序.イエスの弟子にしようと

私たちは今日、主イエスの弟子たちのうちの4人が、最初に主イエスによって召されて弟子になったときのことを聖書から聞こうとしています。けれどもそのことは、ただ、2000年前にペトロやアンデレやヤコブやヨハネが、どんな風にして弟子になったかということを知らされるということだけではありません。彼らが弟子となって主イエスに従ったという出来事を通して、私たちが主イエスの弟子になるとはどういうことなのかを知ろうとしているのであります。否、知識的に知ろうとしているというだけではありません。聖書に記されている出来事というのは、それを聞く私たちにも起こる出来事であります。ペトロやアンデレやヤコブやヨハネに起こったことは、今、私たちにも起こることであります。彼らが主イエスに従って、人間をとる漁師となったように、今日、主イエスは聖書の御言葉を通して、私たちをも弟子にしようとなさっており、弟子としての働きに就かせようとなさっているのであります。
 
私たちは主イエスの弟子になる(つまり、キリスト者になる)ということに戸惑いがあるかもしれません。そんな資格があるのだろうかとか、弟子というほどに主イエスに尽くし切れそうにない、といった不安がよぎるのではないでしょうか。既にキリスト者になっている人であっても、自分は本当に主イエスの弟子と言えるのだろうか、もっと弟子らしくなれと言われても、とても自分には主イエスの弟子にはなり切れていないし、今後も立派な弟子にはなれそうもない、という思いが出て来るのではないでしょうか。
 
そこで、4人の弟子たちはどうだったのか、どのようにして弟子になることが出来たのか、ということを見て行こうと思います。結論から先に言うと、そこには主イエスの一方的な選びと招きがあったということです。そのことを、それぞれ御自分のことと考え合わせながら、聴き取って行きたいと思います。

1.ガリラヤ湖のほとりで

まず18節に、イエスは、ガリラヤ湖のほとりを歩いておられたと
、とあります。これは主イエスがガリラヤ湖の景色を楽しみながら散歩しておられたということではありません。主イエスがガリラヤ湖のほとりを歩いておられたのは、すぐ前に書かれていることと関係があります。
1516節にこう書かれています。「ゼブルンの地とナフタリの地、湖沿いの道、ヨルダン川のかなたの地、異邦人のガリラヤ、暗黒に住む民は大きな光を見、死の陰の地に住む者に光が射し込んだ。」――これは、イザヤ書823節と91節からの引用ですが、ここにはガリラヤというところが、異邦人の住むところであり、光のない暗黒と死の陰が覆う地であることが書かれていて、そこに大きな光が射し込むと預言されているのであります。ガリラヤはヘロデ王が治めるユダヤの国の一部でありましたが、かつてアッシリアの捕囚を経験した時代に、異邦人が入り込んで来たという歴史がありました。ですから、異教の神々を礼拝するという習慣も入り込んで来ていました。それでエルサレム周辺の人々からは蔑んで見られていました。そんなガリラヤではありますが、風光明媚で緑も比較的多い地域でありまして、おそらく多くの人々は平穏な日常生活を営んでいたにちがいありません。しかし、そんなガリラヤのことを聖書は敢えてイザヤ書の言葉を引用しながら、「異邦人のガリラヤ」と言い、「暗黒に住む民」とか「死の陰の地に住む者」と書いているのは、たとえ平穏に見えるガリラヤの地であっても、イエス・キリストが来られる前は、神様の目から見れば、実は、真の神様を礼拝することが疎かにされ、暗黒が覆っており、死の力に支配されていた、ということを言おうとしているのではないでしょうか。
 
このことは、当時のガリラヤの地だけの問題ではありません。現代の私たちが日々平穏に暮らしていると思っている日常生活も、神様の目から見るならば、〈神なき異邦人のような生活〉、〈暗闇の中にいるような先の見えない世界〉にあって、〈死の陰が覆っている人生〉なのであります。ガリラヤはそのような私たちの住む世界、私たちの生きている日常生活の代表であります。
 
