序.ほめたたえよ

待降節第三主日に当たる今日取り上げますのは、主イエスに先立って生まれた洗礼者ヨハネの誕生物語の3回目になります。ヨハネの父ザカリアは、祭司として神殿で香をたいているときに、天使ガブリエルが現れて、男の子を与えられると告げたのですが、妻エリサベトも年をとっていたので、天使の言葉を信じることが出来なかったために、口が利けなくされていたのですが、やがて、妻エリサベトは天使の言葉どおり身ごもって、やがて月が満ちて男の子を産みました。その子の名前をつける段になって、親類の人たちは伝統に従ってザカリアと名付けようと致しましたが、ザカリアはエリサベトと共に、天使が命じたようにヨハネとするように意思表示しました。その瞬間に口が開き、舌がほどけて、神様を賛美し始めました。その内容が、今日の箇所の「ザカリアの預言」という小見出しがつけられている部分です。
 
ここは、確かに聖霊に満たされて語った預言ではありますが、68節のはじめに「ほめたたえよ」とあるように、神様への賛美に満ちた内容になっています。普通は「マリアの賛歌」と共に、「ザカリアの賛歌」と呼ばれています。なぜ、ザカリアが賛美へと導かれたと言えば、もちろん、年老いた夫婦に跡取りとなる待望の男の子が与えられたという、神様の大いなる慈しみがあったからでありますが、その内容を見ますと、自分たちに男の子が与えられた喜びや感謝の言葉は一切ありませんし、生まれたヨハネの働きについて述べられているのも、7677節だけで、大部分はイスラエルの民に対する神様の恵みや、ヨハネが証しすることになる主イエスの働きについて述べられているのであります。ザカリアはヨハネが生まれたことによって、自分だけの喜び以上に、神様のもっと大きな御計画と恵みがあることに気付かされたのであります。私たちもまた、今日の箇所から、その大きな恵みについて教えられて、「ほめたたえよ」と呼びかけられているように、ザカリアと共に神様をほめたたえることへと導かれたいと思います。

1.契約を覚えていて

さて、このザカリア賛歌は前半の68節から75節までと後半の76節以下に分けられます。前半は、初めに、「イスラエルの神」という言葉があり、中には、ダビデとかアブラハムというイスラエルの歴史に登場する人物の名が出て来ていて、ヨハネの誕生や主イエスの誕生が個人的な喜びや一時代的な事柄ではなくて、イスラエルの長い歴史に関わる出来事であることを示しています。そして、70節には、昔から聖なる預言者たちの口を通して語られたとおりに、とあり、72節には、主は我らの先祖を憐れみ、その聖なる契約を覚えていてくださる、と語られ、73節では、これは我らの父アブラハムに立てられた誓い、と述べられていますように、二人の誕生がイスラエルの歴史の中で(即ち、旧約聖書の中で)神様が約束され、長らく待ち望んでいたことの成就であるということを、喜びをもって賛美しているのであります。
 
そして、成就する内容としては、まず、68節の後半から69節にかけて、主はその民を訪れて解放し、我らのために救いの角を、僕ダビデの家から起こされた、と言われています。ここで注目したいのは、「主はその民を訪れて」という表現と「救いの角」という言葉です。「訪れ」という言葉は78節の終わりにもありますが、二人の誕生のことを主なる神様の訪れであると言っているのであります。この「訪れ」という言葉は、口語訳聖書では「顧み」となっておりましたし、「心にかける」という意味もありますが、この共同訳では、積極的な行動を表す「訪れ」という訳になったことは大変よかったと思います。神様は遠くからイスラエルの民を心にかけたり顧みておられるだけでなくて、民の中に降りて来られたのに等しい出来事だということです。私たちは神様のことを、はるか遠くから遠隔操縦しておられるように思ってしまい勝ちでありますが、そうではなくて、私たちを訪れて働きかけて下さるお方なのであります。67節でザカリアが「聖霊に満たされ」とあるのも、神の力が実際に働いたということであります。
 
次に、「救いの角」という言葉ですが、「角」というのは旧約聖書では力と支配の象徴で、例えば詩編183節では「主はわたしの救いの角」というように歌われていて、ここでは、イスラエルの民を解放し、救い出すためにダビデの子孫に起こされる救い主のことを指しています。イエス・キリストはこの「救いの角」として遣わされるということであって、それは神様御自身がイスラエルの民を訪れられると言ってよい出来事だ、と言うわけです。
 
