序.再臨に向けていかに生きるか

今年もあと1ヶ月経つとクリスマスがやって来ます。教会の暦では来週からアドベント(待降節)に入ります。毎年申し上げていることが、アドベントには二つの意味があります。一つは、イエス・キリストが最初に地上に来られた2000年前の出来事を覚えるクリスマスを待つ期間ということですが、今一つは、再び来られる再臨の時を待ちつつ、その時のために備える生き方を学ぶ期間だということです。
 
マタイ福音書によれば、主イエスはご自身の十字架の死と復活のことを弟子たちに三度、予告されましたが、併せて、再び来られること、天の国(神の国)のことを、様々な譬えを用いて話されたのでありました。神の国と言えば、そもそも、主イエスが公けの活動を始められた最初に、「時は満ち、神の国は近づいた」(マルコ115)と言われました。主イエスが地上に来られたということは、神の国が始まったということだと仰ったのであります。そして主イエスは、地上のご生涯の中で、目の見えない人を見えるようにし、足の不自由な人を歩かせ、重い皮膚病の人を清め、死者を生き返らせることによって、神の国が始まっていることを示されました。そして、最後には十字架にお架かりになって、私たちの罪を贖う御業をなさり、三日目に復活して、罪に勝利なさることによって、私たちが主イエスを信じる信仰によって神の国に入ることが出来るようにして下さったのでありました。その後、主イエスは天に昇られて、キリストによる救いの福音は聖霊を受けた弟子たち(即ち教会)によって伝えられることになって、神の国は広がっていくわけですが、それが完成するのは、イエス・キリストが再び来られる再臨の時であります。私たちは今、その再臨の時を待ち望みつつ、その日のために備えをしているのであります。
 
今日は、カリキュラムに従って、マタイによる福音書25章の「タラントンの譬え」と呼ばれる箇所を与えられておりますが、ここは、主イエスが語られた多くの天の国に関する教えの一つでありまして、ある主人が僕たちに財産を預けて旅に出て、やがて帰って来て、僕たちと清算をするのであります。これは正に、昇天されて地上から姿を消された主イエスが、再び帰って来られる再臨までの間に、私たちが如何に生きるべきかを教えようとして語られた譬えであります。今日は、この譬えを通して、主イエスが私たちにどのような生き方を求めておられるのかを聴き取りたいと思います。

1.タラント(才能)を活かせという教訓か?

この譬えは、教会に長く来ておられる方ならば何度かお聞きになったことがあるでしょうし、今日初めてこの譬えを聞くという方でも、先ほどの朗読で、主イエスの仰りたいことがおよそ見当がつくように思われたのではないでしょうか。
 
ここに登場する「主人」というのは、主イエス御自身のことを指していて、「僕」というのは主イエスに従う弟子たち、あるいは主イエスを信じる私たちのことを指している、ということも、およそ見当がつきます。また、ここにタラントンというお金の単位が出て来ますが、これが「テレビ・タレント」などという場合の「タレント」の語源になっているという話を聞きますと、この「タラントン」という譬で表されているのは、私たちが神様から与えられている「才能」のことらしいということは誰でも考えるのであります。更に、「才能」だけでなくて、私たちが与えられている環境とか境遇といった様々の賜物のことも含まれていると考えるかもしれません。
 
そういたしますと、この譬で主イエスが仰りたいことは、どういうことになるでしょうか。主人から5タラントン預かった僕と、2タラントン預かった僕は、主人の信頼に応えて、預かったタラントンを何とか増やそうと、商売をして2倍にしたので、帰ってきた主人に「忠実な良い僕だ」と褒められ、「一緒に喜んでくれ」と言われて、引き続きもっと多くの財産の管理を任されました。これは私たちが主から与えられている様々の賜物を活かして、大きな働きをすることを期待されていて、その期待に応えるなら、喜んで下さって、引き続き天の国で主と共に働くことが出来る、と仰っていると捉えることが出来ます。ところが1タラントン預かった僕は、主人が大変厳しい人だと知っていたので、リスクを伴う商売はせずに、穴を掘って隠しておいたのですが、帰ってきた主人は「怠け者の悪い僕だ」と叱り、「それなら銀行に入れておけば、利息つきで返してもらえたのに」と言って、外の暗闇に追い出されてしまいました。私たちも、せっかく与えられている賜物を活かさないで温存しているだけでは天の国に入れてもらえないことになる、ということでしょうか。確かに私たちがそれぞれに与えられて賜物を十分に活用することが勧められている譬えであります。
 
