「収穫は多いが、働き手が少ない。だから、収穫のために働き手を送ってくださるように、収穫の主に願いなさい」。
                             (マタイによる福音書9:37,38

 主イエスはガリラヤで活動を始められると、町や村を回って、「会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え」られただけでなく、「ありとあらゆる病気や患いをいやされた」。主は言葉だけの慰めではなく、実際に困っている人を癒されたのである。主は「群衆が飼い主のいない羊のように弱り果て、打ちひしがれているのを見て、深く憐れまれた。」これは当時の指導者たちの見方とは違う。この「憐れむ」という言葉には、「はらわたが痛むほどに相手の痛さを共に担う」という意味がある。主は困窮や悲惨の底に横たわっている人間の罪の問題を御覧になって、それを批判して裁くのではなく、御自分で担おうとされるのである。
 そして、弟子たちに、標記のように言われた。人の罪が極まったところで、主の憐れみは深く、救いの御業による収穫は多くなる。正に「神の国は近づいた」のである。ところが、その収穫のために主イエスと共に働く人の手が不足しているのだ。けれども主はここで、弟子たちや私たちの働きが少ないことを嘆いておられるのでもないし、「今こそ立ち上がれ」と号令をかけておられるのでもない。「収穫の主に願いなさい」と言われる。祈りなさいということだ。祈ることによって、私たちも主の収穫の御業に参加できる。
 
このように話されてから、主は十二人の弟子を呼び寄せて、「汚れた霊に対する権能をお授けになった。」それは、「汚れた霊を追い出し、あらゆる病気や患いをいやすためであった。」「悪霊」とは、肉体的・精神的な病の原因であるだけでなく、私たちを神から引き離そうとする勢力のことである。主はそれと戦う権能を弟子たちと教会に与えられたのである。十二人の弟子たちは、後に主イエスを裏切ってしまう弱さを持った者たちである。だが、主はそうした人たちの働きを通して、収穫の業をなさるのである。私たちも弱く、罪深い者たちであるが、収穫の主に祈ることによって、「働き手」に加えていただけるのである。

米子伝道所 主日礼拝説教<要 旨> 2012年1月22日  山本 清牧師 

 聖  書:マタイによる福音書9:35−10:4
 説教題:「収穫の主」
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