序.ヨハネ――私たちの原型

教会の暦では、今日からアドベント(待降節)に入りました。主日礼拝では、日曜学校のカリキュラムに沿って、今日から3回にわたって、ルカによる福音書1章に書かれている洗礼者ヨハネの誕生の物語を取り上げることにしています。
 
ルカによる福音書は、主イエス・キリストの誕生の物語を記す前に(併行して)、その物語と切り離すことが出来ないこととして洗礼者ヨハネの誕生の物語を記しています。ヨハネによる福音書も、冒頭で「言の受肉」のこと、即ちキリストがこの世に来られたことを書くのですが、その前に、光であるキリストを証しするためにヨハネが遣わされたことを書くのであります。マタイとマルコ福音書はヨハネの誕生物語は書いておりませんが、彼が悔い改めを宣べ伝えて、主の道を整えたことを、主イエスの活動のことを記す前に書いているのであります。
 
どうして4つの福音書がそろって、洗礼者ヨハネのことを書かなければならなかったのでしょうか。福音書は主イエスのことを書くのが目的ですから、脇役のようなヨハネのことを必ずしも書かなくてもよかったのではないか。ヨハネの誕生がなくても主イエスの誕生はあったでしょうし、ヨハネが自分の弟子たちに主イエスを紹介しなくても、主イエスはご自身で弟子たちをお召しになることは出来たのではないかと思えます。それなのになぜ、ヨハネのことをわざわざ書かなければならなかったのか。私はそのことがずっと疑問でした。この疑問に答えてくれたのが、神学者のカール・バルトがヨハネによる福音書について書いた書物でした。そこで言われていることから私なりに理解したことは、福音書の記者は、自分と洗礼者ヨハネを重ね合わせているので、どうしても洗礼者ヨハネのことを書きたかったということです。福音書記者は福音書を書くことによって、主イエスを証ししようとするわけですが、そのような役割を果たした大先輩として洗礼者ヨハネを見ているということです。だからヨハネをはずせないのです。ヨハネの生き方の中に自分の生き方のモデルを見ているということであります。このようなヨハネの見方は、福音書記者だけに言えることではなくて、主イエスの弟子である信仰者のすべてに当てはまることではないかと思います。私たちの生き方のモデル(原型)が洗礼者ヨハネの生き方の中にあるということです。ヨハネの生涯にとって、主イエスの存在が特別なものであったように、福音書の記者にとっても、私たちにとっても、主イエスの存在は特別なものであります。ですから、ヨハネの生涯は私たちにとっても深い関心を寄せざるを得ないし、そこから自分たち自身の生き方を知らされるわけであります。
 
私たちはこれから、洗礼者ヨハネの誕生物語に耳を傾けようとしていますが、そこでは、まだヨハネは生まれていないので、ヨハネ自身の生き方の選択とか主イエスに対するヨハネの信仰といったものはまだ現われては来ないのですが、ヨハネの誕生の経緯の中には既に神様の御心が働いています。ヨハネは偶然に主イエスを証しする人になったわけではありませんし、ヨハネが精進努力をした結果、主イエスの証人となったわけではなくて、その背後に神様の大きな御計画があったのであります。福音書の記者が言いたいのはそのことであるし、私たちがヨハネの誕生から聴き取るべきことも、そのことであります。
 
今日の箇所は、そのようなヨハネの誕生の、更に前段階の箇所で、ここではヨハネの父である祭司ザカリアと母であるエリサベトが登場人物で、この段階ではまだ洗礼者ヨハネは生まれていません。しかし、生まれてくる彼らの子供のことが主題になっています。年老いた二人に子供が与えられることについて、彼らの信仰が問われています。脇役であるヨハネの更に脇役に当る両親の信仰が問われています。ここでは、子供が生まれるという天使の言葉を信じられなかった父ザカリアの口が利けなくされたことが書かれています。そこにも、私たちの姿を重ね合わせることが出来ます。しかし、これらの場面の全てのことの背後に、隠されたかたちで本当の主人公がおられます。それは、生まれてくるヨハネが証しする主イエスであり、この場面のすべてのことを、天使を通して進めておられる父なる神様であります。私たちは、洗礼者ヨハネの生き方・その人生を通して、またその両親の姿を通して、私たち自身の生き方が問われるのでありますが、そのことによって、全ての背後におられる主イエスと出会うことが出来ますし、神様の深い御心を知ることが出来るのであります。
 