主イエスは、そのようなガリラヤの湖のほとりを歩いておられました。そのように主イエスは、私たちのガリラヤ、私たちの住む世界、私たちの日常生活の中に入って来られるのであります。私たちは今日、この世の日常生活の只中で、こうして礼拝に来て、イエス・キリストと出会います。そして主イエスは、神様がガリラヤを御覧になったように、私たちを御覧になります。私たちは自分の生活が、神様から遠く離れたところにあると思っていないかもしれません。それなりに神様に寄り添った生き方をしていると思っているかもしれません。また、自分たちの生活を一寸先も見えない暗黒の中にあるとは思っていないでしょう。輝きに満ちた人生だとは思っていないとしても、それなりに希望の光があり、ある程度は先が見通せ、喜びや楽しみもそれなりにある人生を歩んでいると思っています。やがて死が訪れることは分かっているけれども、それなりの覚悟を持ち、備えもしていて、死に怯えるようなことはない、と思っている人が多いかもしれません。しかし、主イエスはそのような日常生活が本当の大きな光を欠いており、暗黒の死の世界に向かっていると見ておられて、そこを本物の光で満たそうと、私たちの住む世界、私たちが今暮らしている日常生活の只中に入って来られるのであります。
 
4人の漁師たちは、ガリラヤ湖で生計を立て、それなりの安定した日常生活を営んでいたのではないかと思われます。もっとも、漁師というのは、主イエスの時代はあまり重んじられない職業であったようであります。ですから、もっと上を目指したい、経済的にも文化的にも、より満たされた生活をしたい、人々から尊敬を受けるような生き方をしたいという思いはあったかもしれません。けれども、これまでの生き方を大きく変えるだけの力もなく、幸運に恵まれることもなく、日々繰り返される漁師としての日常生活を営んでいたのでしょう。そのような漁師たちに、転機が訪れました。

2.御覧になった

主イエスがガリラヤ湖のほとりを歩いておられたとき、二人の兄弟、ペトロと呼ばれるシモンとその兄弟アンデレが、湖で網を打っているのを御覧になったのであります。このあと、20節でも、別の二人の兄弟、ゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネが、父親のゼベダイと一緒に、舟の中で網の手入れをしているのを御覧になると、と書かれています。主イエスのまなざしが、彼らの日常生活の上に注がれたのであります。主イエスが「御覧になった」ということが、これからこの4人に起こる一切のことの発端であります。このあと4人は主イエスの弟子になり、主イエスと行動を共にし、主の十字架と復活の後は、キリストの御業を証しする者として、初代教会の中で大きな働きをすることになるのでありますが、そのキリスト者としての生涯の発端は、イエス・キリストが「御覧になった」ことにあったのであります。
 
主イエスが「御覧になった」のは、何となしに目に入ったということではありません。主イエスが目をつけられた、選ばれ、召そうとされた、ということであります。しかし聖書は、主イエスがなぜこの4人に目をつけられたのか、なぜこの4人を弟子に相応しいと考えられたのかについては、何も述べていません。彼らが弟子となるに相応しい能力とか性格を持っていたとか、漁師の仕事の状況があまりうまく行っていなかったとか、家庭環境が弟子になりやすい状態だったなどということも、書かれていません。ただ、「彼らは漁師であった」と書いているだけであります。でもそれは、漁師という職業の経験が弟子になることに役立つという意味だとは思えません。後で、「人間をとる漁師にしよう」と言われることと、ユーモアを込めたつながりがあるとしても、特に漁師が弟子に適しているとは思えません。むしろ、先ほど述べましたように、漁師というのは、当時の社会では軽蔑されていた職業でありました。後に収税人マタイも弟子に召されますが、収税人はユダヤ人から嫌われ者でありました。それと同じような意味で、世の中で差別を受けていた者に主イエスは敢えてまなざしを注がれたということかもしれません。たとえそうだとしても、4人が選ばれたのは、弟子としての資質や能力があったからではありませんし、弟子となるに相応しい環境が整っていたということではないようであります。また、これまでに主イエスとの交流があったようでもありませんから、気心が分かっていたとか、事前に打診があったとか、主イエスに対する信仰の芽が育っているのを認められたということもなさそうであります。大切なことは、主イエスが「御覧になった」、すなわち主イエスが目を止められ、一方的に選ばれたということであり、そのことが決定的なことなのであります。
 
