序.耳のある者とは?

8月から聞いて参りました、イスラエルの民の出エジプトの物語が今日で「モーセの死」の場面になって終わる予定になっておりましたが、来週が召天者記念礼拝の日ですので、「モーセの死」の場面はその時の方が相応しいように思いましたので、今日は、116日に取り上げられる予定であったマタイによる福音書の「種を蒔く人の譬え」から御言葉を聴くことにいたしました。
 
明日1031日は宗教改革記念日であります。宗教改革の旗印の一つは「聖書の御言葉に立つ」ということでありました。「種蒔きの譬え」は、御言葉を種に譬えたものです。そういう意味で、宗教改革記念日を前にして聞くのに相応しい譬えであると言えるかもしれません。
 
ところで、先ほど朗読いたしました箇所の最後に、「耳のある者は聞きなさい」と言われています。聴覚障害者には申し訳ありませんが、正常な耳を持っている者は皆、聞くことが出来ます。しかし、聞こえても、聞こうとしなかったり、受け入れないことがあります。併行記事のマルコとルカでは「聞く耳のある者は聞きなさい」と言われています。聞こえる耳を持っているなら、しっかりと聞いて、受けとめなさいということであります。ここでは、主イエスが語られた「種を蒔く人の譬え」をしっかりと聞いて、受けとめなさい、ということでありますし、この譬えで示されているように、御言葉の種を、悪い土地で駄目にしてしまうのではなく、良い土地で受け止めて、実を結ばせなさい、ということでありましょう。
 
そういうように考えると、この譬えは大変分かり易い譬えなのです。けれども、では、「聞く耳のある者になるにはどうすればよいのか、御言葉をきっちり受け止めることの出来る耳を持つとはどういうことなのかとか、どうすれば私たちは良い土地になることが出来るのか、と考えると、この譬えは決して分かり易い譬えではありません。しかし今日は、主イエスはこの譬えをもって、私たちと「対話」をしようとされています。この譬えによって主の御旨を語ろうとしておられます。そして、「耳のある者」へと招こうとしておられます。ですから、しばらくこの譬えに耳を傾けたいと思います。

1.種蒔きに出て行った

さて、131節にはこう書かれています。その日、イエスは家を出て、湖のほとりに座っておられた。この日主イエスは、人々に福音を語ろうと家を出発なさったのであります。主イエスは最初から「耳のある者」だけを密かに家に呼んでお話しされるのではありません。自ら出て行って、多くの人々に語ろうとされるのであります。湖のほとりに来られると、まだ人々は来ていなかったので、座って待っておられました。主イエスは今日も、私たちに御言葉を与えようと、早くから私たちを待っていて下さるお方であります。
 
私たちは、どれほど御言葉を求めてここにやって来たでしょうか。いつものように習慣的にやって来ただけかもしれません。何か良いものが与えられるかもしれないと期待はしていても、どうしても来たいという思いはなかったかもしれません。都合が悪ければ休んでいたかもしれません。あるいは、体のことや精神的な問題で、癒しを与えられたいとの思いをもって、ここに来ることがあるかもしれません。何か願い事を叶えて欲しいという強い思いを持って来ることがあるかもしれません。しかしそこには、自分の利益や満足を求める心しかなくて、御言葉に耳を傾けたいとか、主に仕えようとの思いを欠いているかもしれません。そのような不心得な私たちでありますけれども、主イエスは私たちに御言葉を語ろうとして待っておられるのであります。
 
2節を見ますと、大勢の群衆がそばに集まって来たので、イエスは舟に乗って腰を下ろされた、とあり、群衆は岸辺に立っていました。彼らはガリラヤにおける主イエスの数々の御業を見聞きした人々でありましょう。主イエスに少しでも近づいて、癒しを受けたい、恵みにあずかりたいと思って、集まって来ました。しかし、主イエスはそのような群衆を避けるように舟に乗り込まれます。主が大勢の人々にお話しになる時は、このように舟に乗って、岸辺に向かって語られたようであります。それは、大勢の人々に声が聞こえるためということもあったかも知れませんが、もう一つの意味は、奇跡や癒しを求める群衆から距離を置いて、御言葉を語り・聞くという関係をつくるためだったのではないかと思われます。
 
