今朝はお招きに与り、米子伝道所の特別伝道礼拝にご奉仕させていただくことになりました。まずこのことを神様に感謝し、そして皆様の上に神様の恵みと慈しみとが限りなく豊かでありますようにお祈りしたいと思います。
 さて、私は今回このように米子まで来させていただいて皆さんとお会いすることが出来た訳ですが、このように「お会いする」ということならば、わたしたちは比較的様々な場所や機会において、いろいろな人と「お会いする」ことがあるだろうと思います。一日中家に閉じこもって誰とも会わないということでもないかぎり、外に出ればたいていだれかと「会う」ものです。実際に私たちは毎日毎日いろんな人とお会いしながら生きています。むしろ、私たちの活動の大半は、人と会うことと関わっていると思います。家庭においても教会においても地域においても、そこには人がおり、人との関係がそこにあるのです。
 そして私たちは、人との関係によって大きく影響を受けます。私たちの喜びも悲しみもほとんどは人との関係の中から生まれるものであり、わたしたちがどういう関係を結ぶかによって、私たちの人生は大きく変わってくるのです。どのような出会いをするかによって、その人の人生は大きく変わるということです。昔はよく「白馬の王子様」という、年頃の娘さんがすてきな出会いを期待する表現がありました。みなさんも、出会いによって自分の人生がバラ色に変わらないかしらという淡い期待を抱かれた方もおありではないでしょうか。
 実際に誰と出会うか、出会わないかという事が、私たちの人生を決定づけるものです。みなさんもそれぞれの歩みを振り返ってご覧になられると、もしあの時、あの人と出会っていなかったらどうなっていただろうか、と回想されることがあるのではないでしょうか。特に決定的なのは妻や夫との出会いでしょう。私も妻がおりますけれども、私と出会わなければもっと幸せになっていただろうか、などと思ったりします。出会いがその人の人生を大きく変えるという事は、みなさんもそれぞれの御経験上うなずいていただける事と思います。
 けれども残念なことに、この出会いというのは私たちが望んだからといって起こるものではないのです。誰も出会おうと思って出会える人はいません。そう考えますと、あながち「運命の糸」というような考えも、見当はずれではないのかもしれません。つまり、信仰的に言い換えますと、自分とある人とが出会うという事の中には、自分の思いを超えた、神様の御手の中にある必然というものがあったのではないかということであります。
 そこで、今朝お読みいただいた聖書の物語におきましては、一人のサマリア人女性と主イエスとの出会いが描かれておりまして、ここに私たちは神様の必然の中にある人間の姿というものを見る思いがするのです。主イエスとお会いしたこのサマリアの女性にすれば、この日主イエスに出会ったのは偶然以外の何ものでもなかったでしょう。しかし、神様の側から見れば、主イエスはこの女性に出会うために、この女性を目指して、この時この場所に来られたということなのです。ですから、今朝教会に来られたみなさんも、皆さんの側からすればいろいろと理由はおありでしょうけれども、神様の側から見れば、皆さんと出会うために教会にお導きになられたということなのです。
 さて、このサマリア人女性は白馬の王子様ではありませんけれども、主イエスと出会う事によってその人生を大きく変えられることになりました。では、どのように変えられていったのでしょうか。また、主イエスとの出会いにおいてどのようなことが起こったのでしょうか。この主イエスとサマリアの女との出会いの物語には、私たちが主イエスと出会うときにどのようなことが起こり、どのように導かれ、そしてどのような者とさせられていくのかという道筋が明確に描き出されています。今朝はその事をご一緒に見ていきながら、私たちの上にもそのような主イエスとの出会いが与えられているということを受け止めていきたいと思います。
 主イエスがサマリヤを通られたときの事です。そこにヤコブの井戸という古くから伝わる井戸がありました。旅にお疲れになられた主イエスは、その井戸のそばに座られたのです。それは正午ごろの事だったと記されています。サマリアというところは日本よりもよほど暑いところでありますし、正午という時刻は一日のうちで最も暑い時刻です。主イエスは井戸をお見つけになられ、その傍らにやってこられたのですけれども、水を汲むためのつるべになるものがなかったのです。そのようなところへやってきたのが、主イエスとの出会いによって人生を変えられることになる女性なのでした。
 ところで、この女性はどうして正午という昼の最中にやってきたのでしょう。当時の水汲みというのは朝か夕に行うものであり、正午という暑い日差しが照りつける中で行うものではありません。それをわざわざこの女性は昼の最中にやってきたのです。さらにおかしなことには、ここにはシカルという町の名前がでて参りますけれども、ヤコブの井戸はそのシカルの町から1キロ半は離れていたと考えられています。水源のない所に町は出来ませんから、シカルの町にも当然井戸があったでしょう。それにも関わらず彼女はわざわざ遠くの、なおかつ正午という誰も水を汲みにこない時間にやってきたことになるのです。
 どうしてなのでしょうか。それは明らかに人目を忍ぶためです。その事情については後で明らかになりますが、彼女は町の人々に会いたくなかったのです。水汲みの仕事は女性たちにとってきつい日課でしたけれども楽しい時間でもあったでしょう。朝と夕に井戸へやってきて、水を汲む順番待ちをしがてら世間話をする、いわゆる井戸端会議をしたからです。家事や育児の合間にする女性同士のおしゃべりというのは楽しみのひとつだったでしょう。しかし、彼女にとっては堪え難い時間だったのです。彼女たちの中に入っていけない事情があったのです。そして、そのような悲しみを背負った女性と旅にお疲れになられた主イエスはヤコブの井戸で出会われたのです。そしてここから、深く、心にしみ込んでいくような対話が始まりました。

