序.なぜ元旦に暗い物語?――世の現実を直視することから

年が巡って、新しい年の元旦を迎えました。
 
去年大震災があったので、今年の年賀状には、「おめでとう」とか「謹賀新年」といった言葉を避ける傾向があるそうで、私も今年の年賀状には、そういう言葉を使わないものを出しました。しかし、クリスマスカードには、堂々と「おめでとう」と書きました。暗い現実が横たわっていたとしても、救い主の誕生は、それを凌ぐお目出度い出来事であるからであります。
 
先ほど朗読いたしました、マタイによる福音書213節以下には、幼子イエスの誕生の直後の、暗い物語が記されています。本来ならお目出度い筈の元旦の礼拝に、なぜこんな暗いテキストを選ぶのかと、不審に思われた方もいらっしゃるのではないかと思います。しかし、教会の暦では、新年にこの箇所が選ばれることは、決して稀なことではありません。今回ここを取り上げたのは、日曜学校のカリキュラムに従ったからなのですが、元々、世界の多くの教会で採用されている教会暦(レクショナリー)では、クリスマス後の最初の日曜日に取り上げられるテキストの一つとなっているのであります。普通は年末の最後の日曜日に当ることが多いのですが、今年は暦の加減で、元旦がクリスマス後の最初の日曜日になっただけで、今日は、世界の多くの教会で、このテキストが取り上げられている可能性があります。
 
この箇所がクリスマス後の最初の日曜日に取り上げられるのは、ここに記されている出来事が、主イエスの誕生の直後に起こった出来事だからでありますが、そのことは、クリスマスの出来事というものが、ただ楽しいだけ・お目出度いだけの出来事ではないのだということを物語っています。主イエスの誕生は、何の憂いもない、明るい社会の中で起こったのではありませんでした。むしろ、暗さが深く覆っている中に、御子イエス・キリスが遣わされたのであります。クリスマスの礼拝で聴きましたように、暗い闇の中で一際明るく輝く星のように、主イエスは誕生されたのでありました。ですから、主イエス・キリストの誕生の意義を深く知るためには、暗い世の中の現実を直視することから始めなければならないのであります。軽々しい挨拶の「おめでとう」ではなくて、心からの喜びから湧き上がる「おめでとう」の挨拶を交わすために、今日のテキストが年の初めに取り上げられるのは、まことに相応しいと言えるのであります。

1.目出度さを覆う苦難――ヘロデの現実

先週のクリスマス合同礼拝で取り上げられた21節から12節までの箇所は、東方の占星術の学者たちが、星に導かれて幼子イエス・キリストを礼拝したという、一見美しいお伽話のような物語でありましたが、その中に既に、ヘロデ王の暗い影が忍び寄っておりました。学者たちは、星で示された新しいユダヤの王はエルサレムで生まれたに違いないと考えて、ヘロデ王の宮殿を訪ねたのでしたが、そこには幼子は生まれていませんでした。ヘロデ王は、新しい王が生まれたという星の学者たちの言葉を聞いて、不安を抱きました。そして、エルサレムにいる祭司長や律法学者を集めて、新しい王がどこで生まれたのかを調べさせると、旧約聖書のミカ書にベツレヘムで生まれると預言されているのを見つけました。ヘロデ王は星の学者たちを呼んで、「その子のことを詳しく調べ、見つかったら知らせてくれ。わたしも行って拝もう」と言って送り出しました。しかし本心は、その子を亡き者にしようとの魂胆であることは明らかであります。誕生したばかりの主イエスに、早くも命を狙う者の手が忍び寄って来たのでありました。しかし、幼子イエスがここで命を失ったのでは、神さまの御計画が狂ってしまいます。神さまは学者たちに夢で、「ヘロデのところへ帰るな」とのお告げをなさいました。こうして学者たちは、神の言葉に従って、「別の道を通って」自分たちの国へ帰って、取敢えずは事なきを得たのでありました。
 