主イエスは私たちの健康のことや、弱った体のことや、日頃の生活の中で直面している問題を御存知ないわけではありません。私たちの願いや祈りに耳を傾けないお方ではありません。そして実際に私たちを癒して下さるお方であります。しかし主は、私たちに御言葉を語り聞かせ、それを聞くという関係を大切にされて、そのような時と場を作られるのであります。礼拝はそのような時であります。

2.蒔けど実を結ばない現実

さて、主イエスは3節以下で、「種を蒔く人の譬え」を語られました。譬えの冒頭で、「種を蒔く人が種蒔きに出て行った」と語っておられます。この「出て行った」という言葉は、1節の「イエスは家を出て」の「出て」と同じ言葉が使われています。つまり、これから語ろうとされている「種を蒔く人の譬え」は、主イエス御自身が御言葉を語ろうとして群衆の前に出て来られたことと重ね合わされているということであります。そして、この「種蒔く人の譬え」は、今、主イエスがこの礼拝に来て御言葉を語って下さり、それを聞いている私たちの状態と重ね合わせて聞くように仕向けておられるということでもあります。
 
譬えを見て行きますと、4節から7節では、種を蒔いている間に、ある種は道端に落ち、鳥が来て食べてしまい、ほかの種は石だらけの所に落ちて日が昇ると根がないので枯れてしまい、ほかの種は茨の間に落ちて、茨にふさがれて成長できない、というのです。私たちが想像する種蒔きは、畑を耕し畝を作って、一粒ずつ丁寧に蒔いて、土を被せるのですが、当時のユダヤ地方の種蒔きは、そうではなくて、無造作に種をばら撒いておいて、その後で土を耕して種に土をかけたのだそうです。ですから、種は道端や、石地や茨の間にも落ちるわけです。
 
これらの譬えについて、18節以下で主イエス自身が説明されていますが、最初の道端に蒔かれたものについては、19節で「だれでも御国の言葉を聞いて悟らなければ、悪い者が来て、心の中に蒔かれたものを奪い取る」と言われています。「御国の言葉」と言われていますように、神の国がイエス・キリストによって始まっているという福音を聞いても受け入れようとしない人のことです。道は人や車で踏み固められているので、種を受け入れて育てることができません。道の役目は種を育てることにあるのではなく、人や車がスムーズに通ることです。道は種が根付かないからといって誰も非難はいたしません。かえって道は、ある意味では畑よりも大切な役目を果たしていると言えるかもしれません。このような道端の土地というのは、この世の大切な仕事で心が一杯になってしまっている人とか、この世的な価値観で人生が支配されてしまっていて、福音を受け入れる余地のない人を表していると言えるのではないでしょうか。これは、いくら教会に来るように誘っても来ようとしない人を当てはめることも出来ますが、実は、礼拝に来て御言葉を聞いていながらも、その御言葉が生活に反映されていない状態のことが言い表されていると見てよいのではないでしょうか。そういう状態でありますと、鳥が来て種を食べてしまうように、私たちの中に蒔かれた御言葉の種が「悪い者」即ちサタンによって奪い去られてしまうのであります。教会に来ていながら、実際の行動や判断はサタンに支配されてしまうので、神の国に入ることが出来ないという、恐ろしい結果を招くことになってしまいます。
 
次に、石だらけで土の少ない所に落ちた種ですが、20,21節にある主イエスの説明によると、「御言葉を聞いて、すぐ喜んで受け入れるが、自分には根がないので、しばらくは続いても、御言葉のために艱難や迫害が起こると、すぐにつまずいてしまう人」であります。この人は御言葉を喜んで受け入れるのであります。しかし、気に入った御言葉だけを有難がるとか、教会の雰囲気が好きだといった上辺だけを喜んでいて、御言葉が生活の根底に根づいていないので、困難なこと・自分に都合が悪いことが起こると、礼拝に来なくなったり、教会から離れてしまうようなケースが考えられます。これも、感情的・雰囲気的な信仰を持っている人だけのことではなくて、誰でも経験することでありまして、苦しいこと・嫌なことがあると、御言葉に助けを求めるよりも、御言葉から遠ざかってしまうことが、往々にしてあります。
 