しかし、この譬でそれだけのことを言われたのだとすると、結局は、<自分たちに与えられている才能や環境を活かして、最大限の成果を上げなさい>、と発破をかけられているだけで、それが天国につながると言われても、あまりやる気も喜びも出て来ないのではないでしょうか。もう少しこの譬を注意深く丁寧に読まないと、主イエスが伝えようとされている恵みを聴き落とすことになりかねません。

2.「僕」としての私たち

 まず、この譬えの前提となっていることですが、「良い僕」と言われる者も、「悪い僕」と言われる者も、どちらも「僕」であるということを見逃してはなりません。「僕」とは「奴隷」とも訳せる言葉です。主イエスはここで、弟子たちや私たち主イエスを信じる者を、三人の僕たちに重ね合わせておられるのであります。私たちは僕なのであって、決して主人ではありません。そのことがこの譬えの前提です。主イエスの前で、私たちが「僕」であるのは当然のように思われるかもしれませんが、私たちは信仰の世界にあっても、自分が主人になろうとする傾向があります。自分を中心において、主イエスですら自分の人生に役立てたいとか、自分の安らぎや活力のために、自分の誉れのために、あたかも僕であるかのように利用しようとするのであります。しかし、この譬で示されていることは、私たちはあくまでも主イエスに仕える僕である、ということであります。信仰を持つということは、主であるキリストに仕える僕となるということであります。
 
 次に、主人は旅行に出かけるに当って、僕たちに自分の財産を預けました。それは、それによって僕たちが豊かになるためではありませんし、僕たち自身がそれを使うためでもありません。そうではなくて、僕たちが主人のために働いて、主人の財産を増やすためなのであります。それにしても、主人が僕たちに財産を預けるということは、僕たちを信頼しているということであります。僕たちが財産を持ち逃げしたり、無駄使いすることを心配している様子は描かれていません。むしろ、結果的に分かることですが、主人は僕たちを信頼し、彼らの働きに大いに期待していたのであります。
 
 このことで示されていることは、主イエスは天に昇られたのでありますが、驚くべきことに、主イエスは私たちに主の大切な財産をお預けになって行かれたということであります。しかしそれは、私たちが豊かになるためではありません。私たちの利益や誉れのために使うことは許されていません。あくまでも主イエスの豊かさを増やすため、主イエスの誉れを高めるためであります。それにしても、そのことを私たちに委ねられるということは驚くべきことであります。主イエスは私たちを信頼して、主イエスの豊かな富を預けられるのです。それは単に大事に保管するためではありません。主イエスの豊かな富を更に増やすことを期待して預けられているのであります。主イエスと私たちの関係は、あくまでも主人と僕の関係であります。そうでありながら、主イエスは私たちを信頼し切っておられるのです。役に立たない無価値なものとして扱うのでなくて、ご自分の御業、救いの御業、神の国建設の御業を、私たちに委ねておられるのであります。

3.力に応じて

ところで、この譬えを聞いて、いくつかの疑問も湧いて来ます。主人は「それぞれの力に応じて」、5タラントン、2タラントン、1タラントンを預けました。なぜこんな差別があるのか。なぜ一律ではないのかという疑問です。ここで誤解がないために注釈が必要です。一つは、タラントンという貨幣の単位ですが、共同訳聖書の巻末に度量衡の単位について説明した表がついていて、それを見ると「タラントン」というのは6,000ドラクメに相当するとあって、ドラクメというのはギリシャの銀貨で、ローマの通貨の1デナリオンと等価だと書かれています。1デナリオンというのは、当時の1日の賃金に当るということですから、今の通貨で1万円としますと、1タラントンは6000万円ということになりますから、相当な金額であります。つまり、1タラントンを預けられた人も、主人から相当の信頼を受けていたということであります。確かに2タラントン、5タラントン預けられた人より少ないのですが、それは主人が、それぞれの力を見極めた上で適切に預けたのであって、差別したわけではありません。ここでは主人の財産の大きさが金額の大小で譬えられていますが、各人に預けられる財産は同じではないということの表現と理解した方がよいでしょう。
 