では、その「救い」の中味とは何かということですが、68節に「主はその民を訪れて解放し」とあります。ここで「解放し」と訳されている言葉は、〈身代金を払って釈放する〉、〈贖う〉という意味の言葉です。つまり、罪の奴隷になっている者を、救い主が犠牲を払って罪から解放する、という意味です。また、71節には、「それは、我らの敵、すべて我らを憎む者の手から救い」とあり、74節にも、「敵の手から救われ、恐れなく主に仕える」とあります。ここで「敵」とか「憎む者」と言われているのは何でしょうか。これは、私たちを憎んでいる人間とか、私たちと敵対している人間のことではありません。私たちを不信仰や迷信に陥れ、真の神を礼拝することから遠ざけ、罪を犯させる悪魔(サタン)のことであります。主は救い主を遣わすという形で私たちを訪れて下さって、救い主の犠牲によって、その悪魔を滅ぼして下さるのであります。それが、救いということの中味であり、アブラハムやダビデと契約されていた「聖なる契約」の成就ということであります。ここで直接的に言われているのは、アブラハムやモーセやダビデと結ばれた古い契約のことですが、私たちはイエス・キリストの救いの御業によって新しい契約へと招かれました。主イエスを信じることによって救われるという新しい契約です。 私たちはこの契約によって、75節にあるように、「生涯、主の御前に清く正しく」あるものと見做していただけることになったのであります。これが、私たちにとっての「救い」ということであります。

2.罪の赦しの救いを知らせる

次に、後半の初めの7677節を見ましょう。ここは初めにも申しましたように、唯一、洗礼者ヨハネの役割について述べられている箇所であります。
 
まず、「幼子よ、お前はいと高き方の預言者と呼ばれる」と言われています。ヨハネの役割は「いと高き方の預言者」即ち、神様の言葉を伝える者となる、ということであります。預言者にとって重要なことは、神の言葉、神様の御心を伝えるということであって、自分自身の言葉や考えを述べることではありません。ですから、私たちがヨハネから聞かなければならないことは、神様の言葉、神様の御心であります。
 
旧約聖書には多くの預言者が立てられて、神の言葉を取次ぎました。預言者はその時代の状況の中で、神様の御心を伝えましたが、その行き着くところは来るべき救い主を指し示すことでありました。ヨハネは救い主の到来を告げた最後の預言者でありました。主イエスは後に、このヨハネについて、こう言っておられます。「(彼は)預言者以上の者である。『見よ、わたしはあなたより先に使者を遣わし、あなたの前に道を準備させよう』と書いてあるのは、この人のことだ。言っておくが、およそ女から生まれた者のうち、ヨハネより偉大な者はいない」(ルカ72628)。ここで主イエスがヨハネのことを「預言者以上の者である」と言われたのは、旧約の預言者であるイザヤやエレミヤよりも偉大であったというよりも、主イエスに一番近くにいて、主イエスを直接指し示す役割をしたということでしょう。
 
そのことが、ここでも76節後半から77節にかけて言われています。「主に先立って行き、その道を整え、主の民に罪の赦しによる救いを知らせるからである。」――実際、ヨハネによる福音書によれば、洗礼者ヨハネは自分の弟子たちに、直接、主イエスを指し示して、「見よ、神の小羊」と言いました。「神の小羊」とは、罪の贖いのために献げられる小羊のことであります。主イエスが十字架で罪の贖いとなって下さることを指し示したのであります。そういう役割をすることが、ここでザカリアによって預言されているのであります。

3.あけぼのの光が訪れ

次に、7879節ですが、ここもヨハネの役割を述べていると見ることも出来ますが、むしろ、ヨハネが指し示した救い主イエス・キリストのことを語っていると見た方がよく分かります。
 
まず、「これは 我らの神の憐れみの心による。この憐れみによって我らの神の憐れみの心による。この憐れみによって」とありまして、「憐れみ」という言葉が2回出て来ます。72節にもありました。この言葉は、「はらわた」という言葉から来ていて、はらわたが痛むほどの深い愛を表す言葉だと言われます。あの「善いサマリア人」の譬えの中で、追いはぎに襲われた人を見て憐れに思い、と言われている箇所や、ナインの町の門で一人息子が死んだやもめの母親を見て、主が憐れに思われた箇所に用いられている言葉であります。単に可哀相だと思う以上に、次の行動が伴うような、激しく突き動かされる痛みを表す言葉なのです。
 では、神様はイスラエルの民のどういう状態を見て、そのような激しい憐れみの心を持たれたのでしょうか。また、私たちのどういう状態を見て、はらわたが痛むような突き動かされる思いを持たれるのでしょうか。79節には、「暗闇と死の陰に座している者たち」とあります。これは特別な苦しみや不幸を負っている人たちのことを言っているのではありません。特別に困難な時代や状況の中に置かれた人たちのことを言っているのでもありません。これは罪の中にいるイスラエルの民や私たちのことが言われているのであります。このままでは永遠の死に至るしかない罪の状態、悪魔の手にかかっている悲惨な状態を御覧になって、はらわたが痛むような、突き動かされる思いを抱かれるということであります。
 
