序.待降節に起こること

先週からアドベント(待降節)に入っておりますが、待降節の主日礼拝では、3回にわたってルカによる福音書に書かれている洗礼者ヨハネの誕生物語を取り上げることになっています。この洗礼者ヨハネは待降節の代表的な人物ですが、実際にヨハネが活躍するのは主イエスの誕生後のことになりますから、主イエスの誕生前に登場するのは、ヨハネの両親である、ザカリアとエリサベトであります。母親のエリサベトについては、実は先日の松江地区家庭集会で取り上げました。父親のザカリアについては、先週の主日礼拝で、天使からヨハネ誕生の予告があった箇所(1章5〜25節)を取り上げました。
 ところで、待降節の物語が聖書に記されているのは、そこで起こっていることが降誕節に起こる出来事と深く結びついているからであるし、そこに登場する人物が降誕節にお生まれになる救い主イエス・キリストと切っても切れない関係にあるからであります。待降節の物語は降誕節が続いてやって来るのでなければ、全く意味のないことであります。そういう意味では、待降節は主イエスの降誕節(クリスマス)の物語の一部であると言っても良いのであります。
 
待降節に登場する人物は、その時点では当然ながら主イエスにはまだお会いしていません。マリアやヨセフやザマリアやエリサベトは天使の言葉によって、やがて生まれてくる救い主イエスと結び付けられているだけですし、東方からやって来る学者たちは夜空に一際輝く星によって主イエスと結びついているだけです。そのことは、私たちと主イエス・キリストとの関係を暗示しています。私たちはまだ主イエスと顔と顔を合わせることが出来ません。主イエスにお会い出来るのは、主イエスがもう一度来られる再臨の日です。それまでは、私たちは聖書の証言によって、主イエスの御業や御言葉に触れることが出来るだけです。しかし、待降節の人物に起こっていることは、彼らが、まだ見ない救い主イエス・キリストと深い結びつきがあったように、私たちが待降節にこうして礼拝に連なり、聖書を通して待降節の御言葉を聞いていることは、既に来るべき主イエス・キリストとの深いつながりに組み入れられているということであります。
 
今日は先週に続いて、洗礼者ヨハネの誕生を巡って、父親のザカリアに起こったことを中心に取り上げますが、そこで起こっていることはまた、私たちにも起こることを暗示しています。今日は、ザカリアに何が起こっているのかを見ることを通して、主イエスとの出会いを待っている私たちに何が起こるのかを聞いて参りたいと思います。

1.なぜ、口が利けなくなったか

まず、先週の箇所の出来事を簡単に振返っておきます。祭司であるザカリアとエリサベトの間には子供がなく、既に年老いていて、諦めかけていたのですが、ある日、ザカリアが聖所に入って香をたいていると、天使ガブリエルが現れて、エリサベトが男の子を産むと告げました。更に、(1:1417にあることですが)生まれてくる子がどのような役割を担っているのかも、天使から聞かされました。それは、イスラエルの民を主のもとに立ち帰らせて、やがて来られる主のために準備のできた民を用意するということでありました。しかし、天使の言ったことに対して、「何によって、わたしはそれを知ることができるのでしょうか」と疑問を呈すると、天使は「あなたは口が利けなくなり、この事の起こる日まで話すことができなくなる」と裁きのことばを告げました。やがて妻エリサベトは、天使が言った通り身ごもるのですが、ザカリアは口が利けないままでありました。
 
ザカリアはなぜ口が利けなくされたのか。その理由を確認しておきましょう。天使は20節の終わりで言っております。「時が来れば実現するわたしの言葉を信じなかったからである。」天使の言葉は神様の言葉であります。天使は、二人が長く祈り求めていたことが実現するという福音を伝えました。しかし、その神様の御心を信じられないなら、そのことを語る口が塞がれるということです。これは厳然たる事実です。私たちも礼拝において、神様の御言葉を聞かされます。それは、厳しい裁きの言葉を含んでいることもありますが、全体を包んでいるのは、喜ばしい救いの恵みを告げる福音であります。しかし、その言葉を本当のこと、必ず実現することと受け止められないならば、そのことを人に語り伝える口は塞がれます。たとえ、お喋りをする口は開かれていても、福音を伝えることは出来ません。
 
