序.インマヌエルはどのようにして行われるか

待降節第四主日を迎えております。今日、カリキュラムによって与えられている箇所は、主イエスの母となるマリアと婚約していたヨセフに、夢で天使が現れて、マリアに聖霊によって男の子が宿ったことを告げた場面であります。ここは、ルカによる福音書に書かれている、マリアに天使が現れて聖霊によって身ごもったことを告げた箇所と共に、「処女降誕」という、キリスト教の重要な、しかし私たちを困惑させる教理の根拠となる場面であります。しかし、聖書が処女降誕の出来事によって告げたかったことは、処女であるのに妊娠したという出来事の不思議さではありません。ギリシャやエジプトの神話によくあるように、英雄や神の子とされる人間の誕生を美化するために、このような神話的な物語を持って来たのでもありません。それでは、聖書はここで何を告げたかったのでしょうか。
 この箇所のキーワードは、23節にあります「インマヌエル」という言葉です。それは「神は我々と共におられる」という意味だということが解説されています。昨年、大会応援伝道で青木先生をお招きして、この伝道所で「黙想ワークショップ」を行った時に、マタイによる福音書の一番最後の、弟子たちへの世界宣教命令の箇所を学んだのですが、そこでは主イエスが、「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」と言われていて、マタイ福音書が全体を通して言いたかったことは、「神が我々と共におられる=インマヌエル」ということだとうことを学びました。ですから、今日の箇所でも、福音書がここで一番言いたいことは「インマヌエル」ということなのです。
 
この箇所は3年前のクリスマス礼拝でも取り上げた箇所で、その時は、聖書の記述に従って、事柄を順に説明しながらお話ししました。また、一昨年の11月の松江地区の家庭集会でも、「イエスに出会った人々」の一人としてのヨセフに焦点を当ててこの箇所を取り上げたことがあります。そこで今日は、少し違ったアプローチの仕方で、ここに語られている大事なことを聴き取りたいと考えました。それは、キーワードである「インマヌエル=神が我々と共におられる」ということが、この場面に書かれている出来事によってどのように行われたのか、という視点で、見て行きたいということです。皆さんも、「インマヌエル」と言われることの実態がどこにあるのかということを問いつつ、今日の話しを聴いていただきたいと思います。

1.ひそかに縁を切ろうと――苦悩から始まるインマヌエル

まず、婚約者のマリアが聖霊によって身ごもったということを天使から聞かされたヨセフに対して、どんなインマヌエルがあったのか、という点を見てみたいと思います。

18節を見ると、母マリアはヨセフと婚約していたが、二人が一緒になる前に、聖霊によって身ごもっていることが明らかになった、と書かれていますし、24節にも念を押すように、男の子が生まれるまでマリアと関係することはなかった、と書かれていて、二人の間には婚前交渉と言われるような性的な関係はなかったのに、マリアが身ごもったということをヨセフは知るのであります。お腹が大きくなって来たので分かったということでしょうか。それで、ヨセフは大いに悩むのであります。自分はマリアと関係を持ったことがなかったので、他の誰かと交渉を持ったとしか考えられません。ヨセフにとって、「インマヌエル」の出来事は、困惑と苦悩から始まりました。処女降誕ということは、私たちにとっても困惑させられる出来事でありますが、当事者のヨセフが一番困惑した筈であります。
 
ヨセフはこの妊娠の事実を知って、どう対処すべきかに悩みました。19節にヨセフは正しい人であった、と書かれています。律法を重んずる人という意味です。当時の律法に従えば、婚約中に他の男と関係した者は姦淫の罪を犯したと見做されて、石打の刑に処せられるのであります。ですから、一つの対処の仕方とすれば、マリアを姦淫の罪を犯したものとして公けに告発することが考えられます。これは、自分に何の落度がないことをはっきりさせることになりますが、マリアの命を奪うことになります。マリアを愛していたヨセフには、それは出来ませんでした。第二の対処の方法は、マリアのことを表ざたにせず、ひそかに縁を切るという道です。「ひそかに」と言っても、婚約を解消するには証人の前で離縁状と手切れ金を渡すことによって成立することになっていましたから、秘密裏に婚約解消することは出来ません。世間からは、マリアの腹に子どもを宿らせながら無責任な奴だとの非難を受けなければなりません。しかし、愛するマリアの命を守るのは、これしかないと考えて、この道を選ぼうと決心したのであります。
 
