの時を持つためであったのではないかと推測することも出来ます。しかし、福音書記者は、そこが異邦人の地であり、やって来たのが異邦人のカナンの女であったことを強調しています。このマタイ福音書は主イエスが復活後に語られた、「すべての民をわたしの弟子としなさい」というお言葉で締めくくっていますように、救いがユダヤ人だけに留まらず、異邦人へと広げられたというメッセージを伝えようとしていますので、既にこの時から、そうした主イエスのお考えが表されていたということを伝えたかったのかもしれません。そうであれば、主イエスは、異邦人に出会うために、わざわざこの地方に出かけられたのだと受け取ることも出来るのであります。
 
そうだとすると、そのカナンの女が出て来て、「主よ、ダビデの子よ、わたしを憐れんでください。娘が悪霊にひどく苦しめられています」と叫んだ時に、なぜ、何もお答えにならなかったのでしょうか。「ダビデの子よ」という呼びかけは、「あなたこそ、ダビデの子孫に出現すると預言されているメシア(救い主)です」と言っているのと同じです。その的を射た言葉にすぐ応答されてもよかったのではないかと思います。しかし、主イエスは黙っておられたのであります。不思議です。
 
そこで、弟子たちが近寄って来て願いました。「この女を追い払ってください。叫びながらついて来ますので」。この弟子たちの願いは、二つの解釈があります。一つは、<せっかく静かにしようと思ってここまで来たのに、うるさくてしょうがないし、相手は異邦人の女だから、追い返したらどうですか>、という普通の解釈、今一つは、「追い払う」という言葉を「自由にする」とも訳せるので、ここの意味は、<せっかく熱心に叫んでいるのだから、早く願いを聞いてやって、自由にしてやったらいかがですか>、と言ったとする解釈です。しかしいずれにしろ、弟子たちは彼女の悩みを深く考えているわけではありません。では、主イエスはどう考えておられたのでしょうか。
 
弟子たちの願いに対して、主イエスは、「わたしは、イスラエルの家の失われた羊のところにしか遣わされていない」とお答えになります。先々週に聴きました9章の終わりの36節に、「群衆が飼い主のいない羊のように弱り果て、打ちひしがれているのを見て、深く憐れまれた」という記述がありました。主イエスは、そのようなイスラエルの人々の救いが喫緊の課題であると考えられていたようで、105節を見ていただきますと、弟子たちにこう命じておられます。「異邦人の道に行ってはならない。また、サマリア人の町に入ってはならない。むしろ、イスラエルの家の失われた羊のところへ行きなさい」と。その言葉をここでも繰り返しておられるのであります。主イエスの頭の中には、遠い将来は別として、今はまずイスラエルの民の救いに集中するのが自分の使命だというお考えがあったということでしょうか。
 
この主イエスの言葉をカナンの女も聞いたのかどうかは分りませんが、彼女は主イエスの前に来ると、ひれ伏して、「主よ、どうかお助けください」と言いました。何とか娘をいやしてもらいたいという必死の思いが伝わって来ます。ところが主イエスは、こうおっしゃいます。「子供たちのパンを取って小犬にやってはいけない」。「子供たち」とはユダヤ人のことで、「小犬」というのは、異邦人のことを指しています。今、私にとって大事なことは、イスラエルの家にいる子どもたちを養うことであって、小犬のことまでかまっていられない、ということです。主イエスはこうして、三度までカナンの女の切なる願いを拒否されたのであります。確かに旧約聖書の伝統の中では、イスラエルの民の救いが優先でありました。もっとも、終わりの日には、異邦人も神を礼拝するためにエルサレムに集まって来るというイザヤの預言も信じられていましたが、それに先立って、イスラエルの民が救われるべきだと考えられていました。主イエスのその伝統的な考えに従って、異邦人には冷たくされたということなのでしょうか。
 
しかし、主イエスが本当に異邦人は後回しと考えておられて、最初からこの女の願いを拒否しようと考えておられたのであれば、沈黙なさるのではなくて、はっきりと拒否の態度を示されてもよかった筈です。弟子たちが願ったように、ひつこくつきまとう女を、追い払われてもよかった筈です。ところが、そうはされずに、この女に向き合って対話を始められたのであります。この女に教えようとされているのであります。何を教えようとされているのか。――それは、もともと自分たちには神様の憐れみを受ける当然の権利などないのだ、ということであります。これは異邦人に限らず、ユダヤ人にだって言えることですが、まして、神様の救いの御計画では、イスラエルの民の中から始められということでした。そのことをきっちりと弁えることから始めなければなりません。これは、私たちにも言えることであります。神様の恵みを受けることは、当然の権利なんかではありません。