私たちに主イエスから預けられる財産も一様ではありません。それぞれの力によって、また置かれた環境によって預けられる財産は同じではありません。そこには主イエスのお考えがあり、主イエスの信頼があるということであります。同じでないということで文句を言える筋合いはありません。いずれにしても、莫大な財産であるということであります。驚きをもって受取るべき財産であります。
 大事なことは、主人の信頼に応えて、預かったものを、自分に与えられている力で活用するかどうかであります。結果の評価は、5タラントン預かった僕と2タラントン預かった僕とでは変わっていません。主人は同じように、「良い忠実な僕」と言い、「主人と一緒に喜んでくれ」と言って、多くのものを管理させるのであります。主人は儲けた金額の大小や成果の大小で評価しているのではないということです。主人の信頼と期待を喜んで受け止めて、それに応えようとしたかどうかが大切です。一方、1タラントンを預けられた僕は、他の人より預けられた金額が小さかったのでへそを曲げたわけではありません。むしろ預かった金額の大きさに驚いたのでしょう。しかし問題は、主人を「蒔かない所から刈り取り、散らさない所から集められる厳しい方」だと考えて、恐ろしくなったことでした。これは、当時の律法学者が神様の律法を守ることに汲々としていたことを象徴していると考えた学者がいます。もし私たちが、天国に入るために、あれをしなければならない、これをしてはいけないと、恐ろしい神様のことを考えて汲々としているようであれば、この僕と同じだということになります。主人が求めているのは、成果ではありません。主人の期待と信頼に応えようとすることです。もしこの僕が主人の期待に応えようと懸命に商売をして、失敗して、預かったものを失ってしまったらどうでしょう。主人は「怠け者の悪い僕だ」と言うのでしょうか。そうではないでしょう。「忠実な良い僕だ。よくやった」と褒めるのではないでしょうか。
 
主イエスは私たちにも、自分にとって荷が大き過ぎると思える財産を預けられたと感じるかもしれません。主イエスの弟子になることは、自分には負いきれない責任を負わされることになるのではないか、立派な人間にならないといけないのではないか、と恐れを覚えるかもしれません。しかし、主イエスは私たちの「力に応じて」預けられるのです。預かった財産は十分に生かすことが出来ると主イエスは踏んでおられるのであります。失敗して叱られないだろうかとか、主イエスの期待どおりに財産を増やせなくて裁きを受けはしないかと恐れる必要はないのであります。主イエスが預けて下さる財産を土の中に埋めておくような愚かなことをしてはなりません。主イエスの信頼に応えて、預かった財産を最大限に活用すべきなのであります。

