序.開設20周年に当って

米子伝道所は1992426日に近畿中会の伝道所として開設されました。今年で20周年を迎えます。戦後、日本キリスト教会が再建設されて、旧日本キリスト教会の教会が復帰するのと共に、各地に伝道所が開設されて活発な伝道活動が始められましたが、その際に考えられていたことは、およそ20年で独立教会へと成長することを目指すということでありました。その目標からしますと、この伝道所もそろそろ独立教会にならなければならない時期にさしかかっているわけでありますが、現状では、まだまだそれだけの実力を伴っているとは言えません。
 
独立教会が建設できる要件として、日本キリスト教会憲法に定められていることは2点であります。一つは、「現住陪餐会員の中から長老を選挙し、小会を組織できること」、今一つは、「経済的に自立し、中会および大会に対する責任を担えること」、であります。経済的に自立するには、牧師を養い、教会の運営費用を自弁し、更に中会・大会に対する経済的責任も果たさなければならないので、20人〜30人の現住陪餐会員が必要だと言われています。そういう規準からしても、この伝道所はまだまだそこまで達していません。もう一つの長老を選出できるかということについては、今でも委員を選ぶことが出来ているのだから、選べるのではないかとも考えられますが、長老というのは、単に司式が出来るとか、教会の事務について手伝いが出来るということではなくて、憲法では、「長老は、教師と共に教理を擁護する務めを負い、教会会議において教師と同等の責任を持つ」とされておりまして、教理に対して正しい認識を持っているとともに、小会のみならず中会や大会の会議に出て、責任をもって意見を述べたり、議決に参加できるということでありまして、米子伝道所の実状では、委員が中会・大会に出席することすらなかなか出来ていない状態であります。
 
そういうわけで、この伝道所は憲法の規定からして、独立教会の要件を満たすに至っていないのですが、大事なことは、そうした形式的な要件を満たすということだけではなくて、キリストの体としての教会の枝に相応しい信仰の共同体になっているかどうか、キリストの栄光を現わすに足る共同体かどうかということではないかと思います。
 
今年の年間目標は委員会で、「霊的な家に造り上げられる」と決めました。これは、開設20周年という節目を迎えた今年の目標として、独立教会の形式的な要件を満たす以前に、今言った、キリストの体の枝としての教会に相応しい信仰の共同体になるということを目指したい、という意味で掲げたものであります。もし、この共同体が、キリストの体の枝として相応しくなれば、形式的な要件、つまり人数だとか、財政力だとか、長老を選べるかといったことは自然について来るのではないかと思います。なぜこの伝道所が教勢的に成長しないのかと言えば、私の説教に力がないということがあるでしょう。伝道活動が活発に行なわれていないということもあるでしょう。しかし、そうしたことの背後に、私たちがキリストの体の枝に成りきれていない、霊的な家になっていないということがあるのではないでしょうか。
 
キリストの体の枝に相応しい信仰の共同体になるということを、年間目標としては、「霊的な家に造り上げられる」と言い換えましたのは、今日のテキストの中の25節の言葉が、目指すべき信仰の共同体の姿を端的に示しているように思われるからであります。
 
この言葉は、礼拝説教で2008年から2ヶ月に一度ペトロの手紙を連続的に取り上げた中で聴いたもので、覚えておられる方もあると思いますが、今日午後、今年の定期総会を行なうのに先立って、改めてこの言葉を中心とする2章1〜5節の箇所から、独立教会に向けての私たちの伝道所が目指すべき姿、すなわち「霊的な家」とはどんな家なのか、また、どのようにして「霊的な家」に造り上げられるのかということについて教えられたいと思います。

1.霊の乳を飲む

1節から5節までの中に、「何々しなさい」という命令(勧め)が4つ記されています。1つ目は1節から2節にかけてですが、だから、悪意、偽り、偽善、ねたみ、悪口をみな捨て去って、生まれたばかりの乳飲み子のように、混じりけのない霊の乳を慕い求めなさい」と勧めていて、その効用について、「これを飲んで成長し、救われるようになるためです」と述べております。
 
