序.私たちは「働き手」になれるのか

先週はマタイによる福音書418節以下の、4人の漁師が主イエスの弟子とされた箇所から御言葉を聴きました。そこでは、主イエスは「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」と語っておられました。そして、その御言葉は私たちにも語られている言葉として聴いたのであります。
 
今日の箇所では、37節で主イエスは弟子たちに、「収穫は多いが、働き手が少ない」と言っておられます。その言葉の意味については後ほど学びたいと思いますが、先週とのつながりで言えば、「人間をとる漁師」としての「働き人」が少ない、ということであります。
 
そこで出て来る問題は、私たちが「人間をとる漁師」としての「働き人」になれるのだろうか。今、私たちは「人間をとる働き人」になり得ているのだろうか、ということであります。私たち自身のことを考えましても、日本キリスト教会とか、わが国の教会全体ということを考えましても、伝道が活発に行なわれていると言えるのだろうかという反省がありますし、伝道者が足りないという現実があります。
 
先日、妻と話をしておりまして、私の説教は暗い話が多い、もっと明るい話をしなければいけない、と言われました。先週の説教でも、イザヤが言った「暗闇に住む民」とか「死の陰に住む者」という罪の現実についてお話をしましたが、その暗闇に射し込んだ光について、充分に語られていなかった、ということでしょう。福音は私たちの弱さや罪の現実に向かって語られるものでありますから、私たちの暗い現実を避けて通ることは出来ませんが、福音の光やそこから溢れ出る喜びが力強く語られないなら、貧しい説教と言われざるを得ません。
 
今日の箇所でも、「働き手が少ない」という主イエスの嘆きのことばを語らないわけには参りませんが、与えられたテキスト全体に込められている大きな光や喜びを、しっかりと聴き取って参りたいと思います。
 
ところで、今日のテキストは9章の終わりの部分と10章の初めの部分が取り上げられています。これらは別々に説教されることも多くて、この伝道所に私が赴任した直後にマタイ福音書の連続講解説教をしました時も、2回に分けてお話しました。しかし、日曜学校のカリキュラムでは連続して取り上げることになっていまして、このような形で取り上げられることも多いようであります。マタイ福音書がこれらを繋げて記していることに意味があると考えられるからであります。今日は、これらを繋げて聴くことによって、新しい光が与えられるなら幸いであります。

1.主イエスの働き

さて、今日の箇所の最初の35節を見ますと、イエスは町や村を残らず回って、会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、ありとあらゆる病気や患いをいやされた、とあります。これと殆ど同じ言葉が4章の23節にあります。これらは主イエスがなさっていることの要約であります。そして、このよく似た2つの言葉の間に挟まれている5章から9章までの間に書かれていることは、主イエスが語られた「山上の説教」と、山を下りられてからなさった数々の癒しの奇跡であります。つまり、423節と935節で、「教え」「宣べ伝え」「いやされた」と言われていることの詳しい内容がその間に書かれているのであります。ここで福音書が何を言いたいかというと、主イエスは人々に教え、福音を宣べ伝えられたと同時に、言葉だけではなくて、病で困っている人々を実際に癒されたということであります。預言者イザヤは、救い主が来られる時に何が起るのかということを、こう述べておりました。「そのとき、見えない人の目が開き、聞こえない人の耳が開く。そのとき、歩けなかった人が鹿のように躍り上がる。口の利けなかった人が喜び歌う」(イザヤ3556)。このイザヤの預言が、主イエスによって成就したということであります。
 
このことから、今日まず私たちが聴かなければならないことは、主イエスが私たちのところに来られて御言葉を下さる時に、同じようなことが起る、ということであります。礼拝というのは、私たちが主イエスから、言葉だけの慰めを聴くのではないのです。耳障りの良い言葉を聴いて、心が安らぐというだけのことではないのです。主イエスの力が働くのであります。主イエスの御言葉には力が伴っているのであります。もちろん、病気が治ったり、目の見えない人が目を開かれたり、心の病に苦しんでいる人が直ちに癒されるという奇跡が、この場所で次々と起るということでは必ずしもありません。しかし、神様の御心があるならば、主イエスの力で出来ないことは何もありません。そのことをまず、ここで確認しておきたいと思います。
 
