「あけぼのの光が我らを訪れ、暗闇と死の陰に座している者たちを照らし、我らの歩みを平和の道に導く。」(ルカによる福音書1:78,79

 ザカリアは、誕生した男の子の名を、天使が命じたとおり「ヨハネ」と表明したことで、利けなくなっていた口が開かれ、神を賛美し始めた。そこで語られた内容は、自分に男の子が与えられた喜びや感謝の言葉はなく、ヨハネの働きについても少し述べられているだけで、大部分はイスラエルの民に対する神の約束の成就と、ヨハネが証しすることになる主イエスの働きが述べられている。ザカリアは自分達の個人的な喜び以上に、神の大きな救いの御計画が進んでいることに気付かされて賛美しているのだ。
 
まず、「主はその民を訪れて解放し、我らのために救いの角を、僕ダビデの家から起こされた」と言う。「訪れ」という語を用いて、神は遥か遠くで遠隔操縦されるのではなく、私たちの中に降りて来て働かれることを表す。「解放」という語は〈身代金を払って釈放する〉、つまり御子の贖いによる罪からの解放を意味する。「救いの角」とはダビデの子孫に起こされる救い主のことを指す。また、「敵の手から救われ」とは、私たちを不信仰に陥れる敵=サタンの手から救い出すことである。こうして、神は私たちを「生涯、主の御前に清く正しく」あるものと見做して下さるのだ。
 
次に、ヨハネの役割について、「主に先立って行き、その道を整え、主の民に罪の赦しによる救いを知らせる」と言っている。主イエスが罪の贖いのために献げられる「神の小羊」であることを指し示すのが使命なのだ。
 
更に、神の憐れみによって、標記のことが行われると述べる。「憐れみ」とは、はらわたを突き動かされるという意味を持つ。神はそのような激しい愛をもって、御子を遣わされるのである。それは、罪が支配する暗闇の中に明るい「あけぼのの光」が差し込むようなことである。まだ、世の中の全体に光が届いているわけではない。しかし、既に新しい救いの光の時代が始まっているのだ。そこには平和(神との和解)の道が開かれている。
 
私たちは、ヨハネと同様、主イエスとは切り離すことの出来ない歩みを始めている。そして「小さなヨハネ」として、ヨハネと同じく主を証しする者として召し出されている。

米子伝道所 待降節主日礼拝説教<要 旨> 2011年12月11日  山本 清牧師 

 聖  書:ルカによる福音書1:67−80
 説教題:「あけぼのの光」
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