「だから」という言葉で始まっています。1章で語られたことに続いているということです。1章については、一昨年の青木先生が来られた合同修養会の開会礼拝奨励で私が取り上げさせていただきました。要点は15節にありますように、「召し出してくださった聖なる方に倣って、あなたがた自身も生活のすべての面で聖なる者となりなさい」と勧められていて、それはなぜかと言えば、23節にあるように、「あなたがたは、朽ちる種からではなく、朽ちない種から、すなわち、神の変ることのない生きた言葉によって新たに生まれた」からであります。つまり、御言葉によって生れ変わった者は、生活のすべての面で聖なる者になりなさい、と勧めているのです。「聖なる者」というのは、聖人のような立派な人間というよりも、「区別された者」と言う意味で、キリストによる救いを知らない人とは区別された生き方をする人間ということです。それを受けて、「だから」ということで、今日の2章の1、2節につながっていて、キリストを知った人間が知らない人間とどこに違いが出て来るべきかというと、キリストを知った人間は、悪意、偽り、偽善、なたみ、悪口を捨て去って、乳飲み子のように、混じりけのない霊の乳を慕い求める、ということです。
 
ここに5つの悪徳が並べられています。今日はこれらの一つ一つについて考察することはいたしませんが、ここに挙げられているものはいずれも人間関係を妨げるものであります。だれでも、出来るだけ多くの人と良い関係を保ちたいと思っています。けれども、その関係を破るものが、ここに挙げられているものです。しかし、私たちは往々にして、これらの悪徳が他人にあることに気付くのですが、自分にあることには気付かないか、気付かないふりをしています。これらは皆、自分を守る武器、あるいは自分を装う衣のようなもので、自分の立場や自分の評価を守るために、これらで自分を装うのであります。だからなかなか脱ぎ捨てることが出来ません。
 
しかし、キリスト者になるということは、自分で自分を守るのではなくて、自分をキリストに委ねるということであります。自分を脅かす行為や言葉を受けても、自分でやり返すのではなくて、神様にお任せするということです。「生まれたばかりの乳飲み子のように」とありますが、鎧を脱ぎ捨てて、乳飲み子のように無防備になるということです。――これはなかなか出来ないことですが、これが出来るようになることが、新しく生まれるということで、キリストに出会ったら、そのことが出来るというのであります。
 
では、これらのものを脱ぎ捨て去って、厳しい世の中をどうして生き抜くのでしょうか。「乳飲み子のように、混じりけのない霊の乳を慕い求めなさい」、と言います。信仰生活が長い者も、そうでない者も、年老いて人生経験の長い者も、若い者も、生まれたばかりの乳飲み子がただ乳を求めるように、霊の乳を慕い求めなさいと言うのです。
 
ここで「霊の乳」とは何を指すのでしょうか。「霊の」というところに使われているギリシャ語は、聖霊などに使われる言葉ではなくて、「ロゴス」という、「言葉」とか「理性」を表す語に由来する言葉が使われています。ヨハネ福音書で「初めに言があった」と訳されている「言」と同じ語から来たものです。ですからここは、「神の言葉の乳」と訳してもよいわけです。乳飲み子が乳だけで健康を保つことが出来るし、どんどん成長することが出来るように、信仰者を生かし、成長させるのは、主の御言葉という「霊の乳」であります。これを無心に飲めばよいのです。
 
「混じりけのない」というのは、異物が混じっていない、ごまかしがないということです。神様の言葉には不純な動機とか、上辺を繕うということがありません。そのまま受け取ってよいのであります。人間の言葉は上辺だけで内実を伴わないものがありますが、主がお語りになる言葉は真実で力があります。素直に受け止めて間違いありませんし、それだけで充分に養いを受けることが出来るのであります。
 