ヨセフがこのように考えていると、主の天使が夢に現れて言いました。「ダビデの子ヨセフ、恐れず妻マリアを迎え入れなさい。」――天使の言葉はまだ続きますが、まず、ここまでのところで考えてみましょう。天使が指示したのは、元の予定どおり、マリアと結婚するという第三の対処の方法であります。天使に言われる前に、ヨセフもこの第三の道を考えてみたかもしれません。しかし、マリアが誰の子を宿しているのか分からないまま、正式の結婚をし、他人の子と一緒に生活を続けることは、ヨセフにとっては耐えられないことであったと思われます。二人の間に気まずい思いがずっと続くことになります。それよりは、自分がそしりを受けても、ここはひそかに離縁した方がマリアのためによい、と考えたのでしょう。これは苦悩の決断であります。人間としてマリアのために出来ることはこれしかない、と考えたのでしょう。しかし、それですべてが解決するわけではありません。マリアにやがて生まれてくる子を、彼女はどうして育てるのだろうかという心配があります。愛するマリアとの関係は断たれてしまいます。ヨセフが相手のことを思って愛をもって決断しても、心配が消えるわけではありません。そんな苦悩に追い込まれる中で、神様は天使を通してヨハネに出会われました。そして、二人が離れ離れになるのではなく、マリアを妻として迎え入れるようにお命じになりました。これがヨセフに対する「インマヌエル」の始まりであります。
 
神様が人と共にあるという「インマヌエル」の御業を始められる時、それは平穏のうちに行われるとは限らないということであります。神様の御業がなされるとき、人には苦悩が生じることがあるということです。その苦悩が極まるところでこそ、神様はその人に出会って下さり、その人と共にいて下さるのであります。私たちの人生においても、様々な苦悩や不安に追い込まれることがあります。神様はなぜ自分にこんな苦しみを与えられるのか、分からなくなってしまうことがあるかもしれません。今年、東日本や紀南地方で起こった災害にしてもそうであります。不条理としか思えない出来事であります。しかし、神様はそんな中でこそ、私たちに近くいて下さるのであります。そんな中でこそ、出会って下さるのであります。
 
神様は天使を通して、マリアを妻として迎えるように命じられました。これは、元々二人が希望していたことと同じように見えます。しかし、マリアが聖霊によって身ごもった前と後とでは全然違います。ヨセフとマリアの関係を、それまでの人間の愛に基づく関係ではなくて、神様の御言葉に結ばれる関係へと変えられるのであります。神様が介入されることによって二人を新しい関係に導かれたのであります。神様が二人と共にいて下さるインマヌエルの関係へと歩ませて下さったのであります。
 
私たちもまた、なぜこんな苦しみに遭わなければならないのかと思うような体験をする中でこそ、神様は私たちに出会って下さり、御言葉を与えて下さって、私たちと共に歩み始めて下さるのであります。そこで始まる新しい歩みは、私たち人間がその正しさと愛をもって考え出す最高の道であっても解決出来なかった苦悩を越えることの出来る、神様によって備えられる道、神様と共にある、インマヌエルの道であります。

2.聖霊によって宿った――人間の系図の中へ

ところで、天使は、「恐れず妻マリアを迎え入れなさい」と命じたのに続いて、「マリアの胎の子は聖霊によって宿ったのである」と言っております。ヨセフとマリアに始まったインマヌエルの道は、ただ神様が御言葉によってお命じになったことによってもたらされたのではなくて、既に、聖霊の働きがあったということであります。二人の間に男の子が生まれるのは、二人の愛の交わりによって、生理的な現象として起こるのではない、ということです。人間の愛の結晶として生まれるのではない、ということであります。そこに神様の御計画とお力が働いているということであります。
 
このとき、ヨセフが天使の言ったことをどれだけ理解出来たのか、果たして苦悩からすぐに解放されたのかどうか。そのことについて聖書は何も述べていませんが、24節を見ると、ヨセフは眠りから覚めると、主の天使が命じたとおり、妻を迎え入れ、と書かれています。ヨセフは神様の言葉に従って、マリアを受け入れるということが起こったのであります。ルカによる福音書1章を見ますと、天使ガブリエルはマリアにも遣わされて、「聖霊があなたに降り、いと高き方の力があなたを包む」と告げました。その言葉にマリアは戸惑いましたが、結局、「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように」と答えました。マリアもヨセフも神様の言葉を受け入れて従ったのであります。二人とも充分に納得出来たから受け入れたのではないでしょう。二人に聖霊が働いた、神様の力が働いたのであります。そこに、神様と共にある新しい二人の関係が成立したのであります。ここに、単に二人の愛によって結ばれたのではない、聖霊による「インマヌエル」の関係が創り出されたのであります。この関係は、たとえその後、また新しい困難が降りかかったとしても、また二人の間に何か行き違いが起こるようなことがあっても、決して崩れることにない関係であります。
 