では、なぜザカリアは天使の言葉を信じることが出来なかったのか。ザカリアは18節でこう言っております。「わたしは老人ですし、妻も年をとっています。」――せっかくの神様の喜ばしい知らせを、自分の理性や経験の範囲内で受け止めてしまって、無より有を創り出す神様のお力を認めなかったからであります。ザカリアは6節によれば、「主の掟と定めをすべて守り、非のうちどころがない人物でした。しかし、神様のお力を信じるということにおいては限界があったのであります。
 
しかし、このようなザカリアのことを私たちは軽蔑したり、裁いたりすることは出来ません。むしろ、私たちもこのようなザカリアと同じではないかと思わされるのであります。私たちも神様の御言葉を自分の理性や経験で受け止めて、素直に信じることが出来ないことが多いのであります。そんな私たちが御言葉を人に伝えることは許されません。福音を語る口は封じられなければなりません。それと同時に、疑いやつぶやきの言葉を語ることも、控えなければならないでしょう。

2.口の利けない10ヶ月

けれども、口が封じられるということは、神様の単なる裁きではありません。神様は無駄に沈黙の時をお与えになるのではありません。
 
ザカリアは口が利けなくなった10ヶ月の間をどのような思いで過ごしたのでしょうか。聖書はその間のザカリアの気持ちや考えたことについては何も述べておりませんが、想像することは許されるのではないでしょうか。おそらく最初のうちは、信じられない思いと期待が交錯したのではないでしょうか。口が利けなくなったということを厳粛に受け止めて、そのことを通して神様は何を教えようとされているのか、悩んだかもしれません。ひどい仕打ちに不平を抱いたかもしれません。しかし、間もなく、エリサベトが身ごもったことが分かります。先週も申しましたように、人間が不信仰に陥っている間にも、神様の御計画は滞ることなく進められます。そしてザカリアは、自分が疑ったことが間違いであったことに気付かされます。それと同時に、子供がない自分たち夫婦の願いを神様がちゃんと受け止めていて下さったことを知らされます。そこに神様の大きな憐れみがあったことを覚えたことでしょう。若い時に順調に子供を与えられたのとは違って、神様の恵みをより深く思うことが出来たのではないでしょうか。そして、試練の時を通じて、もう一度、新しい人間として生れ変わる備えが出来たのではないでしょうか。以前の、ただ掟を守るだけの、非のうちどころないだけの生き方ではなくて、確かな信仰に導かれて、喜びをもって生きることが出来る者へと変えられて、今度は神様の福音を人々に語るための備えをさせられたのであります。
 
私たちもまた、聖書に書かれていることや、神様の救いの御計画ということが信じられなくなることがあるかもしれません。特に、不幸を背負ったり、困難な状況に追い込まれた中で、神様を呪いたくなる思いで満たされることがあるかもしれません。私たちの口から神様を褒め称える言葉が失われてしまうことがあるかもしれません。しかし、エリサベトが身ごもったように、神様の救いの御計画は滞ることなく進んで行くのであります。まだ約束のものは与えられていません。問題の解決には至っていないかもしれません。エリサベトが身ごもったようには、はっきりと希望が見えていないかもしれません。しかし、その沈黙の時は無駄な期間ではないのです。試練の時は、やがて恵みを語ることが出来るようになるための備えの時なのであります。