冒頭で、私たちは「人間をとる漁師」になることが出来るだろうか、「働き人」になれるだろうか、という問題があるということを申しました。確かに、私たちには大いに問題があります。何の力も持ち合わせてはいません。しかし、主イエスには何の問題もありません。主イエスは今日も、人間をとるために働いておられるのであります。
 
では、主イエスは私たちをどのように見ておられるのでしょうか。

2.主イエスの憐れみ

36節にこう書かれています。また、群衆が飼い主のいない羊のように弱り果て、打ちひしがれてのを見て、深く憐れまれた。――ここに書かれているのは、当時のガリラヤ地方の群衆に対する主イエスの見方でありますが、同じように現代の私たちをもご覧になっていると受け止めることが出来ます。先週、4人の漁師を弟子に召されたところで聴きましたように、4人の弟子の召しは、主イエスが彼らを「御覧になった」ということから始まりました。主イエスの選びが先行したのであります。ここでも、主が飼い主のいない羊のように弱り果て、打ちひしがれているのを御覧になったのであります。
 
当時の指導者たちは群衆をこのようには見ませんでした。指導者たちは病を負っている者、貧困に喘いでいる者たちを、彼らに問題があるからだとして、多くの禁止命令や義務を課して、一層苦しめました。当時と違って今は、人道的な考え方や福祉政策が進んで、病や貧困の中にある人々にも温かい目が注がれるようになりました。しかし、私たちの中には、自業自得だといった因果応報的な考え方が根強くあります。自分が安全圏にいる間は、きれい事を言い、多少の憐れみを施すことがあっても、自分に被害が及びそうになると、あの「善いサマリア人の譬え」に登場する祭司やレビ人のように、倒れている人の傍を通り過ぎてしまうのであります。
 
しかし、主イエスは弱り果て、打ちひしがれた群衆を見て、「深く憐れまれた」のであります。この「憐れむ」という言葉については、何度か説明しましたように、語源は「はらわた(内臓)」でありまして、はらわたが痛むほどに、相手の身になるということ、自分を顧みず相手の痛みをも共に担う、というで、単なる同情ではありません。主イエスは、群衆の状態を見て、単に可哀相だと思われたのではなくて、彼らの困窮と悲惨の中に入って行かれ、それを自分自身の困窮、自分自身の悲惨として担われたのであります。しかも、主イエスが御覧になった困窮や悲惨というのは、病気や経済的・政治的な表に表れたことだけではありません。その底に横たわっている人間の罪の問題を御覧になっています。人々が神様の方を向いていないことの悲惨さを見ておられて、それを批判したり、裁いたりなさるのではなく、それを御自分の問題として担って行こうとされるのであります。

このような主イエスの憐れみの眼差しは、当時の群衆に対してだけ注がれたのではありません。私たちにも注がれています。私たちは自分のことを、「飼い主のいない羊」とは考えていないかもしれません。「弱り果て、打ちひしがれている」というところまでは行っていないで、不安はあるが、何とか凌いでいる、と思っているかもしれません。しかし、主イエスの目から見れば、私たちの状況、特に罪に陥っている状況は、主イエスのはらわたを深く痛めるほどなのであります。だからこそ、主は今日も私たちを訪れて下さっているのであります。

3.収穫は多いが、働き手が少ない

さて、群衆を深く憐れまれた主イエスは、37節で弟子たちにこう言われました。「収穫は多いが、働き人が少ない。」この言葉は群衆の憐れむべき状況とどうつながっているのでしょうか。群衆の憐れむべき状況からは、何の収穫も得られないように思われますのに、主イエスは「収穫は多い」とおっしゃいます。人々の悲惨や困窮が極まり、主イエスの憐れみが深いほど、収穫も多いということであります。人の罪が極まったところで、救いの御業は大きな収穫をもたらすのであります。今、主イエスは弱り果て、打ちひしがれた人々を救い出そうとしておられるのであります。罪から救い出そうとしておられるのであります。そこには大きな収穫が待っています。正に「神の国は近づいた」のであります。――私たちは伝道の不振を嘆きます。信仰告白して救われる者が次々に現れないことを残念がっています。しかし、主イエスの目には「収穫が多い」と見えているのであります。豊かな実りが見えているのであります。そのことが私たちに見えていないところに問題があります。私たちは主イエスの深い憐れみ、救いの御業の大きさに目を止めなければなりません。
 