ところで、今日の箇所には1節から4節までの「献呈の言葉」が含まれています。カリキュラムを作成した方がなぜ今日のテキストとしてここを含めたのか、その意図は明らかにされていませんが、私なりに考えてみました。冒頭に、わたしたちの間で実現した事柄について、という言葉があります。つまり、ルカがこの福音書で伝えようとしていることは、旧約以来示された神様の救いの御計画が実現した事柄であって、今日の箇所のヨハネの誕生に関わる出来事も、その御計画の一環だと受け止めて読むのが良い、というのが、この部分を含めた意図だと思われます。そして、その神様の救いの御計画は今日この箇所を読む私たちにも実現しつつある、ということを覚えたいと思います。

1.恵みと苦悩の中で

さて、5節の初めに、ユダヤの王ヘロデの時代、とあります。ヘロデ王というのはローマ皇帝に取り入って王位を得て、軍事的・政治的には成功し、立派な宮殿を建設し、神殿の改修も進めましたが、王位を狙っていると疑った人を次々と殺害するなど残忍な王で、一般の人々の生活は苦しく、暗い時代でありました。そうした中で、人々は自分たちを救ってくれる救い主の出現を待ち望んでいました。
 
昨今の世界の状況も、景気が後退し、政権が不安定になり、先行きの見通せない、閉塞感が漂う暗い時代になっております。わが国も東日本大震災を受けて、復興の先行きが見えない状況が続いています。人々の心に救いの光を求める気持ちが広がっているように見えます。そうした中で、私たちは何処に救いを求めるべきかをしっかりと見定める必要があります。
 
ヘロデの時代、祭司の一人にザカリアという人がいました。妻のエリサベトもアロン家の娘ということで、祭司の家系でありました。6節によると、二人とも神の前に正しい人で、主の掟と定めをすべて守り、非のうちどころがなかった、とあります。二人は暗い時代の中にあって、絶望したり、刹那的なものに救いを求めるのではなくて、ひたすら神様が与えて下さった「掟と定め」、すなわち律法を忠実に守って、ユダヤ人として模範的な生き方をしていました。
 
しかし、だからと言って、何の憂いもなく、喜びにあふれた日々であったかというと、そうではなかったのであります。二人を暗い影が覆っていました。7節にあるように、エリサベトは赴任の女だったので、彼らには、子供がなく、二人とも既に年をとっていたのであります。当時のユダヤでは、子供がないということは、神様の祝福を受けていないと見做されました。その上、祭司職は世襲制でしたから、子供がなければ祭司職の家系は断絶してしまうことになります。二人は大きな苦悩の中にあって、日々神様に祈り続けて来たに違いありません。しかし、もはや望みが叶わない年齢に達していました。
 
私たちも、表面的には平穏な生活をし、人から後ろ指を指されることのない正しい生き方をしているようでありましても、心の内側には不満や不安が隠されていて、暗い雲を取り払うことが出来なかったり、神様にいくら祈っても叶わない願い事があって、心から喜ぶことがないままに過ごしているということがあります。また、自分では気がつかなくても、人を傷つけたり、躓かせたりしていることがあって、そのことが周りの人との関係に溝を作っているということがあるかもしれません。そのような状況はどのようにして変わるのでしょうか。私たちはどうすればよいのでしょうか。何が求められるのでしょうか。

2.恐れることはない――喜びの知らせ

さて、当時2万人近くもの祭司がいた中で、神殿の聖所に入って香をたく務めを誰がするかは、くじを引いて決められたようであります。それは祭司としての一生で一度だけの幸運であったそうです。ザカリアは神様の計らいによって、その幸運のくじを引いて、聖所に入って香をたいていますと、そこに天使が現れました。ザカリアはそれを見て不安になり、恐怖の念に襲われた、と記されています。天使とは神様の使いでありますが、聖書で天使が現れたと書かれている場合は、神様が人間と出会っておられるということを意味しています。ザカリアは6節に書かれていたように、神の前に正しい人で、主の掟と定めをすべて守っている人でありましたが、神様の前に出る時には、平静でいることは出来ませんでした。人間はいかに正しいことをしていると見られている人であっても、神様に出会うということは恐ろしいことであり、不安になることなのであります。
 
私たちは神様のお姿を見ることは出来ませんが、礼拝において、御言葉において私たちに出会って下さる時も、私たちは平静でいることが出来ません。恐れを覚えざるを得ません。逆に言うと、礼拝の場で、平静でおれるということは、御言葉が語られていないか、語られていても聞いていないかのどちらかであるということになります。もし私たちが御言葉を聞いて平静でおれなくなったとすれば、感謝しなければなりません。神様が私たちの心を揺り動かしておられるのです。
 