三つ目は茨の中に落ちた種ですが、22節の主イエスの説明では、「御言葉を聞くが、世の思い煩いや富の誘惑が御言葉を覆いふさいで、実らない人」であります。ここでは御言葉は芽を出して育って、枯れてしまわないのです。けれども茨が覆っているために、実を結ぶことが出来ないのです。「茨」とは何でしょう。「世の思いや富の誘惑」と言われています。信仰は大切だと考え、教会生活もちゃんと続けているのですが、同時に、世間的な地位や名誉や、この世の富や楽しみを得ることにも関心が深くて、うまく両立させている人のことであります。御言葉に喜びを感じるのですが、この世的な満足も得たいのです。これは多かれ少なかれ、私たち皆の姿であると言ってよいでしょう。しかし、これでは結局、実は結ばない。つまり神の国に入ることが出来ないということであります。厳しい警告であります。
 
以上、三種類の問題のある土地について見て来ました。これらは、人間にはこのような三種類の人があって、誰それは一番目に当てはまる、あの人は二番目に近いとか、私は三番目に当る、といったことを考えるための譬ではありません。全ての人が自分の内に、三種類の性質を持っていることに、気づかせるための譬でありましょう。
 
それならば、私たちはどうすればよいのでしょうか。よく自覚して、謙虚に反省せよ、ということでしょうか。あるいは御言葉の聞き方が充分でないから、もっと深く学べということでしょうか。それとも、御言葉を聞くだけで、実行していないところに問題がある、ということでしょうか。
 
このことに関して、10節から17節のところで、弟子たちが「なぜ、あの人たちにはたとえを用いてお話しになるのですか」と質問したのに対して、主イエスはイザヤ書を引用しながら、不思議なことを弟子たちに語っておられます。14節の二重鉤の引用部分を読むと、『あなたたちは聞くには聞くが、決して理解せず、見るには見るが、決して認めない。この民の心は鈍り、耳は遠くなり、目は閉じてしまった。こうして、彼らは目で見ることなく、耳で聞くことなく、心で理解せず、悔い改めない。わたしは彼らをいやさない』とあります。これは非常に厳しい言葉でありますが、鋭く現実を述べられたのであります。つまり、御言葉を聞いても実を結ばないという現実は、譬えを聞いても何も変わらなくて、悔い改めは起こらない、と仰るのであります。主イエスの解説を聞くと、何か分かったような気にもなるのですが、結局は何も起こらないと言われるのです。私たちが反省したり、深く学んだり、決心したりしても、実を結ぶことはないのであります。
 
では、何のためにこんな譬えを話されたのでしょうか。

3.御言葉を悟る人

主イエスの譬では四番目の種が出て来ます。8節に「ほかの種は、良い土地に落ち、実を結んで、あるものは百倍、あるものは六十倍、あるものは三十倍にもなった」と言われています。そして、主イエスの説明の23節では、手短かに「良い土地に蒔かれたものとは、御言葉を聞いて悟る人である」と語られています。
 
実を結ばない土地ばかりでなく、多くの実を結ぶ良い土地もあるのです。その良い土地とは、御言葉を聞いて悟る人だと言われています。「御言葉を聞いて悟る人」とはどういう人のことでしょうか。知的理解力のある人という意味でしょうか。聖書のことを良く勉強している人という意味でしょうか。どうもそういうことではなさそうです。主イエスは良い土地が持つべき条件や能力について、何も述べておられません。むしろ、石だらけであったり、茨が生い茂っているのではなくて、何もない方が相応しいのかもしれません。11節で主イエスは弟子たちにこう言っておられます。「あなたがたは天の国の秘密を悟ることが許されているが、あの人たちには許されていないからである。」つまり、悟るか悟らないかは、本人の能力や努力によるよりも、神様が悟ることを許しておられるかどうかに係っているということです。そこには神様の召しが働いているということでしょう。聞いたことを悟るということは、理解するとか納得するということであるよりも、聞いた事柄を自分のこととして受け止めるようになるということ、自分が捉えられ、召されていると感じて、自分の生き方の中に新しい活動が惹き起こされるということです。そこに神様から差し出されている救いの手があることを認め、その手を捉えようとすることです。これが「悟る」と言われていることであります。
 