では、なぜ実際に救われる人が少ないのでしょうか。何が足りないのでしょうか。主イエスは、「収穫は多い」と言われたのに続いて、「働く人が少ない」とおっしゃいます。主イエスは既に多くの実りを備えて下さっているのですが、収穫のために働く人の手が不足しているのであります。収穫は約束されています。しかし、収穫のためには、主と共に働く人が必要であります。主イエスは、時に、働く人なしにも収穫を行われることがあって、驚かされるのですが、多くの場合は、私たちの働きを通して刈り取りをなさいます。収穫が多ければ多いほど、刈り入れのために働く人が多く必要です。しかし、その人手が足りないとおっしゃるのです。
 
ただ、ここで間違ってはなりません。主イエスはここで私たちに向かって、「お前たちの働きが少ない」と文句を言っておられるのではありません。「お前たちこそ立ち上がるべきだ」と号令をかけておられるのでもありません。

4.収穫の主に願いなさい

38節を御覧下さい。どう言っておられるでしょうか。「だから、収穫のために働き手を送ってくださるように、収穫の主に願いなさい」と言っておられます。収穫の主に祈りなさい、ということであります。収穫は多いのです。既に豊かに実っているのです。だから、収穫を増やして下さいと祈る必要はありません。少ないのは収穫のために働く人であります。しかし、その働き手を送って下さるのも主であります。収穫の業は実らせるのも刈り入れるのも、主の業であります。ですから、私たちに求められていることは、祈ることであります。私たちは伝道のために、あれをするこれをしなければならないと考える前に、まず働き人を備えてくださるように、祈らなければならないということであります。何をするよりも祈ることによって、私たちも主の収穫の御業に参加できるということであります。
 
今年の年間目標は「霊的な家に造り上げられる」ということであります。この目標については、来週の礼拝の主題聖句を聴くことによって学びたいと思っておりますが、「霊的な家」というのは「祈りの家」と言い換えることが出来ます。伝道が前進して、救われる者が現れる教会となるために必要なことは、具体的には祈る群れになることであります。それが霊的な成長ということであります。そして、祈る群れに、主は大きな収穫をもって応えて下さるのではないでしょうか。

5.弟子への権能の授与

ところで、今日のテキストは次の10章へ続いています。「収穫の主に願いなさい」と言って何よりも祈ることを求められた主イエスは、続いて1節にあるように、十二人の弟子を呼び寄せられるのであります。何か矛盾のように思われるかもしれませんが、「働き手」が主イエスの弟子以外から出るわけではありません。祈っている人たち以外の人が働き手に召し出されるということはありません。働き手は教会の群れの中から呼び寄せられるのであります。私たちの祈りをお聞きになった主が、「お前を働き手に加えよう」と言って呼び寄せて下さるのであります。
 
そして、それに続けて、驚くべきことが書かれています。汚れた霊に対する権能をお授けになった。汚れた霊を追い出し、あらゆる病気や患いをいやすためであった、とあります。主イエスの短い伝道生活の中で、ずっと一人で伝道の業を進められたわけではなくて、後に十二使徒と呼ばれる人たちを中心に、5節以下に書かれていますように、伝道の業へと派遣されるのであります。これは、主イエスの復活後に立てられるキリストの体としての教会の原型であります。
 
ここで弟子たちに与えられたことは、汚れた霊を追い出し、あらゆる病気や患らいをいやすための権能でありました。これは主イエスがもっておられる権能であり、これまでに実際にその権能によって人々に取り付いた悪霊を追い出したり、病気を癒して来られました。弟子たちがすることは、悪霊の追い出しや病気のいやしだけではなくて、7節において命じられていますように、「天の国を宣べ伝える」ということも含まれておりますが、ここで示されていることは、弟子たち、そしてその後の教会がするべきことは、主イエスがして来られたことの延長であります。
 
