序.迂回する恵み

8月以来、イスラエルの民の出エジプトの旅のことが書かれた箇所の中から大切な場面を取り上げて、御言葉を聴いて参りました。先々週は、約束の地カナンを目前にして、12人の者が偵察に行って、その報告を聞いた場面でしたが、カナンの地は神様が約束された通りの豊かな地であったのですが、そこに住む人たちが強そうで、城壁も立派であったということを聞いて、イスラエルの人々は恐れをなして、またしてもエジプトへ帰ろうと言い出すのです。そんな中で偵察に同行したヨシュアとカレブの二人は、主が共におられるのだから、恐れてはならないと言うのですが、人々は二人を打ち殺そうとまでします。神様は、そんなイスラエルの人々を疫病で撃つとおっしゃり、結局、二十歳以上の者はヨシュアとカレブを除いて、だれ一人、約束の地に入ることが出来なくなるのであります。せっかくカナンを目前にしていたのに、以来約38年間、荒れ野で足踏みをしなければならないことになるわけです。
 
さて、今日の21章の前の20章の14節以下に、「エドム王との交渉」のことが書かれています。イスラエルの民はカデシュに留まっていました。そこからエドム地域を通ってカナンの地に入ろうと計画して、エドム王と交渉したのです。モーセから使わされた使者は、エジプトから出て来た経緯を説明した上で、エドムを通る際には。畑やぶどう畑の中を通ったり井戸の水を飲んだりしないことを約束しました。ところがエドム人は、「わたしの領内を通ってはならない。もし、通るようなことがあれば、剣をとってお前を迎え撃つ」(2018)と言って、通過することを拒否するのです。こういうわけで、イスラエルの民はエドムの領土を迂回しなければならないことになりました。神様はここに、また一つの試練を用意されたのであります。
 
私たちの人生の旅路においても、迂回(回り道)を強いられることがあります。思い通りの真直ぐで平坦な道を進めないことがあります。無駄と思えることをしなければならないことや、困難を伴う道を歩まなければならないことがあります。それは、自分の力不足であったり、運が悪かったり、環境が整わなかったり、この場合のように、相手との交渉がうまく行かなかったりということで、困難が降りかかって来たように思えるのです。しかし、そこには神様のお考えが込められているのではないでしょうか。そしてそこには、私たちの思いを超えた恵みが隠されているのではないでしょうか。
 
今日は、イスラエルの民がエドムの地を通ることが出来ずに、迂回せざるを得なかった場面を通して、迂回することによって与えられる神様の恵みについて聴き取りたいと思うのであります。

1.こんな粗末な食物では

21章に入ると、1節から3節には、ネゲブに住むカナン人との戦いのことが書かれています。彼らはイスラエルが進んで来ると聞いて、先制攻撃を仕掛けて来て、イスラエルの何人かを捕虜として捕らえて行きました。それで、イスラエルは神様に、彼らの町を絶滅させるという誓いを立てます。神様はその誓いを聞き入れてくださり、彼らの町々を滅ぼすことが出来ました。そこは後に、イスラエルのユダ族とシメオン族が住むことになった地域と考えられています。
 
そこまではよかったのですが、そこから先、カナンに向かって進むのに、エドムの領土を通過したかったのですが、エドム王の許可が得られなかったので、迂回して、葦の海の道を通って行くことになったことが4節に記されています。この葦の海の道というのがどこなのかはっきりしていないのですが、アカバ湾と死海とを結ぶルートではないかと考えられます(地図参照)。この道はエドム地域を通過する「王の道」(2017)に比べて、困難な道であったようです。イスラエルの民は途中で耐えきれなくなって、またしても神様とモーセに逆らってしまうのであります。「耐えきれなくなって」という言葉の文字通りの意味は、「魂が短くなる」ということです。民の心に余裕がなくなって、心が狭くなってしまい、忍耐力が失われてしまった、ということです。彼らはこう言っております。「なぜ、我々をエジプトから導き上ったのですか。荒れ野で死なせるためですか。パンも水もなく、こんな粗末な食物では、気力もうせてしまいます。」(5)イスラエルの民の持病であるつぶやきがまた始まりました。これまでも、荒れ野の旅で困難なことが起こるたびに、彼らはエジプトから連れ出されたことに文句を言いました。葦の海を前にしてエジプト軍に追われた時も、水や食糧が不足した時にも、カデシュで偵察の報告を聞いた時にも、エジプトに帰ろうと言い出しました。エジプトで奴隷であった時の惨めさや、神様の驚くべき御業によって数々の苦難を乗り越えて来ることが出来たことも、すっかり忘れてしまったかのようであります。そして、「こんな粗末な食物では」と、神様が毎日備えてくださっているマナを指して不満を口にするのであります。
 