 対話と今申しましたけれども、対話というのは会話とは違います。会話というのはおしゃべりの類いです。しかし、対話というのは単なるおしゃべりではなくて、相手と相対して話あうものです。どうちがうかといいますと、わたしたちのよくするおしゃべり、会話というのは、たいてい自分を知ってもらいたいと思って話をしますけれども、相手を理解しようと思って話をすることは少ないのではないでしょうか。自分の事を一方的にしゃべって、その話が途切れたら、今度は相手が話をするのです。お互い相手の言う事を聞いていません。相手の話がとまったら、今度は自分の話をするだけです。わたしたちのよくするおしゃべりというのはえてしてそういうものです。ですから、「会話についていけない」という言葉があっても「対話についていけない」という言い方はしません。しかし、主イエスがこの女性としたのは会話ではなく対話であります。相手の心を深く知り、理解しようとするお心に満ちた対話が始まりました。命を得させる対話という説教題とさせていただきましたが、主イエスとこの女性との対話は少しずつ深みへと向かっていくのですが、今朝はこの女性が4つの段階を経て命へと導かれてゆくことを聴いて参りたいと思います。

 この対話は主イエスの「水を飲ませてください」という言葉から始まります。何気ない言葉であります。ごく当たり前の、どこででも交わされる言葉です。しかし、この女性は「ユダヤ人のあなたがサマリアの女のわたしに、どうして水を飲ませてほしいと頼むのですか」と言って、主イエスの申し出を断ってしまいました。どうしてなのでしょうか。今朝は特別伝道礼拝ですから、サマリヤの由来についての歴史的背景に付いてはふれませんが、簡単に言うとサマリヤ人は汚れた異民族との混血であるということで、ユダヤ人から蔑視されていたのです。水を飲ませてくださいという何でもない会話すら成り立たないほどの敵意が、ユダヤとサマリアの間に、すなわち私とあなたとの間にはあるではないですか、というわけです。当時の常識が主イエスとの出会いを阻んでしまったのです。
 これは今も同じです。教会に新しい人を招こうとする。「一度教会にいらっしゃいませんか」とお招きする。それは私たちの働きを通して主イエスが招いておられることです。しかし、たいていの人はその誘いを受け止めてくださいません。「私はキリスト教とは関係がない」「先祖伝来の宗教がある」「今の時代、本気で特定の宗教を信じるのはおかしい」「わたしは無宗教でいい」。このように、今の常識が隔ての壁になって主イエスとの出会いを隔ててしまうのです。しかし、主イエスはその隔てを乗り越えてくださるのです。これが第1のことです。

