「見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。」この名は「神は我々と共におられる。」という意味である。                              (マタイによる福音書123 

 主の母マリアの婚約者ヨセフに天使が夢で現れて、マリアが聖霊によって身ごもったことを告げた。マタイ福音書はこの誕生の出来事を、標記のようにイザヤが預言したインマヌエル(=神は我々と共におられる)の実現であるとする。では、インマヌエルはどのように行われたのであろうか。
 
(1)二人の間に性的関係はなかったのに、マリアが身ごもったことで、ヨセフは苦悩を背負うことになった。律法に従ってマリアを姦淫罪で告発すれば、マリアは石打の刑に処せられる。婚約を解消すれば、相手を身ごもらせながら無責任な奴だと非難される。だが、マリアの命を守るにはこれしかないと決心した。ところが天使が示したのは、「恐れずマリアを迎え入れる」という第三の道であった。それは苦渋の決断を要する道であったが、御言葉に従った。このように、インマヌエルは苦悩のうちに始まったが、二人の関係は、それまでの人間の愛に基づくものではなく、御言葉によって結ばれた関係へと変えられた。私たちも、不条理な苦しみに遭わねばならないことがあるが、それは、神が私たちに出会って下さるインマヌエルの始まりでもある。
 (2)天使は「マリアの胎の子は聖霊によって宿った」と言う。人間の愛の結晶として生まれたのではなく、神の御計画によって聖霊の力が働いたということだ。だがそれは、抽象的・観念的なことではなく、マリアという一人の人間の腹に宿るという、具体的・肉体的なことでもある。神の御子は、このように人の苦しみや痛みを共有できる一人の人間として、人間の罪の歴史のただ中でインマヌエルとなられたのである。
 (3)天使は、「その子をイエス(〈ヤハウエは救い〉との意)と名づけなさい。この子は自分の民を罪から救うからである」と言った。御子イエスは、罪ある人間と同じところまで身を低めて下さっただけではなく、自ら人間の罪を背負うことによって、救いを実現して下さった。インマヌエルとは十字架の贖いの道なのである。その道は「世の終わりまで」(マタイ2820)続くと主御自身が約束されている。
 
ヨセフが御言葉に従って行動したことに、インマヌエルを信じた人の姿を見ることが出来る。それは、礼拝において御言葉によってインマヌエルを信じて行動する私たちの姿を指し示している。

米子伝道所 待降節主日礼拝説教<要 旨> 2011年12月18日  山本 清牧師 

 聖  書:マタイによる福音書1:18−250
 説教題:「神は我々と共に」
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