私たちもまた、神様の恵みに慣れて、感謝することを忘れて、何か都合の悪いことがあると、つぶやいたり、不満な思いを抱いてしまいます。現状に満足していては進歩がないということはあります。けれども、現状に満足できなくて、昔が良かったなどと考えてしまうところからは、前進はありません。まして神様から受けた恵み、特に主イエス・キリストによって罪から救われたという私たちにとっての「出エジプト」の恵みを忘れて、昔の方がよかったと思ったり、キリストを知らなかった時の生活に戻ってしまうならば、そこからは何も良いものが生み出される筈がありません。
 
神様が私たちに備えて下さる道は、たとえ私たちの目には辛いだけの道に見えても、本当はその時の私たちに相応しい道なのです。その道を通ることによって、私たちのために備えて下さっているものに出会ことが出来る筈です。その恵みを受け損ねないようにしなければなりません。

2.炎の蛇

6節によると、つぶやくイスラエルの民に向かって、主は「炎の蛇」を送られました。砂漠には多くの種類の蛇が生息していたようですが、そのうち噛まれると激痛と死をもたらす毒蛇のことを「炎の蛇」と呼んだようです。この毒蛇が民をかみ、イスラエルの民の中から多くの死者が出ました。
 
この出来事を私たちは厳しく受け止める必要があるのではないでしょうか。つまり、つぶやきは命を損なうことにつながるということであります。私たちが困難に出遭ったときに、神様の恵みを忘れて、感謝を失って、神様から示された道を歩まずに、つぶやいてばかりいると、蛇の毒が体に回って命を落とすように、私たちの内側から毒されて、私たちに与えられている大切な命、つまり神様と良い関係をもって生きる命を落とすことにつながるということです。私たちが生きているということは、ただ肉体的に健康で精神的にも満ち足りた生活をしているということではありません。肝心なことは神様との関係が健全であるかどうかということです。つぶやきは、それがたとえ自分の置かれている状況や、周りの人間に向かっているものであっても、それは神様に向かうことになります。イスラエルの民がモーセに対してつぶやいたとしても、それは神様に対してつぶやいたことになります。するとそのつぶやきは、毒となって全身を毒することになります。そして、神様との関係という生命線が断たれることにつながります。
 
パウロはコリントの信徒への手紙の中で、この民数記の記事を念頭に置きながら、こう言っております。「また、彼らの中のある者がしたように、キリストを試みないようにしよう。試みた者は、蛇にかまれて滅びました。彼らの中には不平を言う者がいたが、あなたがたはそのように不平を言ってはいけない。不平を言った者は、滅ぼす者に滅ぼされました。これらのことは前例として彼らに起こったのです。」(Tコリント10911

3.罪の告白

さて、イスラエルの民は、「炎の蛇」の出現が神様の裁きであることを知って、モーセのもとに来て言いました。「わたしたちは主とあなたを非難して、罪を犯しました。主に祈って、わたしたちから蛇を取り除いてください。」7節)彼らは自分たちの罪を認めております。箴言に「罪を隠している者は栄えない。告白して罪を捨てる者は憐れみを受ける」(箴言2813)という言葉がありますが、罪に気づいたらすぐに悔い改めて祈ることが大切であります。そうすることによって、蛇の毒が体に回るのを防ぐことが出来ます。そして神様との関係を回復することが出来ます。
 
民の求めに応じて、モーセは民にために主に祈りました。モーセはこれまでに何度もイスラエルの民から罵倒されましたが、その度にモーセは神様に執り成しの祈りをしました。今度も我が侭なイスラエルの民のために、祈っています。これは、主イエスが十字架の上で、「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです」(ルカ2334)と祈られたことを思い起こさせます。モーセは救い主でも何でもありません。モーセもまた、神様の御言葉に背いたために、カナンの地に入ることを許されない罪人の一人に過ぎません。しかし、モーセはここでもイエス・キリストを指し示す役割をしています。
 