このように、私たちが主イエスの弟子となる、また今後も弟子であり続けるということは、私たちの側の条件によるのではありません。私たちの資質や能力や環境で決るのではありませんし、おそらく、私たちの信仰の程度によるのでさえありません。今、信仰生活を続けている人が、信仰に入った時のことを考えたてみても、そのきっかけについては、クリスチャンホームに育ったとか、誰かに誘われたとか、解決の出来ない問題にぶつかって教会の門を叩いたというようなことはあるかもしれませんが、自分にはクリスチャンとなるにふさわしい性格や資質があったと言える人はいないでしょうし、キリスト教について研究して、これは信ずべきだと判断して信仰に入ったという人も、自分で一大決心をして飛び込んだという人も稀であります。もしそういう人がおれば、その人の信仰には少し問題があるかもしれません。多くの人は、後から考えて、何の取り柄もなく、相応しい条件もなかった自分を、神様が特別な憐れみと召しによって、弟子の一人に加えて下さったからだとしか言えないのではないでしょうか。

3.「わたしについて来なさい」

ところで、19節にありますように、主イエスはペトロとアンデレに「わたしについて来なさい」と言われました。主イエスと彼らの最初の関わりは、この招きの言葉でありました。主イエスは〈私の教えを学びなさい〉とか、〈私の話をよく聞きなさい〉と言われたのではありません。〈私の考えをよく研究し、理解しなさい〉と言われたのでもありません。「わたしについて来なさい」と言われたのであります。主イエスというお方につき従って行くということであります。主イエスと一緒に行動するということであります。ただ、学んだり、ただ研究したり、ただ行動するだけでもありません。何か良い知恵を与えられたり、よい指針を与えられて、あとは自分の努力で何事かを達成するということではありません。主イエスの弟子として、僕として、主イエスのあとについて行くことを求められたのであります。絶えず主イエスの指示を仰ぎながら従って行くということです。自分の考えや意思や希望によってではなくて、主イエスのお考え、御意思、指示に従って行動する、生活するということです。
 
では、何の目的のために主イエスに従うのかと言えば、主イエスは「人間をとる漁師にしよう」とおっしゃいました。主イエスのもとにお連れして、主イエスの愛の中に導き入れるということです。言い換えれば人の魂を救うということ、罪の赦しの世界へと導くということであります。社会を進歩させるとか、理想の社会を実現するとかいうことではありません。人々に幸せをもたらすとか、快適で満ち足りた生活を実現するということでさえありません。主イエスと共なる人生に招き入れるということであります。私たちが主イエスに招き入れられたように、他の人々をも主イエスのところに連れて来るということであります。それは、私たちの影響力や感化力や説得力によるのではありません。私たち自身が主イエスに従っていることを示し、主イエスの愛と力を指し示すことによってであります。

4.すぐに――捨てて――従った

主イエスがこう言われると、ペトロとアンデレはどうしたでしょうか。20節にあるように、二人はすぐに網を捨てて従ったのであります。別の二人の兄弟、ゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネの場合も、主イエスが彼らをお呼びになると、22節にあるように、この二人もすぐに、舟と父親とを残してイエスに従ったのであります。20節にある、「すぐに」「捨てて」「従った」という3つの言葉は、22節にもあります。「捨てて」という言葉は「残して」という言葉に変わっていますが、原語のギリシャ語は同じ言葉が使われています。
 
いずれの兄弟も主イエスの招きを受けて、すぐに行動に移しました。兄弟同士で相談したわけではありませんし、ヤコブとヨハネの場合は父親がそこにいましたが、相談したわけではありませんでした。主イエスに従うことがどんなメリットがあるのかという計算とか、自分たちが主イエスに従うと、残されたものはどうなるのか、といった心配をしている様子がありません。主イエスの言葉にはじかれたように、すぐに行動に移したのであります。実際には、ここに書かれているように、何の相談もなく直ちに行動に移ったのではなくて、主イエスに対して「人間をとる漁師になる」とは具体的にどのような生活をすることになるのかと質問したかもしれませんし、もう少し互いに相談したり、親にも相談する場面があったのかもしれません。しかし、聖書が言いたいのは、そうした会話や相談があって安心出来たので行動に移したのではなくて、主イエスの招きの言葉に信頼して、すぐに従ったということでありましょう。
 