では、霊の乳(御言葉の糧)を飲んだらどうなるのでしょう。「これを飲んで成長し、救われるようになる」と言います。私たちは救われて生れ変わって、霊の乳を飲むようになったのですが、一度救われたらそれで終わりということではなくて、救われたことの確信と喜びが増して、ますます信仰生活が豊かになり、充実して行くということでありますし、個人的に充実するだけでなく、教会の成長、教会全体の救いにつながる、ということであります。
 
続いて3節に、あなたがたは、主が恵み深い方だということを味わいました、とあります。実はこの言葉は、先ほど朗読した詩編34編の9節の言葉が引用されています。詩編では、こう歌われています。「味わい、見よ、主の恵み深さを。いかに幸いなことか、御もとに身を寄せる人は」。ですから、ここは、<詩編にも、主の恵み深いことを味わえ、と書かれていて、あなたがたも、味わった筈ではないか>と言っているのであります。しかも、この「恵み深い」という言葉は、「クレートス」という言葉で、キリストと訳している「クリストス」という言葉と、一字違いの似た言葉なのです。ですから、その二つの言葉を掛け合わせながら、<主なるキリストこそ恵み深いお方だということを味わったではありませんか>と言っているのです。しかも、この「恵み深い」と訳されている「クレートス」という言葉は、「おいしい」という意味が含まれています。だから、「味わいました」という言い方に繋がっているのです。霊の乳である御言葉を飲むということは、そういう感覚的な表現が当てはまるほど現実的・体験的な恵みだということであります。そういう体験をした者が、1節に挙げられているような悪徳を行うということは、食中毒を起こすようなことになります。もし私たちが1節で言われているようなことを捨てきれないとすれば、主の恵みをまだ味わっていない、礼拝において霊の乳である御言葉をしっかり味わっていないということになります。そこで、4節の初めにある2つ目の勧めに繋がります。

2.この主のもとに来なさい

そこでは、この主のもとに来なさい、と言っております。主イエス・キリストの恵みをもう一度味わい直しなさい、霊の乳を飲み直しなさい、ということです。そして、4節の続きでは、主イエスの恵みの内容を語っています。主は、人々からは見捨てられたのですが、神にとっては選ばれた、尊い、生きた石なのです。ここでは主イエスのことが「人々からは見捨てられたけれども、神様によって選ばれた生きた石」であると言われています。このあとの6節から8節までの所に、旧約聖書で「石」について書かれている箇所が3箇所引用されています。そのうち、今日は7節だけを見ていただきますが、こう書かれています。従って、この石は、信じているあなたがたには掛けがえのないものですが、信じない者たちにとっては、「家を建てる者の捨てた石、これが隅の親石となった」。これは詩編の11822節からの引用ですが、ここで「家を建てる者の捨てた石」というのは、人々に捨てられて十字架にお架かりになったキリストのことだと理解していて、そのキリストが「隅の親石」すなわち、教会の基礎になった、というのであります。こういう理解は筆者のペトロの勝手な判断ではなくて、主イエス御自身がはっきりと自覚しておられることでありました。福音書に「ぶどう園の農夫」の譬えがありますが、ある家の主人が自分のぶどう園を農夫たちに貸して旅に出ます。収穫の季節になったので、収穫を受け取るために僕たちを送ります。ところが農夫たちは僕たちを捕まえて袋叩きにしたり、石で打ち殺したりしてしまうのです。そこで、主人は自分の息子なら敬って収穫物を渡してくれるだろうと思って遣わすのですが、農夫たちは、跡取りだから、これを殺したら相続財産は十分たちのものになるというので、息子も殺してしまった、という話であります。その譬えを語られたあと、主イエスは、ここで引用されている詩編の言葉を述べられて、ご自分こそ、ここで語られている主人の息子のように、捨てられて十字架につけて殺されるのだということを予告なさったのでありました。――こういう御言葉を聴くことこそ、キリスト者が「霊の乳」を飲むということであり、「主が恵み深い方だということを味わう」ことなのであります。「この主のもとに来なさい」、<この主が「隅の親石」になっておられる教会に来なさい、そして「霊の乳を味わい直しなさい>というのが、ここで勧められていることであります。これは当たり前のことのようですが、信仰生活の基本でありますし、教会が成長して行くための基本であります。ここが疎かにされて、相変わらず捨てるべきものを捨てられないままでいると、信仰の成長も教会の成長もないということであります。

