序.人の生と死――モーセの死から学ぶ

8月からイスラエルの民の出エジプトの物語を見て参りました。今日は申命記の「モーセの死」の箇所であります。イスラエルの民が荒れ野の旅を終えて、約束の地カナンに入るには、次のヨシュア記まで読まなければなりませんが、日曜学校のカリキュラムでは今日の「モーセの死」の箇所で終わっています。
 出エジプトの物語はイスラエルの民の物語でありますが、指導者モーセの生涯の物語でもあります。モーセの誕生からエジプトで育った40年、事件を起こしてミディアンの地へ逃亡して過ごした40年、その後、神様からの召命を受けてエジプト王ファラオと交渉し、出エジプトのリーダーとして荒れ野の旅を率いて40年、そして今、120歳で死の時を迎えているのであります。
 モーセが生きたのは紀元前12001300年前の大昔のことであり、日本から遠く離れた中東地域であります。また、10節に、イスラエルには、再びモーセのような預言者は現れなかった、とありますように、モーセはイスラエルの歴史の中で最大の預言者であります。そういう人ですから、私たちとは比べものにならない偉大な人物で、モーセの人生から何かを学ぶと言うのはおこがましいような大きな働きをした人なのでありますが、聖書はモーセを決して神聖視しておりませんし、理想的・模範的な人間として扱っているわけでもありません。むしろ、神様の前に間違いやすい、限界を持った弱い人間として描いているのであります。モーセはイスラエルの民をエジプトから導き出すという大きな使命を与えられました。私たちはそんな大きな使命を与えられているわけではないように思うかもしれません。しかし、人は皆、無意味に生まれて来たのではありません。神様が一人一人に掛け替えのない使命を与えておられるのであります。そういう意味では、その役割の大きさこそ違え、モーセは私たちの人生を象徴しているということは言えるのではないかと思うのです。
 今日は召天者を記念する礼拝として守っております。この伝道所で神様との関係を持ちながら、生涯を閉じた人たちのことを偲びながら、それらの人の生涯を導かれた神様の恵みを覚えて、神様を賛美するのが目的の礼拝であります。ご遺族の方々にとって身近な存在であった召天者の生涯にどのような意味があったのかということを考える時に、モーセの人生と重ねあわせると、見えてくるものがあるのではないかと思います。また、私たち自身の人生にいたしましても、モーセとは随分かけ離れた人生ではありますが、神様との関わりを持って生きる者として、モーセの人生を通して重要な示唆を受けることが出来るのではないかと思います。
 
そういうことで、今日は、モーセの人生、特にその最後の部分を学ぶことによって、先に召された方々の人生、そしてそれを引き継いでいるご遺族や私たちキリスト者の生き方について考えて、神様が私たちに語りかけておられることを聴き取りたいと思うのであります。

1.荒れ野の40

初めに、モーセの生涯を振り返ってみましょう。モーセは、当時エジプトの奴隷であったイスラエルの民の子供として生まれました。イスラエルの民の人口が増えるのを恐れたエジプト王ファラオは、生まれてくる男の子を殺すように命じましたが、モーセは生まれると、密かにパピルスの籠に入れてナイル川に浮かべられ、それをエジプト王女が見つけて、ふびんに思った王女のもとで育てられたのであります。ここに既に神様の特別な御配慮があったことが伺えるのでありますが、私たち一人ひとりの誕生や成長の過程にも、モーセのように劇的ではないかもしれませんが、神様の特別な配慮が働いていることを思うべきであります。召天者や私たちが、教会に足を踏み入れるようになったことの背後には、誕生の時からの神様の特別な御計画と導きがあったからではないでしょうか。単なる偶然の結果ではない筈であります。
 
モーセは成人すると、同胞愛と正義感に目覚めました。そして、同胞のヘブライ人がエジプト人にいじめられているのを見て、エジプト人を打ち殺してしまいました。翌日、今度はヘブライ人同士がけんかをしているのを見て、悪い方をたしなめると、「誰がお前を我々の監督や裁判官にしたのか」と言われてしまいました。こうしてモーセの思い上がりや同胞愛が一旦打ち砕かれたのであります。そして、追われる身となって遠くミディアンの地まで逃れて、そこで羊飼いとしての生活をするようになりました。ここにも神様のお働きがあったことを覚えざるを得ません。私たちの人生においても、自分の力を誇りつつ、自分で考えていた計画や望みが挫折するという経験をすることがあります。しかし、そこにも神様が働いておられるのであります。
 