ところで、悟る人と悟れない人がいるということは、定められた運命のようなものなのでしょうか。そうではありません。同じ人でも、悟れる時と、悟れない時があります。一旦、悟った人でも、御言葉を受け入れられないようになることがあります。長年、悟ることが出来なかった人が、ある日、目を覚まされたかのように御言葉に動かされることがあります。主イエスが、ある人を捉えようと、御言葉の種を蒔かれる時、その人は悟ることが出来ます。そして、御言葉に聞き従って、動き始めることが出来るのです。
 

4.良い土地とされる

そこでもう一度、主イエスの語られた譬に戻りたいと思います。譬の初めに3節で、「種を蒔く人が種蒔きに出て行った」と言われています。「種を蒔く人」とは主イエスであり、「種」とは主が語られる御言葉であることは既に明らかですが、その種が豊かな実を結ぶのは、良い土地に落ちた種だということで、良い土地とは何かということを考えて来ましたが、ここまでで分かったことは、土地の良さが決め手ではないということであります。では、何が豊かな実を結ばせるのかというと、第一は「種」自体が持っている力であります。種の繁殖力・成長力が三十倍、六十倍、百倍の実を結ばせるのであります。しかし、種が良くても、よい土地に蒔かれなければならないのですが、当時のユダヤの農法では、農夫は種を蒔いてから土地を耕すのであります。ということは、土地を良くするのは、種を蒔く農夫の働きであります。これが、豊かな実を結ぶのに欠かせない第二のことであります。元々の土地の良し悪しよりも、農夫がその土地にどれだけ力を注ぐかに係っています。石だらけの土地であっても、鋤を入れて耕せば良い土地に変わります。茨が生い茂った土地でも、茨を丁寧に取り除けば、種は何物にも邪魔されずに成長することが出来ます。
 つまり、御言葉が豊かな実を結ぶのは、一つには御言葉自体が持っている計り知ることの出来ない成長力によるのであり、今一つは、農夫である主イエス・キリスト御自身が、私たちを良い土地になるように、力を込めて、疲れを厭わず耕して下さるからであります。主イエス・キリストの十字架の愛が、悪い土地をも良い土地に変えて下さるのであります。私たちは皆、石地であり、茨が生い茂った土地であります。せっかくの御言葉という良い種が落ちても、良い実を結ぶことが出来ません。しかし、主イエスが御言葉を私たちに蒔いて下さるだけでなく、私たち自体を、御言葉が育つように、愛を込めて、自ら犠牲にして。造り変えて下さるのであります。

結.あなたがたの耳は聞いているから幸いだ

主イエスは譬の最後で、「耳のある者は聞きなさい」と仰いました。<良い耳を持たないものは駄目だ>という、突き放したような言い方にも聞こえます。しかし、これは、御言葉を聞くことがなければ、何も始まらないし、何も生じないという、厳しい現実を語られたものであります。しかし、耳は開かれるのであります。硬い土地も耕して下さるように、私たちの頑なな心も開いて下さるのであります。
 
6節で、弟子たちについて、こう言われています。「しかし、あなたがたの目は見ているから幸いだ。あなたがたの耳は聞いているから幸いだ。」主イエスは、大勢の群衆の中から弟子たちを召して、御言葉を語り、聞く耳を持つ者たちとし、御言葉を宣べ伝える者とされました。主は、私たちのようなものをも、召し出して、閉じた耳をも開いて、御言葉を聞かせていて下さいます。そして、その御言葉が私たちの内で成長するように、私たちを耕して下さり、三十倍、六十倍、百倍の実をつけることが出来るようにして下さるのであります。ですから、主は私たちにも、「あなたがたの耳は聞いているから幸いだ」と言って下さるのであります。祈りましょう。
 
祈  り

恵み深い父なる神様!
 
今日も、イエス・キリストによって私たちに御言葉を蒔いて下さり、憐れみと力に満ちた御手をもって、私たちの頑なな心を耕して、御言葉を育てることの出来る畑にして下さる恵みを覚えて、感謝いたします。私たちは何の素養も力もなく、様々なものに汚されたり、覆われたりしてしまいがちな者でありますが、どうか、主が耕し続けて下さいますように。そしてどうか、良き実を結ぶ救いの御業の一端を担うことが出来る者とならせて下さい。
 
主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

米子伝道所主日礼拝説教<全原稿>       2011年10月30日  山本 清牧師 

 聖  書:マタイによる福音書13:1−23
 説教題:「良い土地に落ちた種」
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