序.現実をどう捉えるか

先週は、出エジプト記32章から御言葉を聴きました。そこには、モーセが十戒を記した石の板を受取るためにシナイ山に登って40日間帰って来ない間に、イスラエルの民が金の子牛を造ったという事件のことが書かれていました。これは、与えられたばかりの十戒の、二番目の「あなたは、いかなる像も造ってはならない」という戒めを破るものでありました。偶像を造ることを禁じるこの戒めは、目で見ることの出来ない神様を信じることによって、御言葉において出会うことが出来るという恵みをいただくために与えられたものでありましたが、イスラエルの民は、指導者のモーセがしばらく帰って来なかったというだけの現実の中で、その恵みを取り逃がして、このような罪に陥ってしまったのであります。
 
今日から民数記に飛びましたが、その間に書かれていることは、レビ記の全体を含めて殆どが律法の様々の規定であります。今日の14章は、13章からの続きですが、いよいよイスラエルの民が神様の約束の地であるカナンを前にして、偵察に行った12人の報告を聞いたイスラエルの民が、またまた大きな過ちを犯してしまったことが書かれている箇所であります。この過ちによって、イスラエルの民は約束の地に直ちに入ることが出来ず、40年に及ぶ荒れ野の旅を続けなければならなくなるのであります。
 
偵察に行った12人は四十日にわたって、モーセの指示に従って、全員が同じカナンの現実を観察するのでありますが、その結果、10人の報告と、他の2人の進言とは全く違っていました。両者の見所が全く違ったのであります。
 
私たちも、人生の中で、また日々の生活の中で、様々な現実に遭遇いたします。私たちの目には好ましいと見える現実もあれば、悲観的にならざるを得ない現実もあります。そうした様々な現実の中で何を拠り所として判断するか、現実を見る視点(見所)が大切になります。
 
私たちはかつての高度成長期にどういう判断をしたでしょうか。今、大きな災害を受けて、どういう判断をすべきなのでしょうか。人生の多様な未来を思い描くことの出来る青年が、どういう視点で自分の進むべき道を決断すべきなのでしょうか。様々の不幸を背負った人生、あるいは年老いて、先が見えて来た中で過ごす日々、その現実の中で、どのような生き方を選択すべきなのでしょうか。わが国のキリスト教会の低迷が続き、将来に対して希望を見出し難い状況にあります。その中で、やむを得ないと判断するのか、このような時こそチャンスと捉えるのか。その判断の依り所を何に求めるかが問われます。今日は、カナン偵察の顛末を通して、私たちを取り巻く現実をどのような視点で捉えて判断するべきか、ということを学びたいと思うのであります。

1.カナンの偵察

まず、今日の14章に入る前に、13章に書かれている、カナンの偵察の経緯について見ておきましょう。132節を見ると、主がモーセに対して、「人を遣わして、わたしがイスラエルの人々に与えようとしているカナンの土地を偵察させなさい」と命じておられます。なぜ神様は偵察を命じられたのでしょうか。神様は偵察などさせなくても、カナンの地がどんな土地柄であるのか、どんな人々が住んでいるのか、すべてのことをよく御存知である筈であります。それなのに偵察させられるのは、イスラエルの民が自分たちで見て、自分たちで判断させるためであります。神様は人間をロボットのように扱われません。神様の言いなりに動くだけでなくて、自分なりの判断をさせられます。しかし、そこで、どのような視点で判断するかが試されることになります。視点を取り違えると、その判断は、神様のお考えと大きく違ってしまいます。
 さて、偵察に当ってはイスラエルの12の部族ごとに一人ずつ、12人が選ばれました。彼らはそれぞれの部族を代表する指導者でありました。経験が豊かで、判断力や指導力のある人が選ばれたのでありましょう。モーセは17節〜20節で、偵察のポイントを指示しています。「ネゲブに上り、更に山に登って行き、その土地がどんな所か調べて来なさい。そこの住民が強いか弱いか、人数が多いか少ないか、彼らの住む土地が良いか悪いか、彼らの住む町がどんな様子か、天幕を張っているのか城壁があるのか、土地はどうか、肥えているかやせているか、木が茂っているか否かを。あなたたちは雄々しく行き、その土地の果物を取って来なさい。」調査範囲は21節に、ツインの荒れ野からレホブまでとあって、カナン地方の南の端から北の端まで、随分広い範囲に及んでいます。時期はちょうどぶどうが熟する季節でありました。これらのことから神様の御意図を推察することが出来ます。これまでイスラエルの民は荒れ野の旅で不平ばかり言って来ましたが、神様はこの偵察によって、カナンの地がいかに豊かであるかということを見せて、希望をもって新天地に入ることが出来るように意図されたのではないかと考えられます。