マタイ福音書には書かれていませんが、ルカ福音書の方には、主イエスがベツレヘムで誕生されることになった経緯が記されています。母マリアと父ヨセフは片田舎のナザレに住んでいましたが、皇帝アウグストゥスから住民登録をせよとの勅令が出て、ヨセフはダビデの家系に属していたので、ダビデの出身地であるベツレヘムへ行って、そこで登録をするため、身重のマリアと共にやって来たのでありました。しかし、宿屋が満員で、やむを得ず家畜小屋で泊まることになり、生まれた幼子イエスが飼い葉桶に寝かされたことは、ご存知の通りです。ここにも、当時の権力者であるローマ皇帝の暗い影があります。そして、この救い主の誕生を祝ったのは、天使によって知らされた羊飼いたちと、マタイ福音書に記された東方の星の学者たちだけであって、ベツレヘムの町の人や、エルサレムの人々は誰も訪れなかったのであります。
 
さて、今日の箇所に入りますが、星の学者たちが帰ったあと、主の天使が夢でヨセフに現れて、「起きて、子供とその母親を連れて、エジプトに逃げ、わたしが告げるまで、そこにとどまっていなさい」と言って、ヘロデ王の殺意を教えます。
 
ここで、ヘロデ王について若干の説明を加えておきましょう。この人はヘロデ大王と言われる人で、反ローマ勢力の地盤であったガリラヤ地方の長官を務めて、ローマの援助を受けて、軍事的・政治的に成功を収めて王位を与えられて、領土を広げると共に、エルサレム神殿の改修工事を進めた人でありました。エルサレム神殿は、イスラエルの民が捕囚となる際に破壊され、捕囚後再建されるのですが、ソロモン王の時代の壮麗なものにはなっていなかったところを、このヘロデ王の改修によって、ユダヤ人の念願であった立派な神殿が甦えるのであります。そのような功績があった一方、自分の地位を脅かすのではないかと疑った者を次々と殺害し、妻や子供をも殺すという陰惨なことをして、ユダヤ人の人心も次第に彼から離反したようであります。
 
このように、この世の支配者は、神を礼拝する神殿を立派に建てておきながら、自分の立場を守るために、人の命を奪うようなことを平気でやってしまうのであります。そこに、人間の罪の恐ろしさがはっきりと現れています。
 
天使から御告げを聞いたヨセフは、さっそく夜のうちに幼子とマリアを連れて、エジプトに向かいます。そして、ヘロデが死ぬまで、住み慣れないエジプトの地に滞在するのであります。15節に「わたしは、エジプトからわたしの子を呼び出した」と、主が預言者を通して言われていたことが実現するためであった、と書かれていますが、これは先ほど朗読した旧約聖書のホセア書のことを言っております。このように、救い主としてお生まれになったお方は、生まれた直後から、時の権力者の恐ろしい罪に振り回されるのであります。
 
さて、ヘロデは星の学者たちが報告をせずに帰ってしまったことを知って、大いに怒ると、新しい王になる者の命を何としても奪っておかなくてはと、ベツレヘムとその周辺一帯の2歳以下の男の子を一人残らず殺すように命じるのであります。聖書は17節で、こうして、預言者エレミヤを通して言われたことが実現したと言って、エレミヤ書3115節を引用しております。マタイがこのように何度も旧約聖書を引用しているのは、救い主の誕生を巡って起こる一つ一つの不都合とも思える出来事の背後に、神さまの確かな救いの御計画があることを示そうとしているのであります。
 
ここで皆さんは、主イエスの誕生のあおりを受けて大量の幼児が犠牲になったことをどのように理解すればよいのか、その不条理に戸惑われるかもしれません。しかし、これが人間の恐ろしい罪の現実だと言うほかありません。主イエスは恐らく、成長されてからこの事実を知られて、心を痛められたに違いありませんが、主イエスはその罪をも背負って、十字架へと向かわれ、遂にはご自分の命をもって贖われることになるのであります。

2.私たちの罪の現実――私の中のヘロデ

ところで、ここまで、救い主イエス・キリストの誕生を巡る人間の姿を見て来ましたが、そこには、エルサレムの人々やベツレヘムの人々の姿に見られるように、多くの人々の無関心や身勝手な現実がありました。一人ひとりは悪いことをしているという意識はないかもしれません。彼らに救い主を喜んでお迎えしなかった責任を負わせることは酷かもしれません。しかし、社会全体としては、救い主を喜んでお迎えしないばかりか、むしろ救い主を拒絶したのであります。その人間の罪が、ヘロデによって露わになったと言えるのではないでしょうか。ヘロデだけが悪いのではなかったことが、最終的に、十字架となって表われます。結局は、人々が皆なして、主イエスを十字架にかけてしまうことになりました。
 