「聖霊によって宿った」ということから聴くべきもう一つの「インマヌエル」についてもお話する必要があります。「聖霊によってみごもった」ということは、神の子キリストが人間の腹の中に人間として身ごもったということであります。ルカによる福音書のマリアへの御告げの中では、「生まれる子は聖なる者、神の子と呼ばれる」と言われていました。その神の子であるキリストが、人間イエスとして宿られたのであります。このマタイによる福音書の今日の記事の前には、イエス・キリストの系図が長々と書かれています。これはアブラハムに始まって、ダビデを経て、ヨセフの子として生まれた主イエスに至る系図であります。ここで聖書が言いたいことの一つは、神の子キリストは人間の系図の中に書かれるような、一人の人間としてお生まれになったと、いうことであります。その宿り方は聖霊によってであって、人間の生理的現象としてではなかったのですが、マリアという人間の腹の中に身ごもって、そこで育って誕生するという、普通の人間と同じ経過を経てこの世の人になられたのであります。ここに、「インマヌエル=神は我々と共におられる」ということが、抽象的・観念的なことではなくて、具体的・肉体的なこととして起こったということであります。それは、生まれて来られる主イエスが、人間の苦しみや痛みを感じないような超越的な存在ではないということ、苦しみ痛みを私たちと共有出来るお方として歩まれるということであります。また、この系図の中には、立派な人ばかりではなく、いかがわしい女性の名も含まれていますし、ダビデのような立派な王であっても、部下の妻を自分のものとするために、部下を戦場に送るというような罪深いことをしたことを私たちは旧約聖書で知っています。ですから、この系図は人間の罪の歴史を示していると言ってよいものです。そのことから言えることは、キリストはそのような罪深い人間の系図に繋がれることによって、人間の罪の歴史を御自身で引き受けて、それを担われて、「インマヌエル」となられたということであります。

3.イエスと名付けなさい――罪からの救いへの介入

次に、天使がヨセフに告げたことは、「その子をイエスと名付けなさい。この子は自分の民を罪から救うからである」ということでした。この「イエス」という名前はギリシャ語では「イエスース」ですが、旧約聖書のヘブライ語では「ヨシュア」であります。ヨシュアという名は旧約聖書にもよく登場する、イスラエルではよくある名前です。しかし、ここではその名前が大きな意味を持っています。この名前には「ヤハウェは救いである」という意味があります。「この子は自分の民を罪から救うからである」という説明は、この名前どおり、人々を罪から救うお方である、ということを言っているのであります。主イエスは単に、罪ある人間と同じところまで身を低くして下さったというだけではなくて、罪の中にある人間を救い出すために来られたのだ、ということが宣言されているのであります。罪とは、神様に背を向けること、神様との間に大きな溝が出来てしまうことです。神様の御心から離れて、勝手に生きることであります。神様なんか要らない、せいぜい困った時だけ手を合わせるけれども、本気で神様に委ねようとしないことであります。そんな私たちを救うために、神様の方から私たちの方に近づいて来て下さった、ということであります。罪深い私たちの方から神様との距離を縮めることは出来ません。だから神様の方から近づいて下さり、自ら人間の罪を背負って下さることによって救いを達成して下さるのであります。これが、「インマヌエル=神が我々と共におられる」ということの真髄であります。「共におられる」というのは、ただ仲良く一緒にいるとか、力が不足した時に応援するということではありません。罪から生じるあらゆる重荷(神の裁き)を代わって担って下さるということであります。またこれは、一時的にある期間だけ「共にいる」ということではありません。マタイ福音書の最後でも主イエス御自身が約束されたように、「世の終わりまで、いつも」共にいて下さるということであります。