私たちは自らの罪を告白して、悔い改めの祈りをしなければならない者でありますが、そのような者であっても、他の人の罪のために、また民の罪のために執り成しの祈りをすることも許されているのであります。この国には、神様を知らない多くの人がいます。その人たちが罪を犯して、命を失う毒が回らないために、祈ることが許されています。そして、私たち全ての者の罪を背負って、十字架の上で執り成して下さったイエス・キリストを指し示す役割を、私たちが担うことさえ許されています。モーセはそういう私たちの役割を先取りした人と言ってよいでしょう。

4.旗竿の先に掲げた蛇

モーセが民のために祈りますと、主はモーセにこう命じられました。「あなたは炎の蛇を造り、旗竿の先に掲げよ。蛇にかまれた者がそれを見上げれば、命を得る。」8節)モーセはこの命令を受けて、青銅で一つの蛇を造り、旗竿の先に掲げると、蛇が人をかんでも、その人が青銅の蛇を仰ぐと、命を得た9節)、というのであります。
 
青銅の蛇を拝むということは、おそらく当時の土俗信仰としてあって、極めて迷信的なもので、偶像礼拝にもつながりかねないことですが、ここで神様が敢えてこのようなことを命じられたのは、蛇にかまれた人が実際に癒された事実と結びつけて、神様の恵みが目に見える形で分かるためのシンボルとして、このようなことを命じられたのではないかと考えられます。青銅の蛇自体に魔術的な癒しの力があるわけではなくて、癒されるのはあくまでも神様御自身であり、人々が罪に気付いて悔い改めて、神様を改めて見上げることに対応して、神様が命を救って下さることを、旗竿の先に掲げられた青銅の蛇を仰ぐことではっきりと示されたということでしょう。大事なことは、自らの罪に気付いて、それを告白し、神様を仰ぐということであります。
 
イスラエルの民は、エドム王の拒否に出会って、困難な迂回路を通らなければなりませんでした。そのことから、イスラエルの民の持病であるつぶやきが出て来てしまいました。そのために、神様から「炎の蛇」が送られて、命を落とす人が多数出てしまいました。けれども、そのことが、イスラエルの民の悔い改めにつながりました。そして神様は旗竿の先に青銅の蛇を掲げることによって、神様が赦しの神であり、命を得させて下さるお方であることを、再確認することが出来ました。神様がエドムの王を用いて、迂回しなければならないようにされたのは、イスラエルの民に悔い改めの機会を与え、神様こそが命の源であられることを知らせるためであったのです。困難な迂回の道は神様が備えられた恵みの道であったのであります。

5.人の子は上げられる

更に、私たちは、新約聖書を読む時に、この青銅の蛇が旗竿の先に掲げられた出来事が、神様がなさったもっと大きな救いの出来事を指し示していることに目を向けさせられるのであります。
 
ヨハネ福音書3章に主イエスとニコデモとの対話が記されています。(新p167を開いて下さい。) ニコデモはファリサイ派の議員でありました。恐らく、これまで回り道をせず、エリートコースを歩んで、その地位を獲得した人であると思われます。その人が夜、密かに主イエスに教えを乞うためにやって来ました。自分の生き方に何か物足りないものを感じていたのでありましょう。それで主イエスから教えを受けることによって、もう一段上の生き方をしたいと考えたのでしょう。ところが主イエスはニコデモに、こう言われました。「はっきり言っておく。人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない。」ニコデモはこれまでの生き方の延長上に、より優れた生き方を積み重ねようとしていました。しかし、主イエスはもう一度やり直さないと駄目だということをおっしゃったのであります。それが遠回りするようで、近道だということでしょう。迂回路を歩き直すことを勧められたのであります。ニコデモは面食らって、「年をとった者が、どうして生まれることができましょう」と言いますと、主イエスは「だれでも水と霊とによって生まれなければ、神の国に入ることはできない」と仰います。これまでの延長線上で、自分の力で、より上の生き方を求めたり、神の国に入ろうとしても駄目だ、ということです。ニコデモは自分で進もうとしていた道を主イエスによってふさがれたのであります。ちょうど、イスラエルの民がエドムの領土を通る道をふさがれたのと同じであります。主イエスはその後、「あなたはイスラエルの教師でありながら、こんなことが分からないのか」と仰りながら、13節に至ると、御自分のことを話し始められます。「天から降ってきた者、すなわち人の子のほかには、天に上った者はだれもいない。」つまり、もしニコデモが天のこと、神の国を求めるのであれば、これまで彼が自分で築いて来た道の延長上に、主イエスから何か教えをいただくことを付け加えることによって先に進む、という道ではなくて、天から降って来た、主イエス・キリストによって備えられる全く新しい道を歩まなければならない、ということであります。
 