ザカリアは恐怖に襲われましたが、その時、天使から驚くべき言葉を聞くことが出来ました。「恐れることはない。ザカリア、あなたの願いは聞き入れられた。あなたの妻エリサベトは男の子を産む。その子をヨハネと名付けなさい。その子はあなたにとって喜びとなり、楽しみとなる。多くの人もその誕生を喜ぶ」という言葉でした。「恐れることはない」と言われます。人は神様に出会うと恐れざるを得ないのでありますが、神様御自身がその恐れを取り除いて下さるのです。そしてザカリアは、長年の願いが叶えられて男の子が与えられるという、うれしい言葉を聞きます。それだけではありません。「多くの人もその誕生を喜ぶ」と言われていて、16節を見ると、「イスラエルの多くの子らをその神である主のもとに立ち帰らせる。彼はエリヤの霊と力で主に先立って行き、父の心を子に向けさせ、逆らう者に正しい人の分別を持たせて、準備の出来た民を主のために用意する」とあります。ここには、生まれてくるヨハネの役割が語られています。暗い時代を明るくするのは、ローマの権力から解放することではなく、ヘロデの圧制が終わることでもなく、イスラエルの民自身が主のもとに立ち帰ることであります。ヨハネはこの天使の言葉どおり、人々に悔い改めを勧め、悔い改めた人に洗礼を授ける人になりました。しかし、人々が悔い改めるのは、ヨハネの力によるのではありません。「エリヤの霊と力で」と言われています。昔エリヤが聖霊の力を受けて大きな働きが出来たように、ヨハネにも聖霊の力が働いて、人々が悔い改めに導かれるということで、最終的な救いは、主イエスの十字架の御業を待たねばなりません。ヨハネはその救いのための準備をしたに過ぎません。ヨハネは主イエスが来られたとき、「見よ、神の小羊」と言って、弟子たちに主イエスを指し示しました。また、ヨハネの最後は、ヘロデ王によって首を刎ねられるという痛ましい死でありました。それは主イエスの十字架の死を指し示すものでありました。それが、ここで天使が言う「準備の出来た民を主のために用意する」ということの中身であります。
 
現代の暗い時代の中にあって、私たちが出来ることは、このヨハネがしたことと同じであります。私たちが世の中を明るく変えたり、人々に救いをもたらすのではありません。救いをもたらすのはあくまでも主イエスであります。私たちの使命は、ヨハネに倣って、人々に主イエスを指し示すことです。そうすることによって、私たちも「準備の出来た民を主のために用意する」ことが出来るのであります。

3.「何によって」――口が利けなくなる

ところで、天使の言葉を聞いたザカリアは、念願が叶ったことを知って大いに喜んだのでしょうか。そうではありませんでした。18節を見るとこう言っております。「何によって、わたしはそれを知ることができるのでしょうか。わたしは老人ですし、妻も年をとっています。」――ザカリアは天使の言葉を受け入れられないでいます。天使の言葉と自分の年老いた状況とが結びつかないのであります。ザカリア夫妻は子供を与えられることを祈って来ました。しかし、年をとってからは、もう諦めて、祈ることもやめていたのでしょうか。
 
このようなザカリアの姿を私たちは批判することは出来ません。私たちの願いや祈りも、なかなか叶えられないと、様々な困難や障害のある現実が目に付いてしまって、いつのまにか諦めに変わってしまっているということがあるのではないでしょうか。もし私たちの願いが御心に適わないのであれば、断念せざるをえません。しかし、人間の理性や経験の範囲で考えて諦めるのであれば、それは不信仰と言わざるを得ません。信仰とは、人間の常識や自然的あるいは科学的な法則を越えた神様の御業を信じるということであります。神様は無から有をも生み出すお方であります。私たちはそのことを頭では知っておりながら、神様がなさろうとしておられることを信じることが出来なくなってしまうことがあります。ザカリアは祭司として、神と人とを繋ぐ役割をする人です。しかし、天使が伝える神様の言葉を信じることが出来ませんでした。このザカリアの姿を私たちの姿を重ね合わせることが出来ます。私たちは祭司ではありませんが、信仰者であれば、この世の他の人に先立って、神様の御力を信じ、御心を伝える役割を果たさなければなりませんのに、私たち自身がこの世の常識や厳しい現実の前に膝をかがめてしまっているのであります。
 
「何によって、わたしはそれを知ることができるのでしょう」と疑問を投げかけたザカリアに対して、天使はこう答えます。(19,20節)「わたしはガブリエル、神の前に立つ者。あなたに話しかけて、この喜ばしい知らせを伝えるために遣わされたのである。あなたは口が利けなくなり、この事の起こる日まで話すことができなくなる。時が来れば実現するわたしの言葉を信じなかったからである。」――天使が伝える神様の言葉が信じられないようでは、それを話すことも出来ませんから、口が利ける必要はなくなります。ザカリアの不信仰に対しけ神様の裁きがくだって、ものが言えなくなりました。沈黙させられたのであります。
 