2.エジプトへ帰ろう

12人は四十日にわたる偵察を終えて、イスラエルの民の宿営地に帰って来て、報告をしました。彼らは27節以下で、こう報告しています。「わたしたちは、あなたが遣わされた地方に行って来ました。そこは乳と蜜の流れる所でした。これがそこの果物です。」ここまでは、神様が約束された通りのすばらしい所である、という報告です。ところがその後は、否定的な評価が続きます。「しかし、その土地の住民は強く、町という町は城壁に囲まれ。大層大きく、しかもアナク人の子孫さえ見かけました。」アナク人というのは、身長が高く、勇猛なことで知られていました。
 
この報告に対して、12人の一人のカレブという人は、前向きの見解を述べます。「断然上って行くべきです。そこを占領しましょう。必ず勝てます。」30節)ところが、彼と一緒に行った別の者たちは反対して、「いや、あの民に向かって上って行くのは不可能だ。彼らは我々よりも強い。」31節)「我々が偵察して来た土地は、そこに住み着こうとする者を食い尽くすような土地だ。我々が見た民は皆、巨人だった。」32節)
 
ここから14章に入りますが、このような消極的な報告を聞いたイスラエルの人々は、夜通し泣き言を言い、モーセとアロンに対して不平を言い始めます。「エジプトの国で死ぬか、この荒れ野で死ぬ方がましだった。どうして、主は我々をこの土地に連れて来て、剣で殺そうとされるのか。妻子は奪われてしまうだろう。それくらいなら、エジプトに引き返した方がましだ。」2,3節)挙句は、「さあ、一人の頭を立てて、エジプトへ帰ろう」4節)とまで言い出す始末です。
 
エジプトから出て来る時には、イスラエルの民は驚くべき奇跡を体験しました。葦の海が開いてエジプト軍から逃れるという劇的な救いも体験しました。食糧や飲み水のない荒れ野の旅においても、日々、必要なものを与えられて来ました。こうして、今、神様が約束された通りの乳と蜜の流れる地を目前にしているのです。それなのに、カナンの住民の抵抗を恐れて、後ろ向きになってしまっているのであります。しかし、エジプトに戻ることは、奴隷生活に戻ることです。せっかくの神様の恵みの導きを無駄にしてしまうことになります。
 
コリントの信徒への手紙にこんな言葉があります。「神の御心に適った悲しみは、取り消されることのない救いに通じる悔い改めを生じさせ、世の悲しみは死をもたらします。」(Uコリント710)私たちが出会う困難や悲しみには二つの道が備えられている。一つは救いに通じる悔い改めの道、もう一つは、死をもたらす道だと言います。イスラエルの民は今、二つの道を前にして、救いとは逆の、滅びの道へ逆戻りしようとしているのです。私たちもまた、神様の恵みを見るよりは、困難を見て不安を覚え、不平不満を抱き勝ちであります。

3.主が我々と共におられる

しかし、偵察して来た12人のうちのヨシュアとカレブは、違う見方をしていました。彼らは7節以下でこう訴えています。「我々が偵察して来た土地は、とてもすばらしい土地だった。もし、我々が主の御心に適うなら、主は我々をあの土地に導き入れ、あの乳と蜜の流れる土地を与えてくださるであろう。ただ、主に背いてはならない。あなたたちは、そこの住民を恐れてはならない。彼らは我々の餌食にすぎない。彼らを守るものは離れ去り、主が我々と共におられる。彼らを恐れてはならない。」79節)2人は、見て来た土地が、神様のおっしゃった通りに豊かな土地であって、自分たちさえ神さまに背かず、御心に適うなら、その土地を与えてくださる、と言っております。そして、そこに住む住民たちは確かに強そうに見えるのですが、神様が共におられるのだから、恐れる必要はない、と言い切っています。「神が共にいてくださる」ということは、モーセが召命を受けた時に語られた約束でありますが、そのことは様々の奇跡を通して体験することが出来たし、雲の柱に導かれて来たことによっても知られることでありますし、シナイ山での契約においても、「わたしの宝となる」という表現で約束して下さったことでありました。2人はこの約束を信じているので、カナンの地に導きいれられると断言し、「恐れてはならない」と勧めるのであります。これは単に、消極論に対する積極論とか、悲観論に対する楽観論ではありません。これまでの神様の恵みを思い起こしつつ、神様の約束の言葉を信じているのです。12人は同じカナンの現実を見ました。豊かなすばらしい土地であることを全員で確認しました。しかし、10人は強そうな住民を見て、自分たちの力と比較しながら、負けると判断したのに対して、2人は神様が共におられるという約束を信じることによって、勝利を確信しているのです。同じ現実を見ても、肉の目をもって見るか、霊の目(信仰の目)をもって見るかによって、このように判断が変わってしまうのであります。
 