 主イエスはなおもこの女性に語りかけます。「もしあなたが、神の賜物を知っており、また、『水を飲ませてください』と言ったのがだれであるか知っていたならば、あなたの方からその人に頼み、その人はあなたに生きた水を与えたことであろう。」つまりあなたは私が誰だか分かっていない。もしわかっていたなら、あなたの方から私に頼み、そして私はあなたに生きた水を与えただろうといわれたのです。主イエスはここで、単なる水の話ではなく、信仰的な次元へと彼女を導いておられるのです。確かに今、主イエスが彼女に求められたのはのどの渇きを癒す水です。そして彼女も水を求めてここに来たのです。しかし、彼女が本当に必要としているのはただの水ではなく、渇く事のない命の水なのでありました。そしてその命の水を与える事ができる人があなたの目の前にいる、その事に目を開かせようとなさっているのです。
 彼女ははじめは何も分かりませんでした。見当はずれなことを答えています。しかし、主イエスはこの女性をしっかりと受け止められて、丁寧に言葉を重ねてお答えになり、この女性を導かれたのです。「この水を飲む者はだれでもまた渇く。しかし、わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る。」するとこの女性は「その水を私にください」と申し出たのです。
 ここで大切なことは、この女性がどれほど主イエスの言葉を理解していたかということではありません。ここまでの主イエスと女性との対話は時間にすれば1分に満たないでしょう。そのわずかの時間に主イエスの真意を汲み取る事が出来たはずもないでしょう。むしろここで大切な事は、主イエスがこの女性を救おうとして、言葉をかけ、出会ってくださったということが大切なのです。
 今朝、もし初めてここに集われた方がおられましたら、この水が何であるのか、すぐに分かる方はおられないでしょう。説教を聞き終われば分かるというものでもありません。勉強すれば分かるというものでもありません。1年通えば分かるというものでもありません。分かる分からないは問題ではないのです。主イエスが、この女性に出会うためにこの町を訪れ、水を求められたように、主イエスは私共一人一人を救わんがために、この場へと導き、聖書の言葉に触れさせ、御自身と出会わせようとしてくださっているという神様のお心が大事なのです。これが第2のことです。