モーセはそんな挫折の中で40年間の逃亡生活をしなければなりませんでした。しかし、それは神様が計画なさっていた次の使命のための準備期間でありました。そしてある日、羊を追ってホレブの山に来た時、燃える柴の間から神様の声が聞こえて、イスラエルの民をエジプトから救い出すためにファラオのもとに遣わすという使命が告げられるのであります。モーセは躊躇し、「もともと弁が立つ方ではない」などと言いましたが、神様は「わたしは必ずあなたと共にいる」「わたしがあなたの口と共にあって語るべきことを教えよう」と仰るので、エジプトへ戻って、ファラオと交渉を始めるのでした。
 
しかし、ファラオはなかなか交渉に応じようとしませんでした。すると神様はエジプトに対する災いを10回にわたって起こされ、遂にイスラエルの民がエジプトを出ることが許され、意気揚々と出発します。ところが、イスラエルの民が葦の海のところまで来て、先に進めないのを知ったファラオは追手の軍隊を送ります。あわやと思われた時に、有名な海を渡る奇跡が起こされます。こうしてイスラエルの民はエジプトを出ることが出来ました。それはすべて、モーセの力ではなく、神様の手厚い導きと助けによることでありました。
 
しかし、そこからの荒れ野の旅は順調ではありませんでした。約束の地カナンまで、最短のコースで行けば10日ほどで行けるところを、神様は大きく遠回りさせられます。その間に、水がなくなったり、食べる物が不足したりして、その度にイスラエルの民は不平を言い出します。それに対して神様は岩から水を出したり、マナを与えられます。モーセが十戒を与えられるためにシナイ山に入っていた間に、イスラエルの民は金の子牛を造って、偶像礼拝に陥ります。また、いよいよカナンに近づいた時に、12人を偵察に出すのですが、彼らの報告を聞いて民は恐れて、エジプトへ帰ろうと言い出します。その度にモーセは神様に執り成しの祈りをしなければなりませんでした。そうこうしているうちに、40年の年月が経ってしまうのであります。その40年の荒れ野の旅は、イスラエルの民の信仰を鍛えるためでありました。

2.約束の地を見る/モーセの死

さて、やっとのことで、川を渡ればその向うには約束の地カナンという場所まで辿り着くことが出来ました。ここからが今日の申命記34章になるのですが、神様はモーセをカナンの全体が見渡せる高い山の頂に登らせられました。目の前には、広大な大地が広がっています。ところがそこでモーセが神様から聞かねばならなかったのは、4節の最後にあるように、「あなたはしかし、そこに渡って行くことはできない」という言葉でありました。約束の地に入る前に死ななければならないということであります。7節を見ると、モーセは死んだとき百二十歳であったが、目はかすまず、活力もうせてはいなかった、と書かれています。高齢ながらまだ元気だったのに、死ななければならないということです。昨年、青木先生をお招きして行なった合同修養会で、先生はこの箇所を取り上げられて、なぜそのようなことになったのかということを語られました。その理由は民数記2012(247)に書かれています。主はモーセとアロンに向かって言われた。「あなたたちはわたしを信じることをせず、イスラエルの人々の前に、わたしの聖なることを示さなかった。それゆえ、あなたたちはこの会衆を、わたしが彼らに与える土地に導き入れることはできない。」モーセたちのどこに問題があったのでしょうか。ツィンという荒れ野に入ったとき、そこには飲み水がなかったので、民が「こんな荒れ野に引き入れたのは我々をここで死なせるためですか」と言い出したので、モーセが神様にお祈りすると、神様は「あなたは杖を取り、彼らの目の前で岩に向かって、水を出せと命じなさい」と言われたのであります。そこでモーセが杖を取って、それで岩を二度打つと、水がほとばしり出たのです。この出来事のどこに問題があったかというと、よく言われるのは、以前に同じような出来事があった時には、「杖で岩を打て」と言われて、そのとおりして水が出たので、今度も同じようにしたのだけれども、今回神様が命じられたのは、杖で岩を打つことではなくて、「水を出せと命じなさい」と言われたのに、その通りにしなかったからだ、ということです。しかし、青木先生は、それが決定的な理由ではなくて、神様が言っておられるように、「わたしの聖なることを示さなかった」からではないか、と言われるのです。具体的にモーセのどういう行為が神様の聖なることを示さないことに当るのかは明記されていないのですが、モーセの振る舞いの端々に、人々がモーセを崇めることを受け入れるような行為があって、それを神様は見ておられたのではないか、それを放っておくと、一種のモーセ教になってしまうことを防がれたのではないか、と青木先生は言われるのです。申命記346節を見ると、主は、モーセをベト・ペオルの近くのモアブの地にある谷に葬られたが、今日に至るまで、だれも彼が葬られた場所を知らない、とあります。モーセのお墓が何処にあるか分からないのです。これもモーセが教組のように崇められたりしないためであったと考えられます。この申命記というのは、モーセが神様から聞いたことをイスラエルの民に語った説教を書き綴ったものであります。イスラエルの民はカナンの地に入ったら、これらの御言葉に従って生きて行くようにと語られたものであります。ところが、モーセが教組のようになってしまう恐れがあった。そこで、神様は、モーセの生涯をここで終わらせる必要があった。そして、決して拝まれたりしないように、お墓さえ何処にあるか分からなくされた、ということです。
 
