序.イエスの受洗と私たちの受洗

今日与えられている聖書の箇所は、主イエスが洗礼者ヨハネから洗礼を受けられた場面であります。主イエスが洗礼を受けられたことは4つの福音書の全てに書かれています。そのことから分かることは、この出来事が主イエスのご生涯とその働きについて語ろうとする時に、欠かすことの出来ない出来事であるということであります。主イエスのご生涯で何が重要なことかと言えば、もちろん、十字架と復活の出来事であります。このことも4つの福音書が欠かさず述べています。そのような大事な御業と共に、受洗の記事が4つの福音書に書かれているのは、この受洗の出来事が、主イエスの十字架と復活の出来事と切り離すことが出来ない意味を持っているからであります。どういう意味があるのか、今日はそのことをお話して参ります。
  その際にすぐ問題になりますのが、<主イエスがなぜ、洗礼をお受けにならなければならなかったのか>、ということであります。そのことは、洗礼者ヨハネ自身が主イエスに質問していることであります。この質問には主イエスがすぐお答えになっていますので、その主イエスの言葉を説き明かすのが、今日の説教の第一の役割であります。
 しかし、それと同時に、私たちにとって関心があるのは、私たち自身の受洗ということと、主イエスの受洗とがどのように結びつくのか、という点であります。私たちの受洗というのは、私たちが主イエスを信じるということのしるしであり、私たちが救いに入れられるしるしであります。その受洗ということと、主イエスの受洗がどう関わるのか、私たちの救いと主イエスの受洗がどう関係するのか、という問題であります。このことは、これから洗礼を受けようかどうしようかと考えておられる方だけでなく、既に洗礼を受けた者にとっても、関心の深いことであります。今日は、主イエスの受洗の意味と、それが私たちの受洗にどう関わるのか、ということを考えながら、御言葉を聴いて行きたいと思います。

1.ヨハネの洗礼

さて、その本題に入る前に、ヨハネが行っていた洗礼というのがどういうものであったのか、ということについてお話しておきましょう。そのことについては、すぐ前の31節から12節に書かれています。
 まず、2節を見ていただきますと、そこにはヨハネが宣べ伝えた言葉が記されています。それは、「悔い改めよ。天の国は近づいた」ということでありました。人々に悔い改めを迫ったのであります。そして、6節にあるように、罪を告白して悔い改めた人に、ヨルダン川で洗礼を授けたのであります。当時のユダヤでも洗礼が行なわれていましたが、それは、異邦人がユダヤ教を信じるようになった時だけ行われるもので、神様から選ばれているユダヤ人はその必要がないと考えられていました。ところが、ヨハネは、7節以下にあるように、当時のユダヤでは宗教的エリートであったファリサイ派やサドカイ派の人々に向かって、こう言っております。「蝮の子らよ、差し迫った神の怒りを免れると、だれが教えたのか。悔い改めにふさわしい実を結べ。『我々の父はアブラハムだ』などと思ってもみるな。言っておくが、神はこんな石からでも、アブラハムの子たちを造り出すことがおできになる」79)。アブラハムの子とはユダヤ人のことです。ユダヤ人だからと言って安心していてはいけない。悔い改めない者は、ユダヤ人のエリートだって神の怒りを免れられない、と言ったのです。10節を見ると、「斧は既に木の根元に置かれている。良い実を結ばない木はみな、切り倒されて火に投げ込まれる」と、悔い改めない者には神の裁きが下ると警告しています。
 では、悔い改めるとはどういうことでしょうか。ここでヨハネから警告を与えられていたファリサイ派の人たちというのは、律法を守ることに熱心であった人たちです。だから、悔い改めるとは律法をちゃんと守るようにするということではありません。倫理的な実践が足りないということではありません。悔い改めとは、生き方の向きを神さまの方に向き直るということです。ファリサイ派やサドカイ派の人たちは人々から立派だと評価される生き方をしていたかもしれませんが、彼らは人間の方を向いていて、神さまの方を向いていなかったということです。自分で正しい生き方を作り上げていましたが、神さまの前に跪くということが出来ていなかったのです。それは、ファリサイ派やサドカイ派の人たちだけではありません。全ての人々が悔い改めて、神さまの方に向き直る必要があります。私たちもまた、このヨハネの警告を真摯に受け止める必要があります。
 ヨハネは11節で、「わたしは、悔い改めに導くために、あなたたちに水で洗礼を授けているが、わたしの後から来る方は、わたしより優れておられる。わたしは、その履物をお脱がせする値打ちもない。その方は、聖霊と火であなたたちに洗礼をお授けになる」と言っております。水で洗っても、体の表面がきれいになるだけで、本質が清められるわけではありません。火によって古いものが焼かれて、汚いものが清められ、聖霊によって新たに作り変えられることによって初めて、新しい人間として生れ変わることが出来ます。そのことをするのは、自分ではなくて、来るべき主イエスであると、ヨハネは述べているのであります。