 さて、この女性から生きた水を求める願いを起こさせられた主イエスは、次に、話題を全く違う事に変えておられます。突然主イエスは「行って、あなたの夫をここに呼んで来なさい」といわれたのです。夫の話などこれまでしてきたわけではないのです。どうしてここで夫が関係してくるのでしょうか。実は、この女性にとって、これこそ、遠くはなれた井戸にまで水を汲みにきた原因なのでした。誰にも触れられたくないところでした。しかし主イエスはこの女性の秘密を知っておられ、5人の夫がいたことと、今連れ添っているのは正式の夫ではないことを暴露してしまわれたのです。今までに5人の夫がいたということは、5回結婚をしたということです。しかし、何らかの事情があって、5人の夫とは、死に別れたか、離婚したか、いずれも幸せな家庭生活を続けることができませんでした。今も連れ添っている男があるけれども、結婚はしていないのです。人々はおそらくこの女性を身持ちの悪い女として見たでしょう。彼女は夫を変える度に、精神的にも苦しみ、経済的にも困難がともない、社会的にも自分を見る目が変わってくるといった大きな苦しみを背負い、これまで耐えてきたに違いありません。そのようなことは密かなこととして、そっとしておいてほしいことです。しかし主イエスはここで、この女性の心の深みに踏み込まれたのです。
 私たちにも、誰にも知られたくないし、知られてはならない秘密があるのではないでしょうか。心の奥の奥に、誰にも立ち入りを許さない秘密の部屋を持っているのではないでしょうか。それは例えばこういうことです。障害を持って生まれてきた子どもを持つ親が、人知れず悩み、「この子さえいなければどれほど楽だったか」という思いであったり、あるいはお年寄りの介護をしていて、乱暴な言葉を言われたりものを投げつけられたりした時に、「早く死んでくれればどれだけ助かるか」と思う事があるかもしれません。こういったこと、これに類することは、絶対に人には言えないことです。どんなに自分を理解してくれる人にも言えません。ですから、心の奥底に完全に閉じ込めて、一人苦しむのです。そういう誰にも知られてはならない心の奥底に、主イエスは入ってきてくださったということなのです。
 主イエスと出会うとはまさにこのことです。「このお方は私を知っておられる」。これが私たちが主イエスと出会うときに知らされることなのです。今朝の聖書の箇所ではありませんが、このヨハネによる福音書の中で4番目の弟子となったナタナエルもまた、誰も知り得ないはずのことを主イエスに知られていることを示されて、「どうしてわたしを知っておられるのですか」(2:48)と問いました。この女性も同じ思いだったのではないでしょうか。このお方は私を知っておられる。それどころか、誰にも話したことのない心の闇すらも知っておられる。誰にも触れさせるわけにはいかない心の奥底の闇に、このお方は触れてくださり光を照らしてくださると知ったのです。
 この事が分かって初めて主イエスの言葉が身にしみてわかってくるのです。最初はこのサマリアの女は主イエスのおっしゃっていることの意味が分かりません。当時の常識を持ち出して申し出を断ろうとしました。けれども、あまりに熱心に話されるので、なんとなくその命の水を求めてみようという気になった。そのぐらいのことです。しかし、心の奥底を知られていることを知らされて、この女は心を開いたのです。「主よ、あなたを預言者としてお見受けします」といって心を開いたのでした。これが第3のことです。

 このようにして、主イエスと出会ったサマリアの女はこれからの生き方をも変えられてしまいました。もはや彼女は男性の遍歴のことで苦しむことはありません。その苦しみを知ってくださる方がおられるからです。そのことからわき起こる感謝の心が彼女を礼拝へと向かわせるのです。20節では「わたしどもの先祖はこの山で礼拝しましたが、あなたがたは、礼拝すべき場所はエルサレムにあると言っています。」このような言葉が出てくるのです。真実の礼拝はどこで献げたら良いのですかという問いが起こってきました。主イエスに知られていることを知ったものは、礼拝へと導かれてゆくのです。私を知り、私に救いを与えてくださるお方を讃美せずにはおられないからです。これが第4のことです。

 この主イエスとサマリアの女との対話は「水を飲ませてください」という主イエスのお言葉から始まりました。私は喉が渇いている。水を一杯飲ませてくれないかという語りかけにおいて、すでに主イエスはこの女性の心の中に入っておられたのです。教会の礼拝にこのように出席している私たちは、いつ主イエスが来てくださるだろうと考えているかもしれません。しかし実は、今既に主イエスは私たちの心の中におられるのです。自分自身ですら気づいていないかもしれない心の奥底に、主イエスは入ってきてくださっているのです。そして、み言葉をかけてくださるのです。そして渇いた魂を潤してくださるのです。それを知っているという事が信仰に生きるという事なのです。
 皆さん一人一人がこの主イエスとの対話の中に生きる事が出来るのです。そこで必要な事は、このサマリアの女のように心を開く事です。むしろ、主イエスが開いてくださる私たちの心を素直に受け止めれば良いのです。そこに平安が生まれるのです。その平安を知った人たちは、心に喜びがあふれ、過去のどのような苦しみも悩みも、心の奥に秘めていたひそかな背徳も、許されるのです。そして礼拝者となり、人々との本当の対話をなし、主イエスを指し示していく事が出来るのです。そのような恵みに招かれていることを、私たちは信じたいと思います。

米子伝道所特別伝道礼拝説教<全原稿>2011年10月16日大垣荒尾教会 石束岳士牧師 

 聖  書:ヨハネによる福音書4:1−26
 説教題:「命を得させる対話」
          説教リストに戻る