3.生きた石として用いられる

ところで、筆者のペトロは、生きた石である主のもとに来なさい、というだけに留まらないで、更に5節で、3番目の勧めとして、こう言います。あなたがた自身も生きた石として用いられ、霊的な家に造り上げられるようにしなさい。――驚くべきことですが、キリストが生きた石であるだけでなく、「あなたがた自身も生きた石として用いられる」と言うのであります。「霊の乳」を飲む者は、「生きた石」とされて、キリストを土台とする「霊的な家」に造り上げられるというのです。ここで「霊的な」という言葉は、「霊の乳」という場合の「霊」とは違う言葉で、「物質的な」ということの反対の「霊的な」という意味です。つまり、人間の手で建てられる物質的な神殿と対比される霊的な神殿という意味で、すなわち、信仰共同体としての教会のことであります。私たちも一つの石として、尊いキリストの生きた石の上に積み上げられて、教会が形成されて行くというのであります。
 
パウロもエフェソの信徒への手紙(21922)で、異邦人キリスト者に向かって、こう言っております。「あなたがたはもはや、外国人でも寄留者でもなく、聖なる民に属する者、神の家族であり、使徒や預言者という土台の上に建てられています。そのかなめ石はキリスト・イエス御自身であり、キリストにおいて、この建物全体は組み合わされて成長し、主における聖なる神殿となります。キリストにおいて、あなたがたも共に建てられ、霊の働きによって神の住まいとなるのです。」――教会は誰かが建ててくれるものではありません。信仰の立派な人が建てるのでもありません。乳飲み子のような信仰しか持っていない者が、「霊の乳」を飲む、すなわち御言葉を食べ続けることによって成長して、生きた石とされて、教会を形造るのであります。
 
この伝道所は、松島さんのお宅を借りて行なわれた米子集会から始まりました。その後、この場所に八幡姉がこの会堂を建てて提供され、礼拝が出来るようになったので、伝道所として開設することが出来ました。しかし、会堂が個人のものである間は、ご家庭を提供してもらって行なう家庭集会の域を出ず、借り物の教会でありました。それが、会堂の土地建物を教会のものにしようということで、会堂建築会計を作って、皆で献げて来たことで、ようやく、家庭集会の域から脱して、自分たちが支える教会へと成長することが出来ました。これは土地・建物という物的な側面の話ですが、霊的な家を造り上げるという意味でも大変重要なことでありました。一人一人が「生きた石」とされたということであります。
 
しかし、更に、この伝道所が独立教会へと成長するためには、初めに述べましたように、財政的自立と共に、長老を選出出来るようにならなければなりません。これは、長老となり得るすぐれた信仰の持ち主が数人揃えばよいということではありません。特別大きな「生きた石」が数個揃えば独立教会が形造られるということにはなりません。石の大小はあっても、御言葉によって養われた多くの「生きた石」が積み上げられてこそ、霊的な家に造り上げられるのであります。間に崩れそうな石がはさまっていると、建物として建ち上がらないのと同じように、「生きた石」ではないものが混じっていると、霊的な家に造り上げられません。その場合にどうしたらよいのか。それは崩れそうな悪い石を取り除くことによってではなく、その石も「混じりけのない霊の乳」を飲むことによって、「生きた石」に変えられることによって、「霊的な家」に造り上げられるのであります。なぜなら、教会は人々に捨てられた石である主イエス・キリストが隅の親石になって下さり、その上に積み上げられるすべての石も、捨てられるべき石であったのに、霊の乳を飲んで救われ、「生きた石」とされて用いられるようになったからであります。