2.「わたしこそ、あなたから」

そこで今日の本題に入りますが、13節に、そのとき、イエスが、ガリラヤからヨルダン川のヨハネのところへ来られた。彼から洗礼を受けるためである、とあります。旧約聖書が預言し、ヨハネが指し示した救い主が、いよいよ登場されます。「ガリラヤから」と書かれているのは、主イエスが育たれたガリラヤ地方のナザレから出て来られたということですが、この言葉には深い意味合いが込められているように思います。それは、これまでの故郷での生活を捨てられたということです。それは、世の多くの人がするように、故郷を離れて都へ上って、一旗上げるというようなことではありません。その後の主イエスに起こったことは、旗揚げなどということとは全く逆のことでありました。後にご自分のことを、「狐には穴があり、空の鳥には巣がある。だが、人の子には枕する所もない」(マタイ820)と言っておられます。地上の安らぎや絆を断って、十字架へと向かうために、故郷を離れられたのでありました。しかしそれは、地上にいる人間と縁を切って別世界に行くということではありません。主イエスが向かわれたのは、「ヨルダン川のヨハネのところ」でありました。そこには、5節にあるように、エルサレムとユダヤ全土から、また、ヨルダン川沿いの地方一帯から、人々がヨハネのもとに来ていました。主イエスは、そのような大勢の群衆の一人としてヨハネのもとに向かわれたのであります。罪ある人間と同じ立場に立たれたということです。そして、多くの罪ある人間と同じように洗礼を受けようとされるのであります。
 ところが、ヨハネは、主イエスの申し出に驚いて、それを思いとどまらせようとして言いました。「わたしこそ、あなたから洗礼を受けるべきなのに、あなたがわたしのところへ来られたのですか」14)。ヨハネは人々に洗礼を施していましたが、自分は洗礼を受ける必要のない、罪のない人間だとは思っていませんでした。主イエスが来られたなら、何よりも自分こそ主イエスから、真の悔い改めの洗礼、聖霊と火による洗礼を受けたいと願っていたのでしょう。そうであれば、自分の方から主イエスのところにお伺いして、洗礼を授けていただくべきだと思っても、至極当たり前であります。
 しかし、ある説教者はここで、こう言っております。「ヨハネが、『わたしよりも優れている』と言った、その当のイエスに洗礼を授けることが必要なのです。わたしたちの信仰は、『わたしこそ、あなたから洗礼を受けるべきなのに、・・・』という遠慮にとどまっていることが、何と多いことでしょう。その時、ヨハネのように自分のもとに来られるイエス・キリストを押しとどめているのです」と。これはどういう意味でしょうか。主イエスが私たちのところに来て、洗礼を授けてほしいなどとおっしゃるわけがありません。しかし、主イエスが私たちのところに近づいて来て下さる時は、権威を振りかざして、<お前が悔い改めたら洗礼を授けてやろう>というような態度で来られるのではなくて、まるで御自分が私たちよりも低い者であるかのように、私たちの罪を背負おうとしてやって来られるということです。そのような主イエスに対して、遠慮することはむしろ、主イエスの好意を無にすることになり兼ねないということです。ヨハネもこの点では、主イエスがこの地上でなさろうとしておられることを、充分には理解していなかったのであります。
 