ということは、そういう権能や働きは私たちにも与えられるということでしょうか。教会が汚れた霊を追い出すとか病気をいやすというのは、異端的な教会が言いそうなことで、私たちの教会の立場とは違うように思われるかもしれませんが、そうではありません。「汚れた霊」とか「悪霊」というのは、精神的な病を起こさせるものと考えられていたようですが、単に肉体的・精神的な病の原因であるだけでなく、私たちを神様から引き離そうとする勢力のことであります。主イエスが弟子たちに与えられ、教会に与えられているのは、そういう神様に敵対する力と戦う権能であります。私たちが悪霊と戦って勝てるということではありませんし、罪と戦って勝てるということでもありませんが、神様が全てを御支配して治められる力を持っておられて勝利されることを示す権能が教会には託されていて、それを行使するときに、汚れた霊や悪霊は退散を余儀なくされるのであります。十字架の主はすでに汚れた霊や悪霊を滅ぼしておられます。そして、人々を罪から解放されました。十字架の主は収穫の主であります。あとは刈り入れの時を待つのみであります。そのような刈り入れの働き手として、私たちや私たちの教会を用いて下さるということであります。

6.弱さを持つ弟子たち

2節以下には、十二人の弟子たちの名前が記されています。ここに挙げられている人がどんな人か、どんな働きをしたかが分らない人もありますが、私たちが知っているところだけを見ても、決して優等生ばかりではありません。むしろ当時の社会で問題視されていた人や、弟子とされてからも失敗をしでかした人たちであります。まず、ペトロと呼ばれるシモンが出ています。ご承知のように、彼は、主イエスが逮捕された時には、<イエスなど知らない>と言ってしまった人物であります。ゼベダイの子ヤコブとヨハネというのは、<主イエスが栄光をお受けになる時には、主イエスの右と左に座らせて下さい>などと言った人たちであります。トマスというのは、主イエスが復活されたことは、<手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ信じられない>と言った人です。それに、主イエスを銀三十枚で売って裏切ったイスカリオテのユダも含まれています。このような弟子たちを収穫の働き手に選ばれたのであります。彼らの働きは不完全であるばかりか、主イエスの足を引っ張ることさえしました。しかし、主はそういう人たちの働きを通して、教会を建て、収穫の業を行われるのであります。

結.私たちも「働き手」として

私たちもまた、弱い者であり、罪深い者たちであります。他人の汚れた霊や悪霊を追い出すどころか、主イエスの御業を邪魔するような者であります。しかし、主イエスはそのような私たちをも、呼び寄せて、働き手の一人としての役割に就かせて下さることがあるのであります。それは、私たちにすぐれた能力があるとか、一大決心をしたとか、熱心に信仰生活に励んだとかいうことではありません。また私たちの教会の伝道が進展するのは、綿密な伝道計画を立案するとか、しっかりした伝道の体制づくりをするといったことが出来たからではないかもしれません。むしろ、私たちに求められているのは、38節にありましたように、「働き手を送ってくださるように、収穫の主に願う」こと、祈り続けることであります。そのとき、主はいつの間にか、私たちを「働き手」の一人として用いて下さるのではないでしょうか。私たちの教会の周りには、多くの弱り果て、打ちひしがれている人たちがいます。私たちもその一人であります。本人の自覚はないかもしれません。しかし、主イエスはそのように御覧になって、深く憐れまれています。その人たちの弱さや痛みも、ご自分の命さえ差し出して共に担って下さいます。ですから、この人たちが救われるために、働き手を送って下さるように、祈り続ける者でありたいと思います。そして、私たちが「働き手」の一枝に加えられえるなら、それ以上の喜びはありません。祈りましょう。

祈  り

収穫の主なるイエス・キリストの父なる神様!
 
今日も深い憐れみをもって、私たちのところを訪れてくださって、収穫をお約束下さり、祈ることへと導いて下さいましたことを感謝いたします。
 
どうか、この暗い時代にあって、救いの光を輝かせて下さい。どうか、この地にも収穫のための働き手を送って下さい。どうか、この伝道所も祈りの家とされ、収穫の畑として、御業のために用いられますように。どうか、求道中の方々が、御国へと刈り入れられますように。
 主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

米子伝道所 主日礼拝説教<全原稿>   2012年1月22日  山本 清牧師 

 聖  書:マタイによる福音書9:35−10:4
 説教題:「収穫の主」
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