いずれにしましても、モーセの生涯をどこで終わらせるかは、神様が決められることであります。モーセは百二十歳の高齢でしたが、まだ元気であったことが、わざわざ7節に書かれていました。それは、モーセの死が老衰だとか、病気になったからではなくて、神様が命を取り去られたということを示しています。神様はイスラエルの民をエジプトから救い出すという御業を、モーセだけで完成させられないで、次の世代に引き継がせられるのであります。

3.使命の継承――モーセからヨシュアへ

私たちの人生も、どこで終るのかを決められるのは神様であります。召天者たちも、もう少し生きたいという思いを残しつつ召されたかもしれません。ご遺族も、もう少し生きていてほしかったという思いが残ったかもしれません。しかし、神様は最も相応しい時に召されるのであります。人は誰も、自分なりの人生の締めくくりを思い描いて、色々なことを成し遂げた上で終わらせたいと思うかもしれません。しかし、モーセが自分に与えられた使命を自分でやり遂げることが許されなかったように、私たちも、どんな優れた働きをした人であっても、与えられた使命を自分で完成することは出来ないのであります。与えられた使命を、次の世代に引き継がなければならないのであります。
 
9節には、モーセの後継者ヌンの子ヨシュアのことが簡単に書かれています。このヨシュアは、カナン偵察の時に選ばれた12人の1人で、10人の人は、カナンの人たちは強そうだと言って、民を恐れさせるのですが、ヨシュアともう一人のカレブという人は、神様が共におられるのだから、恐れてはならないと言うのです。その後、神様の御心に聞き従わなかった20歳以上の民は皆死んでしまって、カナンに入ることは出来ないのですが、ヨシュアとカレブだけは生き残って、カナンに入ることになります。そして9節にはこう書かれています。ヌンの子ヨシュアは知恵の霊に満ちていた。モーセが彼の上に手を置いたからである。イスラエルの人々は彼に聞き従い、主がモーセに命じられたとおり行った。つまり、ヨシュアがモーセの後継者となって、イスラエルの民をカナンの地に導き、そこで主がモーセに命じられたこと(申命記に書かれたこと)をその通りに行うことになるのであります。次のヨシュア記にはその次第が書かれているのですが、その15、6節を見ると、神様はこう言われています。一生の間、あなたの行く手に立ちはだかる者はないであろう。わたしはモーセと共にいたように、あなたと共にいる。強く、雄々しくあれ。あなたは、わたしが先祖たちに与えると誓った土地を、この民に継がせる者である。
 
先に召された召天者たちは皆、キリスト者として生涯を閉じられました。その生涯の背後には、神様の大きな救いの御計画があったに違いありません。召天者の配偶者やお子様がたも、やがて救いに入れられるという御計画があったのではないかと信じたいと思います。召天された方々もそう願っておられたのではないかと思います。しかし、その計画は必ずしも召天者の生きておられた間に実現してはいません。神様の御計画が実現するのを見届けないまま、天に召されたのであります。しかし、神様の救いの計画があったのであれば、そこで計画が頓挫してしまうのではなくて、モーセの使命がヨシュアに引き継がれたように、必ずご遺族や教会の後継者に引き継がれる筈であります。神様は今も、御計画の実現に向けて、御業を進めておられる筈であります。今日は、そのことを改めて確認したいと思います。主が5節で、ヨシュアに言われたように、私たちにも、「わたしは召天者と共にいたように、あなたと共にいる」と言っておられるのではないでしょうか。

4.顔の覆いを除かれる――キリストによる完成

ところで、申命記34章に戻って、10節を見ていただくと、イスラエルには、再びモーセのような預言者は現れなかった、という記述があります。これは、モーセがイスラエルの預言者の中で最大の預言者であるという意味であります。しかし、同じ申命記が1818節では、こうも述べています。これは、モーセが告別説教の中で伝えた神様の言葉なのですが、「わたしは彼らのために、同胞の中からあなたのような預言者を立ててその口にわたしの言葉を授ける。彼はわたしが命じることをすべて彼らに告げるであろう。」こちらでは、モーセのような預言者が立てられる、と言われているのであります。一見矛盾しているようなことが言われているのでありますが、キリスト教会はこれを後のイエス・キリストのことを指していると理解して来たのであります。モーセ以降は、イスラエルの民は申命記で語られているような神様の掟の御言葉によって生きて行くことになったのでありますが、その後に、新しい預言者が現れて、その方が神様の言葉をイスラエルの民に告げると約束しておられるのであります。その預言者こそイエス・キリストであります。
 