ここに表されている罪は、ヘロデだけのものではありませんし、当時のエルサレムやベツレヘムの人々だけの問題でもありません。ここには、私たち自身が持っている罪の姿が表されているのであります。私たちは、意識をするとしないにかかわらず、救い主を拒否しています。神様の関与を受け付けようとしないで、自分で自分を救おうとするのであります。困難や苦しいことに遭遇して、何かにすがりたい、不安を解消したいという思いを持ちながらも、素直に神さまに助けを求めたり、神さまの恵みを受けようとしません。そして、ヘロデのようにあからさまではないにしても、自分に気に入らない者を排除したり、問題を他人の責任にして押し付けるのであります。結局、自分が暴君になり、自分が王様になって、自分の思い通りにしようとするのであります。思いやりだとか、愛だとか、絆だとか言っておりますが、自分に頭を下げる人や、自分を立ててくれる人には親切にしますが、自分に楯突く人や、自分の考えに従わない人には耳を貸さず、その思いや苦しみに心を開くこともせず、邪魔者として排除してしまうのであります。正に、私たち自身の中にヘロデがいるのであります。

3.御言葉に従ったヨセフ――天使の導き

さて、ヘロデが死ぬと、また、主の天使がエジプトにいるヨセフに夢で現れて、「子供とその母親を連れ、イスラエルの地に行きなさい」と告げます。ヨセフはその言葉に従って、イスラエルの地に帰って来ました。しかし、ヘロデの息子アルケラオが支配している地域を避けて、ガリラヤのナザレに逃れて、主イエスはそこでお育ちになります。マタイはここでも、「彼はナザレの人と呼ばれる」という預言の実現だと記しております。旧約聖書の中にぴったりの言葉が見つからないのですが、イザヤ書111節に「エッサイの株からひとつの芽が萌えいで、その根からひとつの若枝が育ち」と言われているところの、「若枝」が「ナザレの人」という言葉につながっていると言われます。いずれにしろマタイはここでも、神さまの御計画によって、主イエスが「ナザレ人」と呼ばれるようになったと言いたいのであります。
 
ところで、ここまでに描かれているヨセフの姿をもう一度振返ってみたいと思います。最初に118節以下で、主の天使が夢に現れて、マリアの胎に聖霊によって男の子が宿ったことを告げたとき、ヨセフは苦渋の中で、主の天使の言葉に従って、マリアを迎え入れ、生まれた子にイエスと名づけたのでありました。また、今日の箇所では、主の天使が、エジプトに逃げて、そこでしばらくとどまっているように命じたときも、その言葉に素直に従って、すぐに旅立ちました。そして更に、ヘロデが死んだので、イスラエルの地に行きなさいと言われたときにも、ガリラヤのナザレに行くように言われたときのも、主の天使のお告げに従ったのでありました。あっちへ行け、こっちへ行けと言う天使の命令に素直に従って、敏速に行動しております。仕事はどうしたのだろうか、生活はどうなるのだろうかと心配になってしまいますが、彼はただ、天使を通して示された御言葉に従うだけです。ここに、神さまの言葉に自分と家族を委ねて生きたヨセフの信仰を見ることが出来ます。ヘロデの強引な生き方とは全く対照的であります。ヘロデは自分で道を切り開き、邪魔者は排除して、目的を達成しようとする、積極的な生き方をしました。それに比べると、ヨセフの生き方は消極的で自主性のない、弱々しい生き方に見えます。私たちは、この箇所の物語を通して、ヘロデ的な生き方を選ぶのか、ヨセフの生き方の倣うのか、どっちをとるのかという問いの前に立たされます。ヘロデの生き方は極端で、立場や環境も私たちとは随分違うし、自分中心のやり方には与(くみ)することは出来ないのですが、私たちはどっちかと言えば、ヘロデ的な主体的・積極的な生き方に憧れるのではないでしょうか。ヨセフの生き方はあまりにも消極的です。しかし、救い主イエス・キリストの命を支え、神さまの救いの御計画に合致した生き方をして、救いの御業に貢献出来たのは、御言葉に従順であったヨセフであって、神の御業にストップをかけようとしたヘロデではありませんでした。私たちはヨセフの生き方を見習う必要があります。