3.「この子の名はヨハネ」

さて、本日の箇所に入りますが、10ヶ月が満ちて、エリサベトは天使の言ったとおり、男の子を産みました。二人は大いに喜んで、御言葉の確かさを改めて噛み締めたことだろうと思います。喜んだのは二人だけではありませんでした。58節を見ると、近所の人々や親類は、主がエリサベトを大いに慈しまれたと聞いて喜び合った、と書かれています。不妊の女であったエリサベトが子供を与えられたことは、夫婦にとってのみならず周囲の人にとっても神様の慈しみを知らされる出来事であり、共に喜ぶ合うことが出来ました。中には羨む人がいたりしたかもしれませんが、普通は一緒に喜べる出来事であります。
 しかし、その後を読んでいくと、ザカリア、エリサベト夫妻と周囲の人たちとの間に、このことの受け止めかたが微妙に違うことが明らかになって来るのであります。ユダヤ教の定めでは、男の子が生まれた時には、八日目に割礼を施すとともに、名前をつけることになっていました。人々は父の名を取ってザカリアと名付けようとしました。ユダヤでは、親族の中にある名前が選ばれるのが普通だったようですし、特に祭司職は世襲でしたから、待望の子供が生まれたわけで、父の名を継ぐということは、その喜びを表すという意味でも、適切な名前であると考えても決して不思議ではありません。それに、「ザカリア」という名前の意味は「神は覚え給う」ということですから、正に状況にぴったりの良い名前でありました。
 ところが、母親のエリサベトは、きっぱりと「いいえ、名はヨハネとしなければなりません」と言いました。恐らくエリサベトは筆談で、ザカリアが天使から命じられた名前のことを聞いていたのでしょう。これは「主は恵み深い」という意味を持った名で、ユダヤでは珍しい名前ではありませんでしたが、ザカリアの家系にはなかった名前でありました。ですから、人々は「あなたの親類には、そういう名の付いた人はだれもいません」と言いました。祭司の家柄に相応しくない、というわけです。しかし、エリサベトがあまりにもはっきりと断言するものですから、父親のザカリアの考えを聞こうと、手振りで「この子に何と名付けたいか」と尋ねました。すると父親は字を書く板を出させて、「この子の名はヨハネ」と書きました。人々はザカリアまでもが伝統に反するこの名を付けるというので驚きました。
 
周囲の人々は名前のことを、あくまでも伝統の中で考えています。しかし、エリサベトとザカリアは天使が命じた新しい名前を付けるべきだと考えています。周囲の人々も男の子の誕生を喜んでいます。しかもそれを神様の大いなる慈しみだと受け止めているのです。いわば信仰的に受け止めているのです。しかし、この男の子の誕生が、これまでの祭司の子供の誕生とは全く違う意味があるのだということを知りません。ですから、不妊の女と言われたエリサベトに跡継ぎの子供が出来たので、祭司の家系が途絶えなくて良かったというだけの喜びの出来事として受け止めています。だから、名前は伝統に従ったザカリアが相応しいと考えるのです。当然のことです。
 
しかし、ザカリアとエリサベトは天使が語ったことを聞きました。生まれてくる子供が果たす役割について聞きました。それは単に祭司の跡取りが出来るということではありませんでした。「イスラエルの多くの子らをその神である主のもとに立ち帰らせる。彼はエリヤの霊と力で主に先立って行き、父の心を子に向けさせ、逆らう者に正しい人の分別を持たせて、準備のできた民を主のために用意する」(11617)という役目を与えられた子供が生まれるということでした。ここには「救い主」とか「メシア」という言葉は見られませんし、救い主の到来ということが明確に語られているわけではありませんが、従来の祭司の役割とは異なる、新しい時代の到来に仕える役割が与えられるということが告げられています。だから、伝統的な名前では相応しくないのです。新しい救いの時代に相応しい新しい名前でなければならなかったのであります。
 