2.カナンの女の信仰

では次に、主イエスから「あなたの信仰は立派だ」と言われたカナンの女の信仰について、見て行きたいと思います。
 
彼女は主イエスに対していきなり、「主よ、ダビデの子よ」と呼びかけております。これは異邦人が言える言葉ではありません。ユダヤ人は救い主がダビデの子孫から出るということは信じておりましたが、主イエスを救い主とすることについては、当時の指導者たちは反対しておりました。その中で「ダビデの子」と言い切ったのは、異邦人だから出来た、という面があるかもしれません。しかし、この段階で、本当に主イエスを、預言者たちの言うメシアと考えていたのかどうかは分りません。主イエスがこれまでにガリラヤ地方で悪霊に苦しめられている人を助けられたということを伝え聞いて、<この人なら自分の娘からも悪霊を追い出して下さるだろう>、と期待しただけで、「ダビデの子」と呼びかければ、自分に関心を持ってもらえると思っただけなのでしょう。必死の「叫び」ではあっても、信仰とは言えません。
 
それに対して、主イエスは彼女の心の内を見抜かれたのか、すぐには反応されずに、何もお答えになりませんでした。それで女は、何とか自分の願いを受け止めてほしいと、恐らく何度も叫びながらついて来たのでしょう。彼女の娘を思う気持ちは分りますし、主イエスなら何とかしていただけるのではないかという一定の信頼を読み取ることは出来ますが、それを「立派な信仰」とは言えないかもしれません。主イエスは恐らく、そこがまだ不十分な信仰であると見抜いておられたのではないでしょうか。
 
そこで、主イエスは、「わたしは、イスラエルの家の失われた羊のところしか遣わされていない」という、一見冷たいお言葉を述べられます。恐らくこの言葉は女にも聞こえたでしょうし、聞こえていなかったら、女を追い払いたかった弟子たちが女に伝えたでしょう。
 
しかし、女はめげずに主イエスに近づいて、ひれ伏して言います。「主よ、どうかお助けください」。「ひれ伏す」とは、礼拝するということです。主イエスを神様扱いするということです。他に頼るものがないので、一番頼れそうな主イエスを、いわば拝み倒そうとしたのです。彼女の必死さが伝わります。しかし、この必死の女に対しても、主イエスのお言葉は冷ややかに聞こえるものでした。「子供たちのパンを取って小犬にやってはいけない」。救いには神様のお考えがあって、それには従わなくてはならない、ということです。
 
ところが、この言葉に対して女はこう言います。「主よ、ごもっともです。しかし、小犬も主人の食卓から落ちるパン屑はいただくのです。」――これは、単に気転の利いた言葉を返したということではありません。彼女はまず、「主よ、ごもっともです」と言っております。自分には主のお恵みを受ける資格がないということを受け入れているのであります。ただ自分への恵みを要求するだけではない謙遜な態度を見ることが出来ます。当然のように悪霊を追い出して貰えると考えていたことは間違いだったということに気付かされたのであります。しかし一方で、この女は主イエスのお言葉の奥にある深い憐れみの心と、自分に対する招きを聴き取っていたのではないでしょうか。主イエスの一見否定的なお言葉の中に、自分の苦しみを深く知っておられる主イエスのお姿を見抜いていたのであります。そして、主イエスの大きなお力の一端でも、自分たちに振り向けて下さるなら、娘は必ず救われるという確信に至ったのであります。「ごもっともです」という謙遜さと、「しかし」という主イエスへの信頼と確信とを持つに至ることが出来たのであります。
 
主イエスは、ここに至った女の信仰を見て、「あなたの信仰は立派だ」と言われたのであります。ですから、この女の信仰が初めから立派だったわけではありません。主イエスは、異邦人の救いということも視野に入れながら、この地に来られて、この女との出会いを通して、異邦人の中にも真の信仰を生み出されたのであります。