ペトロとアンデレは、魚を獲っていた網をすぐに捨てました。漁師にとっては仕事のために最も大切な道具であり、生活がかかっている財産であると言ってもよい網を直ちに捨てました。ヤコブとヨハネは舟と父親とを捨てました。これまでの仕事と共に、肉親の絆さえ捨てたのであります。主イエスが大工の仕事を捨て家族も捨てて宣教の御業に立ち上がられたように、その主に従って彼らも従来の生活の手段や人間関係を捨てたのであります。やや唐突すぎる、極端な行動に思えるかもしれません。信仰生活に入るということが、こういうことであるとすれば、あのオーム真理教の信者のように、異常な行動に思えるかもしれません。しかし、信仰に入る、イエス・キリストに従うということは、基本的には、過去の生活とは縁を切る、この世的な営みを捨てる、ということであります。もちろん、直ちに家族と別れるとか、必ず従来の仕事をやめなければならない、ということでは必ずしもありません。しかし、主イエスに従うということは、主イエスとのつながりを最重要なこととして、他のことは二の次、三の次にするということであります。他のことは無視してよいとか、迷惑をかけてもよいということではありませんが、主イエスとの関係を最高の関係にするためには他の関係をどうすればよいか、主イエスの御心に従うためにはどうすればよいか、という視点で全てのことを考えなければならないということであります。世間がどう見るか、他人の評価がどうなるか、と言う視点で考えるのではなくて、主イエスがどう見られるのか、主イエスが何を願っておられるのかを軸に、すべてのことを判断する生き方に変わるということであります。それは、大変厳しいこと、辛いことのように思えます。しかし、実は、非常に身が軽くなること、生き方の方向が明確になって、これまでに自分を苦しめていたものから解放されることなのであります。そして、人生の新しい意味と目的がはっきりと見えて来ます。
 
さきほど朗読していただいた、旧約聖書のエレミヤ書16章の16節には、このような預言が語られていました。「見よ、わたしは多くの漁師を遣わして、彼ら(イスラエルの子ら)を釣り上げさせる、と主は言われる。その後、わたしは多くの狩人を遣わして、すべての山、すべての丘、岩の裂け目から、彼らを狩り出させる。」このエレミヤの預言が、ガリラヤの漁師たちによって成就するのであります。

結.人間をとる漁師とされて

このエレミヤの預言は、ガリラヤの漁師たちによってだけではなくて、主イエスに召し出された私たちによっても成就されて行きます。私たちもまた人間をとる漁師として、この礼拝の場所から遣わされて行くのであります。
 
私たちが遣わされる世界は、今なお、暗闇が覆っており、多くの人々が死の陰に住んでおります。それは大震災があった地方だけではありません。不幸な出来事や病気に見舞われた人々だけではありまあせん。主イエスを知らない世界では、どんなに楽しそうに見えても、どんなに豊かそうに見えても、暗闇と死が支配しています。しかし、そこに、主イエスを知っている人が御言葉をもって出かけて行くならば、そこに光が射し込みます。人々は大きな光を目にすることになります。そして、主イエスに従う人々が増し加えられます。私たちはその務めを担う者として、今日、主イエスの召しを受けているのであります。
 
祈りましょう。

祈  り

救い主イエス・キリストの父なる神様!
 
今日も主イエスが御言葉において、私たちのところに来て下さって、私たち一人ひとりを御覧になって、人間をとる漁師へと召して下さいましたことを感謝いたします。
 
私たちは優柔不断であり、この世の網や舟や家族を捨てて、主に従うことが出来ておりません。それ故に、この世に光を届かせることが出来ないでおります。しかし、主イエスは私たちのために、全てを捨てて下さいました。そして、優柔不断で不信仰な者のために、命を捨てて下さいました。どうか、この主イエスに従う者とさせて下さい。
 
主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

米子伝道所 主日礼拝説教<全原稿>   2012年1月15日  山本 清牧師 

 聖  書:マタイによる福音書4:18−22
 説教題:「人間をとる漁師」
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