先ほどの聖書朗読で新約聖書のコリントの信徒への手紙二37節以下を読みました。ここは大変難しい箇所で、一読しただけでは何を言おうとしているのか分かりにくいのでありますが、要は、モーセとキリストを比較しているのであります。ここに「顔に覆いを掛ける」ということが何度も出て来ます。この元は、モーセがシナイ山で十戒を与えられて下りて来た時に、モーセの顔が光を放っていたのですけれども、モーセが神様から聞いたことを語り終えると、顔に覆いを掛けたという出来事であります。それ以来、イスラエルの民は神様から与えられた十戒を初めとする掟の言葉に従って歩もうとするわけですが、掟によってイスラエルの民の罪が明らかにされたけれども、救いには至らなかった。それはちょうど、モーセの顔に覆いが掛けられて顔の輝きを見ることが出来なかったように、イスラエルの民の心に覆いがかけられてしまったような状態になっていたというのです。そして、その状態から解放するのがイエス・キリストだというわけです。14節から16節までの部分を読みます。しかし、彼らの考えは鈍くなってしまいました。今日に至るまで、古い契約が読まれる際に、この覆いは除かれずに掛かったままなのです。それはキリストにおいて取り除かれるものだからです。このため、今日に至るまでモーセの書が読まれるときは、いつでも彼らの心には覆いが掛かっています。しかし、主の方に向き直れば、覆いは取り去られます。
 
モーセはイスラエルの民をカナンの地に導き入れるところまでは出来ませんでした。彼の使命は後継者のヨシュアに譲らなければなりませんでした。それと重ね合わされるように、モーセは神様の掟(律法)を伝えることまではしましたが、罪からの救いにまで導く役割を果たすことは出来ませんでした。人々を神の国にまで導き入れることは出来なかったのであります。そのことは、イエス・キリストの出現を待たなければならなかったのであります。主イエス・キリストの十字架と復活の御業によって、私たちは罪が赦されて、神の国に入ることが出来るようにされました。18節を読みます。わたしたちは皆、顔の覆いを除かれて、鏡のように主の栄光を映し出しながら、栄光から栄光へと、主と同じ姿に造りかえられていきます。これは主の霊の働きによることです。

結.召天者の信仰を受け継いで

私たちが今日覚えている召天者たちは、このキリストへの信仰を与えられて天に召されました。先ほど述べたことの繰り返しになりますが、先輩たちが信仰を与えられたことの背後には、先輩たち本人が救われるだけではない、神様の大きな救いの御計画があった筈であります。先輩たちの周辺の方々や、次の世代の方々もまた救いに入れられるという御計画があった筈であります。先輩たちはその計画の完成を見ないまま天に召されました。そしてモーセが与えられていた使命がヨシュアに引き継がれたように、先輩たちが神様から与えられていた使命は、ご遺族や教会の私たちに引き継がそうとしておられるのであります。そして、神様は今も、私たちの顔に掛けられた覆いを取り除いて、主の御栄光を映し出すことが出来る者にしようとされているのであります。この神様の恵みの導きに応える一人ひとりでありたいと思います。
 
しかし、更にその先を考えてみますと、私たちが神様の恵みを受け入れて、信仰を継承する者となったとしても、それで神様の計画が完成するわけではありません。神様の救いの御業は、私たちを経て更に広がって行く筈であります。しかし、私たちがこの地上にいる間に出来ることは限られています。あの偉大なモーセでさえ、イスラエルの民がカナンに入るのを地上で見届けることは許されませんでした。私たちが地上にいる間に見ることが出来る神様の救いの御業も一部に過ぎません。しかし、神様は私たちにもその大きな御業の一部に参加させてくださることを信じて、仕える者とされたいと思います。
 
祈りましょう。

祈  り

救い主イエス・キリストの父なる神様!
 
モーセの死を通して、先に召された方々や、また私たち自身の死について考え、その背後にあるあなたの遠大な救いの御業に思いを馳せることが出来ましてありがとうございます。
 
どうか、私たちも、地上にいる間に、この御業に加えられ、次の世代へと恵みを引き継ぐ役割の一端を担わせて下さい。
 
主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

米子伝道所召天者記念礼拝説教<全原稿>       2011年11月6日  山本 清牧師 

 聖  書:申命記34:1−12
 説教題:「使命の継承」
          説教リストに戻る