伝統や習慣から外れるということは勇気の要ることです。周囲の人々の考えに合わせておく方が、抵抗がなくて楽であります。しかし、神様の新しい計画を聞いた者は、御言葉に従って、伝統や習慣から離れなければなりません。新しい世界に身を移さなければ、神様の祝福を受けることが出来ません。エリサベトは勇気をもって、「いいえ、名はヨハネにしなければなりません」と明言しましたし、ザカリアも、今では、天使の言ったことに対する疑問や不信は消えて、御言葉によって命じられたことに素直に従っているのであります。ザカリアがここでしたことは、極く単純なことです。ザカリアは、かつては天使の言葉を受け入れることが出来ませんでした。しかし、エリサベトが身ごもって、男の子を産んだという現実を見ました。そこに天使の語ったことが、言葉通りに実現したことを見ました。そのことによって、新しい世界が既に始まっているという確信を持つことが出来ました。ですから、ザカリアが天使の言葉に従ったのは当然であります。特別に賞賛するようなことではありません。この単純なことが御言葉に服従するということです。難しいことではありません。
 
私たちもまた、聖書を通して、新しい救いの時代が既に始まっていることを聞いています。しかし、そのことを知らない人たちは、古い世界、伝統的な習慣、これまでの社会から抜け出すことが出来ません。私たちも、古い世界に慣れ親しんでいて、そこに留まっている方が楽に思えて、なかなか抜け出せないことがあります。しかし、主イエスが来られたことによって、既に新しい救いの時代は始まっています。神の国がこの地上に始められたのです。ですから、私たちの生き方も、勇気を奮って、御言葉に従って、新しい時代に相応しく変えられなければなりません。名前を変えるということは、表面的なことと受け取られるかもしれませんが、ユダヤ人にとって名前はその人の人格そのものであります。私たちが信仰を持つということ、新しい救いの時代に相応しく生きるということも、決して表面的なことではありません。私たちの生きる根拠が変わること、人格の立ち位置が変わるということ、何を中心にして生きるかが変わるということです。それは、ある意味では大変勇気の要ることです。しかし、そこを御言葉に従って変えなければ、救いの世界に入ることが出来ませんし、本当の喜びを共にすることが出来ません。伝統を捨てて新しい時代に相応しい生き方に変えることは、古い世界しか知らない人には確かに勇気が要る困難なことですが、神の言葉が実際に実現していることを知らされ、新しい救いの世界が始まったことを見た者には、御言葉に従うことは極く当たり前のこと、自然なことになります。聖書が私たちに示していることは、ザカリアが見たと同じように、イエス・キリストによって既に新しい救いの世界が始まっているという現実であります。私たちはその現実を受け入れるだけでよいのであります。

4.口が開き、舌がほどけ――言葉の回復

ところで、ザカリアは、天使の命令に従って「この子の名はヨハネ」と書いた途端、たちまちザカリアは口が開き、舌がほどけ、神を賛美し始めました。ここには、神様の言葉に従うと何が起こるのか、ということが書かれています。ザカリアが天使の言葉を信じられなかった時には口は閉ざされてしまいましたが、今や、天使の言葉どおりのことが現実となっているのを見て、不信仰が取り除かれ、天使の言葉に従うと、口が開かれて、神を賛美する者に変えられたのであります。このことは私たちが語る言葉について大切なことを象徴的に示しています。人は多くのことを語ります。しかし、神様の言葉を信じていなければ、実は何も語っていないのと同じことになってしまうということを示しています。お喋りをしていても、心に通じ合う言葉が語れないということであります。神様を賛美する言葉を語ることが出来ないからであります。かつて、人間の建設技術が進んで、バベルの塔を建て上げたとき、神様は言葉を混乱させ、言葉を通じなくされました。それは人間が神様なしでもやっていけると考え始めるという、不信仰に陥ったからであります。そのとき、言葉を失わされるのであります。しかし、主イエスが十字架と復活の後、天に昇られ、弟子たちに聖霊が降ったとき、弟子たちは言語の異なる人々にも通じる言葉を語ることが出来るようになりました。ペンテコステの出来事です。信仰が回復されるとき、口が開き、真実の言葉が回復するのであります。そこで語られる言葉とは、神を賛美する言葉であります。ザカリアがこの時語った言葉は67節以下にあって、ここは来週の礼拝で取り上げますが、冒頭の68節に「ほめたたえよ」ありますように、これ全体が神様を賛美する言葉であります。
 
