「あなたは炎の蛇を造り、旗竿の先に掲げよ。蛇にかまれた者がそれを見上げれば、命を得る。」          (民数記218 

 イスラエルの民は40年間にわたる荒れ野の旅の末、エドム地域を通過して約束の地カナンに入ろうとしたが、エドム王に拒否された(2018)。そのため困難が伴う迂回路を進むと、民は途中で耐え切れなくなって、「なぜ、我々をエジプトから導き上ったのですか。荒れ野で死なせるためですか」とつぶやき始め、「こんな粗末な食物では、気力もうせてしまいます」と、主が備えてくださったマナに対する不満さえ口にするのである。
 これに対して主は「炎の蛇(毒蛇)」を送られたので、多くの死者が出た。神に対するつぶやきは命を損なうことにつながる。イスラエルの民は「炎の蛇」の出現が神の裁きであることを知って、罪を悔い改めた。モーセが民の求めに応じて執り成しの祈りをすると、主は標記のように命じられた。「青銅の蛇を拝む」ことは、当時の土俗信仰を思わせるものであるが、人々が悔い改めて神を仰ぐならば罪が赦されるという救いの恵みを、目に見える形で分かるようにされたのであろう。このようにして神は、困難を伴う迂回路を通らせることによって、イスラエルの民に悔い改めの機会を与え、神こそが命の源であることを示されたのだ。
 ヨハネ福音書の3章には、主イエスとニコデモとの対話が記されている。ニコデモは、回り道をせず、エリートコースを進んでユダヤ議会の議員の地位を手にし、その延長上で、更にイエスから良きものを受けて、一段上を目指そうと考えたのであろう。しかし主イエスは、「人は新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない」と言われ、思いもよらぬ迂回路を歩むことを勧められる。そして、「モーセが荒れ野で蛇を上げたように、人の子も上げられなければならない」と言われた。これは、主イエスが十字架への道を歩もうとしておられることを示されたのだ。そしてニコデモを、主を信じて歩む新しい迂回路へと導こうとされたのである。
 私たちも、これまでの人生の延長上の、歩きやすく見える道を進もうとする。だが、主は私たちに「待った」をかけ、困難な迂回路を示される。そこで私たちは不平不満を抱き、罪を犯してしまう。しかし、そこで悔い改めて、十字架の主を仰ぐことへと導かれるならば、永遠の命に至る道へと招き入れられる。避けたい迂回路は、実は主が備えられた恵みの道、救いの道なのである。 

米子伝道所主日礼拝説教<要 旨> 2011年10月23日  山本 清牧師 

 聖  書:民数記21:4−9
 説教題:「人の子は上げられる」
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