そこで、ザカリアは782行目から79節にかけて言います。「この憐れみによって、高い所からあけぼのの光が我らを訪れ、暗闇と死の陰に座している者たちを照らし、我らの歩みを平和の道に導く。」――神様は「暗闇と死の陰に座している者たち」を放って置かれません。「高い所からあけぼのの光」をもって照らされるのであります。これは、天の上の高いところからサーチライトのようなもので光を送る、というイメージで捉えては、恐らく間違いでしょう。先ほども触れましたように、「我らを訪れ」られるのであります。天にじっと座っておられるのではなくて、地の暗闇に座している私たちの所に降って来られるのであります。ここで「あけぼのの光」とは、洗礼者ヨハネのことを表現しようとしたのか、神の独り子、イエス・キリストのことか、必ずしも明確ではありません。
 「あけぼのの光」と訳されております。口語訳聖書では「日の光」と訳されていたのですが、元の言葉は〈上昇する光〉、〈日の出〉を表す言葉です。ですから、真上からじりじりと照りつけるような光ではなくて、まだ暗闇が覆っているところへ、さーっと射し込んで来る日の出の光であります。そういう意味では、上から降り注ぐ日の光であるイエス・キリストの先駆けとなるヨハネの役割を思い浮かべることが出来ます。しかし、「暗闇と死の陰に座している者たちを照らす」という表現はイザヤ書91節などにある言葉で、マタイによる福音書4章16節にも引用されていて、救い主メシアの働きを表しています。いずれにしろ、ここで私たちが聴き取るべきことは、罪が支配する暗黒の中に、救いの光が差し込んだということであります。新しい光の時代が始まった、ということであります。もはや、悪魔が支配する時代ではなくなって、救い主イエス・キリストがご支配なさる時代が始まったということであります。しかし、「あけぼのの光」は、まだ世の中の全体、すべての人々に届いているわけではありません。まだ暗い部分が大きく残っています。けれども、「あけぼのの光」を見た者は、ヨハネと共に光を証しする者とされるのであります。
 79節の終わりは、「我らの歩みを平和の満ちに導く」という言葉で締めくくられています。ここでいう「平和」とは、ただ争いがないとか、戦争がなくなるということではありません。神と私たちとの間の平和であります。神様との和解が成立するということ、即ち、罪が赦されて御前に立つことが出来るようになる、ということであります。それは、主イエス・キリストによってこそもたらされる平和のことであります。私たちは、この待降節と降誕節に、このような平和をもたらす恵みの光が注がれていることを感謝する者とされたいと思います。

結.小さなヨハネとして

最後に、80節を見ますと、幼子は身も心も健やかに育ち、イスラエルの人々の前に現れるまで荒れ野にいた、と記されています。ザカリア賛歌は、ヨハネの誕生を喜んで語り始められたものでしたが、その殆どはヨハネのことよりも、救い主イエス・キリストのことを証ししたものと言える内容でありました。しかし、聖書はここで、再びヨハネに注目しています。ここで私たちもまた、自分自身の姿をヨハネに重ね合わせながら、私たち自身のことに立ち帰る必要があります。しかし、それはもはや、イエス・キリストと切り離された自分に帰ることではありません。80節は、主イエスの幼少時代のことを記した240節の「幼子はたくましく育ち、知恵に満ち、神の恵みに包まれていた」という箇所や、252節の「イエスは知恵が増し、背丈も伸び、神と人とに愛された」という箇所と対をなしています。つまり、ヨハネの生涯は、幼い時から主イエスと切っても切れない関係にあったということを、改めて示しているのであります。私たちも既に、イエス・キリストと切り離すことの出来ない歩みを始めているのであります。イエス・キリストの光の中を歩み始めているのです。そして、ヨハネと同じく、救い主イエス・キリストを証しする者として、ヨハネの働きと同じ働きをする者として召し出されているのであります。私たちは一人一人が、いわば<小さなヨハネ>として、「罪の赦しによるまことの救いを告げ知らせるという、光栄ある役割を与えられていることを、この待降節に、改めて感謝もって受け止めたいと思います。
 
祈りましょう。

祈  り

救い主イエス・キリストの父なる神様!
 
ザカリアの預言を通して、あなたがイスラエルの民に約束された救いの御業が、イエス・キリストによって成就したことを覚えることが出来て、感謝いたします。
 
私たちはこの希望に満ちた光を受けておりますが、なお死の陰が覆っている暗闇に立ち止まったり、そちらに帰りそうになる罪深い者であることをも覚えざるを得ません。
 
どうか、あけぼのの光に照らし出されて、主の救いの中を歩む者とならせて下さい。そしてどうか、ヨハネと共に、主の光を証しする者とならせて下さい。
 
主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

米子伝道所 待降節主日礼拝説教<全原稿>   2011年12月11日  山本 清牧師 

 聖  書:ルカによる福音書1:67−80
 説教題:「あけぼのの光」
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