私たちもまた、救いの出来事が現実となって進んでいることに気付かされて、神様の言葉に従うことが出来るなら、神様を賛美する口が開かれます。それは、たとえとつとつとした言葉であっても、たとえ流暢に喋れない祈りであっても、たとえ音楽的には下手な讃美歌であっても、神様に通じる賛美となる筈であります。
 
しかし一方、65節を見ると、近所の人々は皆恐れを感じた、と書かれています。58節には、「近所の人々や親類は、主がエリサベトを大いに慈しまれたと聞いて喜び合った」と書かれていました。ところが、ザカリアの口が開かれて、神を賛美し始めたことで、恐れを感じたのであります。これは、ヨハネの生涯とその痛ましい最後を暗示していますが、神様の言葉を信じて、神様への賛美が語られている所では、神様の言葉を聞いていない人には恐れが生じるのであります。それは私たちの周りでも起こることであります。66節には、聞いた人々は皆これを心に留め、「いったい、この子はどんな人になるのだろうか」と言った、とあります。人々は救いの出来事が始まっていることにはまだ気付いていません。しかし、何か大きな出来事がヨハネの誕生と共に起こりつつあることを予感しているのであります。
 
私たちの賛美の言葉の行く末がどうなるか、それは私たちには分かりません。もしかすると、ヨハネが出会うことになったような悲劇が待ち受けているのかもしれません。しかし、ヨハネはその悲劇も含めて、主イエス・キリストを証しする生涯を歩むことになりました。私たちも、御言葉に従って、賛美を語るとき、その言葉によって主を証しする者とされるのであります。それは誠に光栄なことであります。

結.私たちの言葉の回復へ

私たちの主の日ごとの礼拝で起っていること、そしてこのアドベントの礼拝で起こっていることは、ザカリアに起こったことと、基本的には同じことであります。私たちもザカリアと同じように不信仰であります。神様の御言葉を自分たちの理性や経験の範囲内で判断して、素直に受け止めることが出来ません。周囲の人々がエリサベトに男の子が生まれたことを喜ぶことが出来ても、ザカリアの賛美には恐れを感じてしまったように、何が起こりつつあるのかを、私たちの理解力では知ることが出来ません。しかし、ザカリアが口を利かなくされている間にも、天使の言ったことは現実となって行き、神様の救いの御計画は滞りなく進んで行きました。そしてその現実を知らされた時、ザカリアも神様の言葉に従うことが出来ました。そして、主を賛美する口が開かれました。
 
そのように、この時代の中にあっても、この米子の地域にあっても、神様の救いの御業は滞りなく進められています。そのことに私たちが気付くのは、聖霊の導きを待たなければならないでしょう。しかし、マリアもエリサベトも、そしてザカリアも聖霊に満たされて信じることへと導かれ、主を賛美する言葉を語ることが出来るようにされたように、礼拝において御言葉を聴いている私たちの口をも開いて、賛美の言葉を語れるようにして下さるに違いありません。
 
お祈りいたします。

祈  り

慈しみ深い父なる神様!
 
ザカリアとエリサベト夫妻に主を証しする使命を受けたヨハネが誕生しましたように、私たちの周囲においても、あなたの救いの御業が進みつつあることを覚えさせ、信じさせてください。
 
そしてどうか、不信仰な私たちも、御言葉に聴き従うことによって、主を証しする者、主を賛美する者とならせて下さい。
 
どうか、この待降節と降誕節の時を通じて、あなたが備えて下さった多くの方々が、救いの御業が行なわれつつあることを知る者とされ、来るべき再臨の日、神の国の完成の日に、主イエスと顔と顔を合わせて出会うことに向けて、御言葉を信じて備える者とされますように、お導き下さい。
 
主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

米子伝道所 待降節主日礼拝説教<全原稿>   2011年12月4日  山本 清牧師 

 聖  書:ルカによる福音書1:57−66
 説教題:「言葉の回復」
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