3.立派な信仰への試練

このように見て来ると、主イエスの一見冷たく見える態度やお言葉の真意が見えてくるのではないでしょうか。主イエスはガリラヤ地方での伝道活動の中でも、多くの不思議な業を行ったり、病気の人を癒されました。しかしそれは、不思議なことをして人々を驚かせて、御自分の人気を高めようということではありませんでした。その目的の第一は、「飼い主のいない羊」のような状態を深く憐れまれたということ、そして第二は、神様への信仰を呼び覚ますということでありました。主イエスはよく、「あなたの信仰があなたを救った」と言われました。これはどんな信仰でも救いにつながるということではありません。「いわしの頭でも信心から」ということではありません。そこには、謙遜さと主への深い信頼と確信が伴っていなければなりません。
 
しかし、それは、自分でへりくだった人間になれるように修練し、自分で信仰を磨き上げて出直しなさい、ということではありません。このカナンの女の場合のように、一見冷たく見える扱いを受けるという試練を通して謙遜を身につけさせ、主の恵みに対するより深い信頼と確信が持てるように、信仰を成長させて下さるのであります。主イエスが沈黙して何もお答えなさらないことも、望みを絶たれるかのような荒いお言葉を語られるのも、それは、主の恵みの一部なのであって、信仰の成長のための試練または訓練なのであります。
 
「あなたの信仰は立派だ」と言われた後、「あなたの願いどおりになる」とおっしゃいました。これは、「私があなたの願いどおりにしよう」という宣言です。そのとき、娘の病はいやされたのであります。主イエスはもともと、異邦人の救いの道を開こうと、この地方に来られたのでありましょう。もしかすると、このカナンの女の娘の状態も御存知で、そのことを憐れんでおられたのかもしれません。しかし、そこで大切だと考えておられたことは、単に病をいやすことだけではなくて、そこに信仰が育つことであります。

結.私たちの信仰の成長

私たちもまた、それぞれに願いを持っております。また、この伝道所としての願いもあります。病や老いの不安の中にある方もおられます。人間関係や日々の生活に苦しんでいる方もおられるかもしれません。身内の状態にそのような不安を覚えておられる方もあるでしょう。将来へ向かっての道が開けない悩みを持っておられる方もおられるかもしれません。この伝道所の状態も決して安泰ではありません。むしろ、内にも外にも厳しい状況があります。
 
そうした不安を取り去っていただきたいという強い願いがあります。しかし、病が一向に回復に向かわない、日増しに体力の衰えを感じる、状況は好転しない、不安はなかなか解消しない、ということがあるのではないでしょうか。「主よ、ダビデの子よ、わたしを憐れんでください」「何とかこの苦しみ・不安から脱出させて下さい」と叫びたくなるのではないでしょうか。
 
しかし、神様は何もお答えくださらないように思えることがあります。聖書に御言葉を求めても、礼拝に出て御言葉を聞いても、何か他人事のように思えたり、厳しい戒めの言葉しか聞こえなかったりすることがあるかもしれません。しかし、カナンの女は願い続けました。祈り続けました。それは、願いがそれだけ強かったということもあるかもしれませんが、それと共に、彼女が主イエスの中に希望を見失わずに、憐れみの御心を見出すことが出来たからであります。冷たく聞こえる御言葉の中にも、主イエスの招きを聴き取ったからであります。そして、主イエスの御言葉に引きづられるようにして、謙遜さへと導かれると共に、信仰が深められ、強められました。そして遂に、主イエスから「あなたの信仰は立派だ」と言われる信仰へと成長させられました。そのように主は、今日も私たちをも、「立派な信仰」へと招いて下さり、成長させ、救いに入れようとなさっているのであります。 祈りましょう。

祈  り

憐れみ深い主イエス・キリストの父なる神様!
 様々な不安や問題を抱えつつ、御前にある私たちでございます。何とかそこから脱出したいと、願っております。主よ、どうか、そのような私たちを憐れんで下さい。一向に問題が解消されないように見える中に、あなたの深いお考えがあり、私たちの中にある弱さや不信仰を乗り越える道が備えられていることを、今日の御言葉によって知らされました。どうか、謙遜にあなたの御計画に従う者とならせて下さい。どうか、私たちのようなものをもあなたの大きな恵みの一端に与ることが出来ますように、御計らい下さい。どうか、あなたを見失うことなく、信頼し続け、御言葉を聴き続ける者とならせて下さい。
 
主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

米子伝道所 主日礼拝説教<全原稿> 2012年2月5日  山本 清牧師 

 聖  書:マタイ15:21−28
 説教題:「立派な信仰とは」
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