では、主イエスはなぜ、ヨハネから洗礼を受けるべきだとお考えになったのでしょうか。

3.「正しいことをすべて行う」

15節で主イエスはこう言っておられます。「今は、止めないでほしい。正しいことをすべて行うのは、我々にふさわしいことです。」―ここで、「正しいこと」と訳されている言葉は、他のところでは「義」とも訳される言葉で、聖書の中で大変重要な言葉ですが、単に道徳的に正しいとか、ルールに違反しないということではありません。神様の正しさを表す言葉です。神様の正しさが貫かれることが「義」であります。神様が正しさを貫かれるとは、悪を排除されるということ、悪を滅ぼされるということではありますが、単に罪に染まっている者を断罪して悪を切り捨てる、ということではなくて、罪の中に陥っている者の立場に立って、その罪の結果の裁き(つまり、死)に対して自ら責任を持たれるという形で正しさを貫かれるということであります。神さまが主イエスを地上に遣わされたのは、この正しさ(神の義)を貫かれるためでありました。ですから、神の子、主イエス御自身が罪の悔い改めの洗礼を受けられることは、「正しいこと」なのであります。「我々にふさわしいことです」ともおっしゃっています。「我々」とは、まずはヨハネと主イエスのことと考えられます。逆転のように思われる、ヨハネから主イエスが洗礼を受けるという、二人の関係が、神さまの正しさを行うことになる、という意味で理解できます。しかし、ここで「われわれ」と言われたのには、もっと広く、もっと多くの人々が含まれているのではないかと思われます。ヨルダンにはエルサレムとユダヤ全土から多くの人々が、ヨハネの悔い改めの説教を聞き、洗礼を受けようとして集まって来ておりました。主イエスはそういう人たちも視野に入れながら、「われわれ」と言っておられるのではないでしょうか。罪の中にあるその人たち、神様との関係が悪化している人たちのことを思いやりながら、主イエスが今、ヨハネから罪人の一人として洗礼を受けることは、「我々にふさわしい」と言っておられるのであります。そうであるならば、この「われわれ」には、今、主のもとに集まっている私たちも含めて差し支えないのではないでしょうか。主イエスは今も、罪深い私たちとともに「正しいこと」即ち、神さまの救いの御心をすべて行おうとしておられる、そのために罪人の私たちと同じ立場に立とうとしていて下さるのであります。

4.天が開け、神の霊が降る

そこで、ヨハネは主イエスの言われるとおりに、洗礼を授けました。主イエスが洗礼をお受けになって水の中から上がられると、そのとき、天がイエスに向かって開いた、と書かれています。ここで「天」というのは、単なる大空のことや宇宙空間のことではありません。神さまにのみ属する領域、神の国のことで、それは、私たちには隠された領域、本来、私たちには窺い知れない世界であります。そのような「天」が、主イエスの受洗の瞬間に開いたというのです。罪深い人間が、神さまの隠された世界(神の国)を垣間見ることが出来、それに関わることが出来るようになった、ということであります。
 
続いて16節後半には、イエスは、神の霊が鳩のように御自分の上に降って来るのを御覧になった、と記されています。聖霊が降ったということです。主イエスは聖霊によってマリアの胎に宿られましたが、今、天の力が主イエスの上に降って、地上での救いの御業が始まったということであります。主イエスが罪人たちと同じように洗礼を受けられたということは、罪人になられたということではありません。人間の罪の結果を引き受ける者となられたということです。そのことは普通の人間に出来ることではありません。そのことが、主イエスの上に神の霊が降ることによって行われるということであります。旧約聖書の多くの預言者や、洗礼者ヨハネは、神さまの御心を伝えることは出来ました。しかし、主イエスは、単に御心を伝えるだけでなくて、神さまの御心そのものを行われる、救いの御業そのものを実行なさるということであります。
 
今日のお話の最初に、ヨハネが「悔い改めよ。天の国は近づいた」と宣べ伝えたと申しました。417節を見ると、主イエスも同じように、「悔い改めよ。天の国は近づいた」と語り始められます。それならば、ヨハネと主イエスは同じ働きをしたということになるのでしょうか。そうではありません。ヨハネは「悔い改めよ。天の国は近づいた」と述べて、神の裁きを語って、悔い改めを迫りました。しかし、人間が悔い改めだけでは救いはありません。主イエスも「悔い改めよ。天の国は近づいた」と語られるのですが、単に語られるだけではなくて、罪の中にある者、重荷を負っている者の重荷を御自分で担われるのであります。そうして天の国を実際にもたらされたのであります。罪人であった者が天の国に入ることが出来る道を開かれたのであります。それが、聖霊を受けて、主イエスがなさったことであります。ヨハネは、自分は水で洗礼を授けているが、主イエスは「聖霊と火で洗礼をお授けになる、ということを申しましたが、正に、私たちは主イエスによって、聖霊の洗礼を受けることになるのであります。