先日、福島原発に一番近い教会の牧師の話を聞いて参りました。30年前にそこの福島第一聖書バプテスト教会に招聘されて、過疎地帯、東北という土地柄の困難さの中で懸命に伝道の拠点の拡大を進めて来られました。2年前には、100年先を見据えた立派な新会堂が建設されました。しかし、このたびの震災に伴う原発事故で、退去せざるを得なくなりました。その後、教会員たちと共に、受け入れ先を求めて、流浪の旅を続け、今、「奥多摩福音の家」におられます。そうした中で「私たちは一体何ものなのか」という問いが常にあったと告白しておられます。しかし今は、「苦しみにあったことは、私にとって幸せでした」という詩編の御言葉に導かれ、「この地に神様が自分を遣わされた」と思うようになったと言っておられました。人間の思いで100年先まで見据えた教会を建てたはずが、人間が生み出した原子力によって、あっさりと使い物にならなくなってしまいました。しかし、そのことを通して神様がその地に働いておられることが見えて来たのであります。大震災によって何もかもを失うという現実の中で、信仰の目をもって、神様が今も変わらず共におられることを見ておられるのであります。私たちもまた、自分たちの周りの現実に不平不満の思いを抱くのではなく、信仰の目を持って、神様が共におられることを発見して行きたいものであります。

4.いつまで信じないのか

ところで、イスラエルの民は、2人の信仰の目による判断を受け入れられずに、10節にあるように、彼らを石で撃ち殺せとまで言い出します。そのとき主が現れてこう言われます。「この民は、いつまでわたしを侮るのか。彼らの間で行ったすべてのしるしを無視し、いつまでわたしを信じないのか。わたしは、疫病で彼らを撃ち、彼らを捨て、あなたを彼らよりも強大な国民としよう。」10,11節)「いつまで」という言葉が2度繰り返されて強調されています。この言葉から、これまで神様がどれほど忍耐をもって、イスラエルの民の不信仰からの悔い改めを待っておられたかを聴き取ることが出来ます。不信仰とは、ここで語られているように、神様の御心やお力を侮ること、そして自分にして下さった恵みのしるしを無視することであります。神様は私たち一人ひとりに対しても、日々、愛の御心をもって臨んで下さっています。事ある毎に数々の恵みを与えて下さいました。そうすることによって、私たちを救いへ導こうとされています。それにもかかわらず、私たちは、あたかも今の自分があるのは、自分の努力や精進によるかのように、神様の御心や恵みを無視します。そして、困難に遭遇しても、将来に向かって大きな決断をしなければならない時も、いつまで経っても神様を信じて委ねることをしないのであります。
 
「いつまで」という言葉は、また、「いつまでも」ではない、ということであります。神様は忍耐深く悔い改めを待って下さいますが、いつまでも待って下さるわけではありません。「疫病で彼らを撃ち、彼らを捨てる」とおっしゃいます。裁きの時が来るのであります。私たちもこの言葉をいい加減に聞いたり、割り引いて聞いてはならないでしょう。神様を侮り、無視し続けることは赦されないのであります。

5.大きな慈しみのゆえに

この神様のお言葉に対して、モーセは今度も執り成しの訴えをいたします。13節から19節までが、その訴えですが、二つのことを言っております。一つは、もしイスラエルの民を滅ぼせば、これまでイスラエルの民を導いて、約束の土地に連れて行くと言われていたことが果たせなくなったのだと諸国の民は受取ることになって、神様の名声に傷がつく、というのです。ここには、13節で「御力をもって」と言い、17節で「主の力を」と言っているように、神様の力が足りないように思われるのではないか、というのです。神様はイスラエルを滅ぼしてしまったとしても、他の形でいくらでも御力をお示しになることがお出来になるでしょう。神様が諸国民の名声を気遣う必要などありません。モーセはもう一つのことを言っております。それは、神様は忍耐強く、慈しみに満ち、罪と背きを赦す方であるのに、父祖の罪を子孫にまで問われる方だと思ってしまうではないか、ということです。神様は十戒を与えられた時に、偶像礼拝をすれば、その罪は三代、四代までも問うということをおっしゃいました。そういう神様の厳しい面だけが受取られてしまうではないか、というのです。これも、神様の忍耐を要求する、あつかましい訴えでありますが、ともかくモーセは必死で神様の赦しを訴えています。こんな訴えを神様がお聞きになる必要もないのでありますが、驚くべきことに、20節にあるように、「あなたの言葉のゆえに、わたしは赦そう」とおっしゃるのであります。これは、モーセが19節で言うように、神様の「大きな慈しみのゆえに」、であります。
 