21,22節によると、ザカリアは聖所で手間取っていたので、外で待っていた民衆は不思議に思っていたようですが、やっと出て来たザカリアは、口が利けないまま、身振りで示すだけで、何も話すことが出来なくなっていました。
 
私たちはこのことを重く受取る必要があります。私たちも神様のお約束の言葉を信じられないとすれば、口が利けなくなるということであります。せっかく礼拝しても、聴いた御言葉を話すことが出来ないということです。お喋りのための口は開かれていても、神様の御心を伝える口は塞がれるということです。私たちの信仰生活の中から、福音の喜びを語る言葉が消えてしまうということです。外見は礼拝生活を続けていても、信仰者として生きることが出来なくなってしまうということであります。これは、大変恐ろしいことです。

結.主は今こそ

さて、ザカリアが天使の告げたことを信じられなくて、口が利けなくなったことで、ヨハネの誕生は御破算になったのでしょうか。あるいは、ザカリアが悔い改めるまで、一時お預けになったのでしょうか。そうなると主イエスが来られるという神様の救いの御計画にも狂いが生じることになります。ところが、24節を見ますと、その後、妻エリサベトは身ごもって、五ヶ月の間身を隠していた、と記されています。神様の救いの御業はストップしなかったのです。天使の言葉通りに事は進んでいたのであります。人間の不信仰があっても、神様の御計画は揺らぐことはなかったのです。
 
エリサベトが身ごもってから身を隠していた五ヶ月の二人の生活はどのようなものであったでしょうか。ザカリアはまだ口が利けないままです。ですから天使から聞いたことを話すことができません。しかし、エリサベトは自分が妊娠したことに気付いて、ザカリアにも話したことでしょう。そして、二人が長年願って来たことが実現したことを喜び合ったことでしょう。ザカリアは人間の常識と理性で考えたことが如何に愚かであったかを深く思わされるとともに、人間の思いを越えた神様の恵みをエリサベトや他の人々にも語りたいという思いを強く持つようになったのではないでしょうか。こうして神様は、ザカリアの信仰をも前進させられたのであります。ザカリアの口が利けなくなったことは、神様の裁きであります。しかし、神様は、口が利けない沈黙の時を通して、神様の御計画の確かさを知らせ、人々に語るべきことを教えられたのであります。エリサベトは25節で、「主は今こそ、こうして、わたしに目を留め、人々の間からわたしの恥を取り去ってくださいました」と言って神様を褒め称えております。ザカリアもまた、やがて舌がほどけると、天使から聞かされた神様の御業について語り、神様を賛美することになります。
 
私たちも、ザカリアと同じように、神様の御言葉が納得出来なかったり、受け入れ難く思われるときがあります。不信仰に陥ることがあります。素直に御言葉に希望を託せなくなることがあります。そのときは沈黙せざるを得ません。語っているつもりでも、人に何も伝わりません。口が利けなくされるのであります。しかし、ザカリアが沈黙している間に、エリサベトが洗礼者ヨハネを身ごもったように、神様の御業は留まることなく、計画どおり進んで行きます。そして、私たちもその事実を知らされて、自らの間違いに気付き、信仰を深められるのです。そして、ザカリアと同じように、神様を賛美するものとされて、自分なりの言葉で主の恵みの御業を語り得る者とされるのであります。
 
神様の御業は、人間の愚かさや不信仰によって阻まれているように見えます。日本における伝道の業も、この伝道所の働きも、思うように進んでいないように見えます。私たちの不信仰に対する神様の裁きによって、証しの口が閉ざされているのではないかとさえ思わされます。しかし、今日、御言葉によって聴かされたことは、たとえ私たちが不信仰に陥っている間も、神様の救いの御業は少しも遅れることはないということであります。やがてザカリアの口が開かれ、ヨハネも誕生するように、主イエスを指し示す言葉を語る者が、この時代、この地域の中にも現れるのです。それは、決して私たちと別の人ではありません。私たちも、弱さを持ちつつ、主を証しする者に変えられます。そして私たち自身が、ヨハネを受け継ぐ者たちとされるのであります。
 
祈りましょう。

祈  り

救い主イエス・キリストの父なる神様!
 
不信仰な私たちをもお招きくださって、待降節の御言葉を聴かせて下さいましたことを感謝いたします。それでもなお、御言葉を御心のままに受け止めることの出来ない者でありますが、あなたは今も救いの御業を進めておられることを信じる者とならせて下さい。
 
どうか、主を待ち望む待降節の群れに、多くの方々をお加え下さい。そして、御子イエス・キリストの御降誕を心から喜び・称える者たちとならせて下さい。
 
主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

米子伝道所 待降節主日礼拝説教<全原稿>   2011年11月27日  山本 清牧師 

 聖  書:ルカによる福音書1:1−25
 説教題:「喜びの知らせを聞く」
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