4.苦難を覆う目出度さ――罪の中の救い

ここで間違ってはならないのは、ヨハネの従順さや消極的な生き方が人々に救いをもたらしたのではないということであります。人類に救いをもたらせたのは、実は、ヨセフが守り通したイエス・キリストであり、救いの御計画を進められた父なる神さまであります。ヨセフの従順を生み出したのも、神さまの確かな救いの御手が働いたからであります。
 
先ほども少し触れましたが、今日の箇所の中に、「主が預言者を通して言われていたことが実現するためであった」という言葉が3度繰り返されています(151723節)。1章の22節にも同じ言葉があります。マタイ福音書がここで言いたいことは、御子イエス・キリストの誕生を巡って起こっているすべての出来事が、旧約聖書にある預言の成就であり、神さまの救いの御計画の一端であって、最終的には主イエスの十字架において完成する、ということであります。
 
15節にあった「わたしは、エジプトからわたしの子を呼び出した」というのは、かつて、神さまがモーセを遣わして、エジプトで奴隷状態にあったイスラエルの民を導き出されたことを言っているわけですが、そのことが、今、イエス・キリストにおいて実現し、更に、このイエス・キリストの十字架によって、罪の奴隷状態である私たちの救いとして完成するのであります。18節にあった、「ラマで声が聞こえた。激しく嘆き悲しむ声だ。・・・」というのは、かつて、北王国イスラエルがアッシリア軍によって倒された時の嘆き悲しみを歌ったものですが、それが今、ヘロデ王の罪の故にわが子を殺された母親たちの嘆き悲しみとして実現し、更に、人々の罪が重なり合った結果、十字架に架けられた主イエスの足もとに佇む母マリアの嘆きとなって成就するのであります。また、23節にあった、「彼はナザレの人と呼ばれる」というのは、ガリラヤ地方には異邦人が混入したという歴史的経緯があって、ユダヤの人々から蔑視されていて、「ナザレから何か良いものが出るだろうか」(ヨハネ146)というのが当時の一般的な見方となっていたのですが、そこで育たれた主イエスがユダヤ人によって侮られて遂に十字架に架けられるという形で実現することになるのであります。
 
つまり、ヘロデに典型的に現れている人間のあらゆる罪と、それがもたらす激しい嘆きや苦しみが覆っている中に、神から遣わされたのが主イエスの誕生であり、その罪を背負って、苦しみを引き受けてくださることよって完成したのが、神さまの救いの御業であったのであります。

結.ヨセフと共に歩む

ヨセフは、今述べた大きな神さまの救いの御業の一端を担う者として選ばれ、主の天使の言葉を通して、神さまの御心が伝えられ、ヨセフはその従順な信仰をもって、それに従うことが出来たのであります。
 
新年に当って、この一見暗い物語を通して、私たちに示されているのは、神さまの大きな愛から発した救いの御業の一端であります。これは十字架と復活によって完成される御業の序曲であります。そこには、どす黒い人間の罪が覆っています。しかし、一方では、この御業に用いられた従順なヨセフの姿があります。私たちも、嘆きや苦しみの声が満ちているこの時代の只中にあって、年の初めに、聖書を通して、神さまの御言葉を聴かされております。私たちもまたヨセフと共に、この一年、御言葉に聴き続け、それに従順に従って行動する者とされて、救いの御業の一端を担わせていただきたいものであります。
 
祈りましょう。

祈  り

救い主イエス・キリストの父なる神様!
 
一年の初めの日に、御言葉によって、私たちの中にある罪を思わされると共に、あなたの御計画による罪からの救いの御業について聴くことを許されて感謝いたします。
 
どうか、この一年、御言葉を聴き続けることが出来ますように、そして、あなたの救いから漏れることがないようにして下さい。
 
どうか、あなたの救いの御業の一端を、私たちも担い得るものとならせて下さい。どうか、あなたの恵によってこの教会と関係を持つようになった全ての人々が、あなたとの結びつきを一層深める一年となりますように、あなたがお導きください。
 
この伝道所の今年の目標を「霊的な家に造り上げられる」としておりますが、どうか、聖霊の豊かな導きによって、一人一人が霊的に成長し、霊に満ちた教会に造り上げられますように、お願いします。
 
主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

米子伝道所 元旦礼拝説教<全原稿>   2012年1月1日  山本 清牧師 

 聖  書:マタイによる福音書2:13−23
 説教題:「罪の中の救い」
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