4.インマヌエルと呼ばれる――十字架と世の終わりまで

さて、マタイによる福音書は、天使の御告げを記した後、22節で、このすべてのことが起こったのは、主が預言者を通して言われていたことが実現するためである、と言って、今日朗読していただいたイザヤ書の中の714節の言葉を引用しています。
 このイザヤが述べた預言の時代的背景について簡単に述べておきます。イザヤは南王国ユダにいた預言者ですが、今、北王国イスラエルの王が、隣国のアラム王と結託して攻め上って来るという知らせが伝えられて、ユダのアハズ王の心は動揺して揺れ動くのであります。それで、イザヤはアハズ王に、「静かにしていなさい。恐れることはない」と言うのですが、王は、こともあろうに大国アッシリアの助けを求めようとするのであります。そこでイザヤが預言したのが、「見よ、おとめが身ごもって、男の子を産み、その名をインマヌエルと呼ぶ」という言葉でありました。その意味は、<赤ん坊には何の力もなくて、敵が攻めて来た時に何の抵抗も出来ないように見えるが、神様に頼っているなら、助けていただけるように、あなたも神様を信頼しなさい、そうでなければ滅ぼされてしまいます>ということです。しかし、アハズ王はイザヤの言葉を信じなくて、アッシリアに助けを求めたために、結局、アッシリアの属国として、ずっと苦しめられることになるのであります。マタイ福音書はその際のイザヤの言葉をここに引用して、幼子イエス・キリストの誕生こそが、神様が共にいて下さることのしるしで、この方を信じる時に、アハズ王の時代には実現しなかったことが、今度は実現するのだ、と語っているのであります。そしてマタイはこの福音書全体を通して、イエス・キリストの御業によって救いが実現したことを語って行くのであります。イエス・キリストの御生涯の最後は、ある意味では、敵に対して何の抵抗も出来ない幼子のように、この世の力の前には何の抵抗も出来ず、十字架にお架かりになったのでありますが、それこそが、私たちを罪から贖い出す救いが実現する道であり、神様が我々罪人と共にいて下さる「インマヌエル」の道であったのであります。ですから、「インマヌエル」とは、まさに、主イエスの十字架の贖いを指し示す言葉だと言ってもよいのであります。そして、その十字架のインマヌエルの道は、先ほども触れましたように、「世の終わりまで続く」と、主イエスは約束して下さっているのであります。

結.天使が命じたとおり――礼拝におけるインマヌエル

最後に、24節以下にある、主の天使が命じたとおり、妻を迎え入れ、・・・その子をイエスと名付けた、という言葉を聴きたいと思います。ヨセフは天使が伝えた御言葉に従順に従って、マリアを受け入れ、イエスという名をつけました。また、このあと、2章の13節以下と19節以下には、天使が二度にわたって現れて、エジプトへ逃れるように指示し、帰国を促しましたが、その時にも、ヨセフは天使の言葉に従って行動いたしました。そこには、神様が共におられることを信じた人の姿を見ることが出来ます。この姿は、礼拝において御言葉を聴いて、それに従う私たちのあるべき姿を指し示しているのではないでしょうか。天使が語る言葉、礼拝において示される御言葉は、必ずしも私たちが単純に納得出来るものではないかもしれません。場合によっては周囲の人から誤解を受けるようなことであったり、大変勇気の要る決断を求められることかもしれません。しかし、聖霊によってマリアを身ごもらせて下さった神様は、ヨセフをも聖霊によって導かれて、神様の御心に従うことが出来ましたように、私たちにも聖霊の助けを送って下さって、御言葉に従うことが出来る者に変えて下さいます。神様は聖霊においても、私たちと共にいて下さるお方、「インマヌエル」であり給うお方であります。私たちも、そのインマヌエルであるお方の御言葉に従う者とされたいと思います。
 
お祈りいたします。

祈  り

インマヌエルなる主イエス・キリストの父なる神様!
 
今日も御言葉において、聖霊において、私たちと共にいて下さいまして、ありがとうございます。
 
私たちは、あなたが共にいて下さることを忘れて、不安になったり、身勝手な思いと歩みをしてしまいがちな者であります。どうか、あなたがいつも近くにいて下さることを覚えさせて下さい。そして、御言葉に信頼して従って行く者とならせて下さい。
 
今日、この待降節の礼拝に来ることが出来なかった方々も、来週のクリスマス礼拝にはこぞってここに集まることが出来て、あなたが私たちと共にいて下さるために、主イエス・キリストをこの世にお遣わし下さったことを、共に心から感謝し賛美することが出来るようにして下さい。
 
主イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。

米子伝道所 待降節主日礼拝説教<全原稿>   2011年12月18日  山本 清牧師 

 聖  書:マタイによる福音書1:18−25
 説教題:「神は我々と共に」
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