5.「これはわたしの愛する子」

17節を見ますと、そのとき、「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」と言う声が、天から聞こえた、とあります。この言葉は旧約聖書の中に、いくつか見られるものですが、一つは先ほどの旧約聖書の朗読で読まれた詩編27節で、「お前はわたしの子、今日、わたしはお前を生んだ」と語られていました。これは「王の即位の詩編」と言われているものの中にある言葉で、真実の王の即位に際して、神がそれを承認する言葉として語られているのであります。もう一つ、イザヤ書421節(p.1128)を見ていただきたいのですが、そこにはこう書かれています。「見よ、わたしの僕、わたしが支える者を/わたしが選び、喜び迎える者を/彼の上にわたしの霊は置かれ/彼は国々の裁きを導き出す。」――これは、苦難の僕の歌と呼ばれるものの一つです。ここに描かれた苦難の僕こそ、主イエスを預言したものだと受け止められています。その苦難の僕について述べられたことが、今、主イエスに対して、天からの声として語られているのであります。つまり、主イエスこそが苦難の僕として神から遣わされたお方であるということが、ここで神さまによって承認され、宣言されているのであります。そのような苦難の僕こそ、神の子だということであります。

結.私たちの受洗

最後に、このようにして行われた主イエスの受洗と私たちの受洗との関わりについて、考えてみましょう。主イエスの受洗というのは、今見て来ましたように、主イエスがその地上の生涯を通して、人の罪を背負って、神の裁きを受けて下さるということを表すものでありました。私たちの受洗というのは、その主イエスによる罪からの救いを信じて受け入れることのしるしであります。そこには、ヨハネが求めましたように、悔い改めが必要です。これまでの人生の歩みとは方向転換して、神さまの方へ向きを変えるということが必要であります。それは、単に心境の変化とか、志を新たにするということではありません。生き方そのものが変わるということです。従って、それは、私たちの決心や私たちの努力だけで出来るものではありません。私たちを変えて下さる主イエスの救いの御業が働かなくてはなりません。聖霊の力が働かなくてはなりません。今日の御言葉によって聴いたことは、主イエスが洗礼を受けられたことによって、その救いの御業が私たちのために始まっている、ということであります。私たちはその御言葉を受け入れたことのしるしとして行われるのが、私たちの洗礼であります。既に、洗礼を受けた方は、そのことを改めて思い起こして、主イエスを通して行われているこの神さまの恵みを感謝したいと思います。そして、主イエスによって行なわれたこの救いの恵みを人々にも証しする者として、残された人生を歩み直したいと思います。また、求道中の方々、まだ受洗の決心に至っておられない方は、御自分の状態を見て、受洗はまだまだだなどとお考えになるのではなくて、主イエスが私たちのために自らを投げ出しておられることを覚えて、感謝をもって、その恵みを受け入れて、信仰を告白して、洗礼を受ける決心へと導かれますよう、聖霊の導きがあることをお祈りしたいと思います。お祈りいたします。

祈  り

救い主イエス・キリストの父なる神様!
 
御子イエス・キリストを地上に送って下さり、あなたに背いております私たちのために、その罪を担わせて下さった恵みを覚えて、感謝いたします。今日、御言葉によって、私たちの思いをあなたの方へと向き直らせて下さいました。どうか、絶えず、御言葉によって正され、あなたの愛と救いから離れることのないように、聖霊の豊かな導きの内に置いて下さい。どうか、求道中の方々を、洗礼へと導いて下さい。
 
主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

米子伝道所 主日礼拝説教<全原稿>   2012年1月8日  山本 清牧師 

 聖  書:マタイによる福音書3:13−17
 説教題:「イエスの受洗」
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