4.預けられた財産とは

ここまでお話しして来ると、大きな疑問が浮かび上がって来るのではないかと思います。それは、<主人から預かった財産ということで譬えられているものは何なのか>、という疑問であります。1.のところで、タラントンという貨幣の単位からタレント(才能)という言葉が出て来たということから、普通、預かった財産というのは、私たちが与えられている才能とか環境とか境遇のことと考えられ易いということを申しました。しかし、この譬えをよく読むと、僕はタラントンを「それぞれの力に応じて」預けられたと言われています。才能とか環境とか境遇というのは、それぞれに元々与えられている「力」に属することであって、預かったタラントンというのは、与えられるものではなくて、あくまでも預かるものであります。とすると、預かった財産とは何でしょうか。それぞれの力や才能や環境に合わせて預けられる<使命>とか<課題>と捉えることが出来るかもしれません。しかし、使命や課題を「財産」に譬えるのは少しずれているように思います。財産を預かることによって、そこに使命や課題が発生するのは分かりますが、財産そのものが使命や課題ではないでしょう。ある人は、ヨハネによる福音書にある主イエスの別れの説教の中の次のような言葉を引用します。「わたしが去って行くのは、あなたがたのためになる。わたしが去って行かなければ、弁護者はあなたがたのところに来ないからである。わたしが行けば、弁護者をあなたがたのところに送る。」(ヨハネ167)ここで弁護者と言われているのは、聖霊のことであります。そのすぐ後で主イエスは「真理の霊が来ると、あなたがたを導いて真理をことごとく悟らせる。・・・その方はわたしに栄光を与える」(同13,14)とも言われていて、預かる財産とは「真理の霊」のことだと言います。確かに、そのような理解も成り立つかもしれませんが、私はもっと直接的に、預けられた財産とは、主イエスの所に満ち満ちている豊かな富、即ち主イエスの栄光、福音の恵みと捉えた方が分かり易いのではないかと思います。主イエスの十字架で現された愛の恵みと言い直してもよいかもしれません。私たち主イエス・キリストを信じる者には、その大きな富を預けられるのであります。そして、その富を更に大きく増やす役割を託されているのであります。具体的には、福音を多くの人々に伝えるということであります。そして主イエスの財産を何倍にも増やすことが許されるのであります。そのために、喜ばしいことに、私たちの力(才能や環境や境遇)も活かされるのであります。今日の説教の題を「賜物を活用する」と致しました。しかしよく考えると、「賜物」というのは与えられた物のことであります。私たちは主イエスの所にある豊かな富、福音の恵みを与えられるということもありますが、この譬では、それが私たちに預けられて、増やすことが期待されているのであります。ですから、説教の題は「預かった富を活用する」の方がよかったかもしれません。

結.主人と共に喜ぶ

主人の財産を預かって、恐ろしくなって隠しておいた僕は、「怠け者の悪い僕だ」と言われて、外の暗闇に追い出されました。この僕は、主人から財産を預かったことを喜びと思うことが出来ず、むしろ恐れたのであります。それに対して、他の二人は、主人の財産を預かったことを喜びと感じ、更に主人のためにそれを増やすことに喜びを見出しました。そして帰ってきた主人はそれを喜んで「一緒に喜んでくれ」と言って、その後も財産を管理させるのであります。
 
私たちも、主イエスの豊かな財産を預けられたのであります。それは「福音」という豊かな恵みの財産であります。それは決して重荷なんかではありません。主は私たちそれぞれの力に応じて預けて下さっています。むしろ、そのような大きな財産を預けられたこと自体が光栄なことでありますし、ましてや、それを増やす働きに召されることはとても大きな喜びであます。そして、それを増やす働きに精出した結果は、その恵みの財産は大きく膨らむのであります。そして、主イエスの再臨の時には、「わたしと一緒に喜んでくれ」と言って天の国に招き入れて下さるのであります。
 
主イエスは今日も、その恵みの働きへと召し出すために、私たちを御許に集めて下さったのであります。感謝して祈りましょう。

祈  り

恵み豊かなイエス・キリストの父なる神様!
 
タラントンの譬えを通して、主イエスの所にある豊かな恵みの財産が私たちにも預けられていることを覚えて、感謝いたします。私たちはこの預けられた財産を負担に感じたり、思うように増やせないと嘆いたりしますが、主は私たちの力に応じた財産を預けてくださり、その豊かな富が増えたことを一緒に喜んで下さることを知らされました。
 
どうか、主イエスが再び帰って来て下さる時まで、喜んで働く者とならせて下さい。そして天において主と共なる喜びの祝宴に連なる者とならせて下さい。どうかまた、多くの方々が主の恵みの財産を預けられ、喜びを分かち合う者となりますように、お導き下さい。

主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

米子伝道所主日礼拝説教<全原稿>       2011年11月20日  山本 清牧師 

 聖  書:マタイによる福音書25:14−30
 説教題:「賜物を活用する」
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