そう仰ったのに続いて1415節で、主イエスは、今日私たちが見て来た民数記に書かれている出来事に触れながら、これから御自分がなそうとしておられることを語られます。「そして、モーセが荒れ野で蛇を上げたように、人の子も上げられねばならない。それは、信じる者が皆、人の子によって永遠の命を得るためである」と。民数記に書かれている出来事については、ニコデモはもちろん知っていた筈です。しかし、そこに書かれているイスラエルの民が迂回したことによって悔い改めに導かれ、救いを得たことが、自分に関わることだとは思っても見なかったでしょう。主イエスは今、そのニコデモを、御自身によって備えられる全く新しい道へと導こうとされているのであります。この時点では、主イエスが仰る「人の子も上げられねばならない」ということが何を意味するかは全く分からなかったでしょう。しかし、私たちは知っています。「荒れ野で蛇を上げる」というのは、主イエスが十字架に上げられることを指し示しています。旗竿の上に掲げられた蛇を仰ぐことによって、イスラエルの人々が罪を赦されて、命を得ることが出来たように、私たちは、十字架に上げられて、私たちの罪の身代わりになって下さったイエス・キリストを仰ぐことによって、罪が赦されて、新しい命に甦って、永遠の命を得ることが出来るのであります。
 ニコデモがその後、主イエスとどのように関わって行ったのかは、詳しく書かれていませんが、主イエスが十字架にお架かりになった後、主イエスの埋葬の手伝いをしたことが書かれています。恐らく十字架の場面にいて、かつて主イエスが自分に仰ったことを思い出していたでしょうし、新しく誕生する教会の一員になっていたからこそ、このように聖書に書き残されることになったのではないかと考えられています。ユダヤ議会の議員の地位がどうなったかは分かりませんが、彼は主イエスがおっしゃったように、新しく生まれ変わったのでしょう。彼にとっては思わぬ迂回路を歩まされることになった訳ですが、それが救いに至る近道だったのであります。

結.私たちの迂回路

イスラエルの民もニコデモも、楽そうに見える道を進んで、すばらしい地に入ろうとしました。私たちもこれまでの延長上の、歩きやすく見える道を進もうといたします。そして、困難が待ち受けている迂回路を避けようといたします。しかし、神様は私たちに「待った」をかけられます。そして迂回路へ導かれます。そこは私たちが望んでいたような楽な道ではありません。神様への不平不満も出て来るような道であります。隠れていた私たちの罪が露わにされるかもしれません。そのために、神様からの大きな裁きも受けなければならないかもしれません。しかし、そこで、私たちは悔い改めの機会が与えられるのであります。生れ変わる機会が備えられるのであります。そして、十字架の主イエス・キリストを仰ぐことへと導かれるのであります。本物の信仰へと招き入れられるのであります。そして、永遠の命を与えられるのであります。避けたい迂回路は、実は私たちにとっての、恵みの道、救いの道なのであります。そこには十字架の主イエスが待っていてくださるのであります。今日は、御言葉をもって、その迂回路へと招き入れて下さったのです。
 
祈りましょう。

祈  り

憐れみ深い主イエス・キリストの父なる神様!
 
私たちは困難と思える道を避けて、自分が辿って来た道の延長上を進もうといたしますが、今、イスラエルが通らされた迂回路とニコデモが歩かされた生れ変わる道を示され、そこに十字架の救いの道が備えられていることを知らされ、感謝いたします。私たちは、困難に出会うと、あなたを呪い、罪を犯してしまうものであります。どうか、主イエスの十字架の故にお赦しください。どうか、困難と思える迂回路の向うにある救いの恵みにあずかる者とならせて下さい。
 
今、多くの人が災害の被害を受けて、困難な状況にあります。そしてわが国も先が見えにくい困難な状況にあります。そして、教会も困難な現実を前にしています。しかし、この迂回路の中に、主にある希望の道を見出すことが出来ますように、どうかこの困難な状況の中で、多くの人がまことの救いに入れられますように、お導き下さい。
 
主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

米子伝道所主日礼拝説教<全原稿>       2011年10月23日  山本 清牧師 

 聖  書:民数記21:4−9
 説教題:「人の子は上げられる」
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