しかし、神様はイスラエルの民に対する裁きを全て撤回されたわけではありません。22節以下にあるように、神様の声に聞き従わなかった者はだれ一人として、約束の土地を見ることはないのであります。つまり、ヨシュアとカレブを除く二十歳以上の者は誰もカナンの地に入ることは許されず、子供の世代になってやっと、約束が実現することになるのであります。ここに厳しい裁きを見ることが出来ますが、それ以上に、第一世代の罪を三代、四代にまで及ぼさず、カナンの地に導き入れられるという神様の慈しみによる赦しを見落としてはならないでしょう。
 
ここでモーセがした執り成しは、勝手なあつかましい訴えでしかなかったのですが、このモーセの執り成しの役割を完成して下さったのが、イエス・キリストであります。イエス・キリストは御自分が十字架に架かって犠牲になられることによって、完全な赦しの道を開いて下さいました。そこには神様の徹底的な厳しい裁きと共に、大きな大きな慈しみが現されています。

結.今日、神の声を聞くなら

最後に、先ほど併読していただいた新約聖書のヘブライ人への手紙3章7節以下の御言葉を、もう一度聴きましょう。
 
「今日、あなたたちが神の前に声を聞くなら、荒れ野で試練を受けたころ、神に反抗したときのように、心をかたくなにしてはならない。荒れ野であなたたちの先祖は、わたしを試み、験(ため)し、四十年の間わたしの業を見た。だから、わたしは、その時代の者たちに対して、憤ってこう言った。『彼らはいつも心が迷っており、わたしの道を認めなかった。』そのため、わたしは怒って誓った。『彼らを決してわたしの安息にあずからせはしない』と。」(7b−11)ここでは、「今日、あなたたちが神の前に声を聞くなら」と言われています。私たちは今日、民数記を通して、私たちに対する神様の御声を聞きました。そうであれば、心をかたくなにしてはなりません。そうでないと、イスラエルの民の第一世代がカナンの地に入ることが出来なかったように、神様の安息にあずかることはできないのであります。ですから、13節には、こう勧められています。あなたがたのうちだれ一人、罪に惑わされてかたくなにならないように、今日という日のうちに、日々励まし合いなさい。――わたしたちは、最初の確信を最後までしっかりと持ち続けるなら、キリストに連なる者となるのです。
 
神様は、私たちがもう少し聖書のことが納得して理解出来るようになったら、とか、私たちの身の回りの環境がもう少し整ったら、とか、もう少し信仰が成長したら、というような言い訳をお許しになりません。そのような言い訳は、心がかたくなであることの証しでしかありません。神様は私たちの準備が不十分であっても、信仰が未熟であっても構わないから、今日聞いた神様の声に従いなさい、そうすれば、必ず永遠の安息に入れてあげる、とおっしゃっていて下さるのであります。 祈りましょう。

祈  り

忍耐強く、慈しみに満ち、罪と背きを赦し給う父なる神様!
 
今日も御言葉をもって、私たちに臨んで下さり、あなたの力強い救いの御心と御業を聴くことを許して下さってありがとうございます。
 
私たちの生きておりますこの世の現実は、大きな困難に取り囲まれ、不安に満ちております。その中で教会の働きも、多くの人を救うことが出来ないでいるように見えます。しかしながら、あなたは私たちを罪の奴隷状態から救い出そうと、今日も生きて働いて下さいますから感謝いたします。どうか、不信仰な私たちを、絶えず御言葉をもって目覚ましめて下さい。どうか、あなたの約束を信じて従って行く者とならせて下さい。どうか、あなたが、この小さな信仰の群れをも用いて、救いの御業を進めておられることを信じて、その御業の一旦を担う者とならせて下さい。
 
主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

米子伝道所主日礼拝説教<全原稿>       2011年10月9日  山本 清牧師 

 聖  書:民数記14:1−38
 説教題:「いつまで信じないのか」
          説教リストに戻る