4.聖なる祭司となる

最後に、4つ目に勧められていることは、5節の後半ですが、そして聖なる祭司となって神に喜ばれる霊的いけにえを、イエス・キリストを通して献げなさい、と言われています。「聖なる祭司となる」とはどういうことでしょうか。「祭司」というのは、神殿でいけにえを献げるのがその努めでありました。ここでは「霊的ないけにえ」を献げる祭司になれと言うのです。では、「霊的ないけにえ」とは何でしょう。以前にも紹介しましたが、竹森満佐一という人は、聖書の他の箇所の言葉を引用しながら、三つの献げ物を挙げています。第一は「讃美のいけにえ」すなわち神を賛美する礼拝を献げることであります。第二は、ローマの信徒への手紙121にある「自分の体を神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げなさい」という言葉にあるように、私たち自身を献げるということです。それは、私たちの生活を献げるということであります。神様中心の生活をするということです。そして第三は、まだ信仰を持っていない人を神に喜ばれる供え物とすること、言い換えると伝道によって、新たな信仰者を神様の前に献げるということです。以上、三つの献げ物、賛美の礼拝、自分自身を献げつくす生活、そして、伝道によって他の人を神様に献げること、これが「聖なる祭司となって、神に喜ばれる霊的ないけにえを献げる」と言われていることの中身であります。

結.祈りの家への成長

以上、今年の目標である「霊的な家に造り上げられる」ということを巡る4つの勧めを聴いてまいりました。第一は、「霊の乳」すなわち御言葉を慕い求めること、第二は人々によって捨てられたけれども「生きた石」となられた主イエスのもとに来るということ、第三は、私たち自身が「生きた石」として「霊的な家」に造り上げられること、そして第四は、「聖なる祭司」となって神に喜ばれるいけにえを献げるということでありました。しかし、これらはどれも、私たちに激しい努力を要求するといったものではありません。これだけのことをしなければ成長できません、と脅かされているのではありません。第一の勧めにあるように、「生まれたばかりの乳飲み子のように」、御言葉の乳を慕い求めることから始めればよいのです。乳飲み子は何も努力するつもりで乳を求めるのでないように、無心に求めているうちに、主イエスのもとに近づくことが出来、いつのまにか「生きた石」にされ、「霊的な家」に造り上げられて行き、霊的ないけにえを献げる者にされるということです。大事なことは、無心に御言葉の糧を求めることであります。それは、祈ることと言い換えてもよいかもしれません。御言葉の糧を求める祈りが出来なくなった教会は、乳を求めない乳飲み子と同じで、滅びるしかありません。教会が「祈りの家」であり続けるならば、乳飲み子のように、ぐんぐん成長するのであります。

祈  り

主イエス・キリストの父なる神様!
 
今年の定期総会を前にして、霊の乳を飲ませていただいて、備えることが出来ましたことを感謝いたします。
 
私たちはこの世の生活の中で、悪いものをたくさん身にまとった大人になってしまって、乳飲み子のようにあなたを慕い求めることを忘れてしまっております。
 
どうか、主イエス・キリストのゆえに、もう一度私たちに素直な信仰を取り戻させて下さい。無心にあなたに祈りを捧げ、御言葉を慕い求める者とならせてください。そしてどうか、私たちのような者をも「生きた石」として用いて下さって、この伝道所が「霊的な家」へと造り上げられ、独立教会へと成長することが出来ますように、養い育てて下さい。
 
主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン

米子伝道所 主日礼拝説教<全原稿> 2012年1月29日  山本 清牧師 

 聖  書:ペトロの手紙一 2:1−5
 説教題:「霊的な家を造る」
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