序.偶像を拝まない恵みを問う

8月から出エジプト記の大切な場面を取り上げて来ておりますが、先週は19章によって、エジプトを出たイスラエルの民がシナイ山の麓に到着して、神様とシナイ契約(十戒をはじめとする律法)を与えられる直前の場面から御言葉を聴きました。その後20章には十戒が記されており、続いて契約の書の詳しい内容が記されていて、24章には契約の締結の場面が書かれています。25章以下は礼拝場所である幕屋の造り方と礼拝の仕方が31章まで続きます。
 
そして今日の32章には、モーセが十戒を記した石の板を受取るために山に登っている間に、イスラエルの民が金の子牛を造ったという事件のことが記されています。その経緯について、24章に書かれていることから見ておきたいと思います。モーセはシナイ山に登って、十戒をはじめとする契約の内容を神様から示されて、それを民のところに持ち帰って読み聞かせますと、民は、「わたしたちは、主の語られた言葉をすべて行います」と約束したので、祭壇を築いて、契約のしるしに雄牛の血を振りかけます。その後、神様の御命令に従ってモーセはアロン(モーセの兄弟)や七十人の長老たちと共にシナイ山を登りますが、途中からはモーセと従者のヨシュアだけが登って、律法を記した石の板を受取るように命じられます。こうしてモーセは四十日四十夜、山の中にいました。そこで今日の32章に続くのですが、1節にあるように、モーセが山からなかなか下りて来ないのを見て、民がアロンのもとに集まって来て、「さあ、我々に先立って進む神々を造ってください。エジプトの国から我々を導き上った人、あのモーセがどうなってしまったのか分からないからです」と訴えるのであります。その後、アロンとのやり取りがあって、結局、金の子牛を造ってしまうのでありますが、今日はこの箇所から、当然、今日の説教題にもありますように、偶像を造ることの愚かさ、その罪について聴くことになります。しかし、私たちがここから、偶像礼拝をすることの厳しい禁止命令を聞いただけでは、神様の恵みを十分に受取ったことにはならないのではないかと思います。偶像を拝まないということは、私たちがしたくなること、してしまいがちなことをやめるとか、我慢するという否定面だけではなくて、そこには偶像を拝まないことによる恵みが込められている筈です。今日はその恵みを問いつつ、その恵みを皆様と一緒に受け取りたいと思うのでございます。

1.偶像礼拝禁止の前提――奴隷の家から導き出した神

さてそこで、今日の箇所に入る前に、イスラエルの民が神様から与えられた十戒の第一戒、第二戒を見ておきたいと思います。20章の2節から6節がそれですが、第1の命令は3節で、「あなたがたは、わたしをおいてほかに神があってはならない」で、第2の命令が4節の初めで、「あなたはいかなる像も造ってはならない」と言われています。つまり、唯一の神だけを礼拝すべきことが命じられ、一切の偶像を造ることが禁じられています。今日はこの戒めについて詳しく学ぶ余裕はありませんが、その要点について、永井春子先生が書かれた『十戒と祈りの断想』という本から引用しておきたいと思います。まず、第一戒ですが、「この戒めは、他の戒めと並ぶ一つの戒めであるというよりは、すべての戒めの根源ともいうべきものでもあります」と位置づけられ、「真の神は唯一であって、何ものも神となることも神とすることもできません。しかし神でないものを神としようとする傾向が人間にあって、現におびただしい、いろいろな種類の神化や偶像礼拝が現実に行われているのです。真の神以外のものを神とすることが罪の根源なのであります。罪とは神になろうとすることであり、神でないものを神に代えることであります。それゆえ、『神以外のものを神としない』という単純なことから始めなければなりません。しかし、この単純なことができないところに、人間と世界のあらゆる顛倒と不幸があります」と述べられています。次に、第二戒については、「真の神を正しく礼拝するための礼拝の仕方を教えています。すなわち、第一戒が神以外のものを神とする偶像礼拝の禁止であるのに対して、第二戒は、真の神を拝むにあたって偶像を用いることの禁止、すなわち、偶像による神礼拝の禁止であります」と位置づけられた上で、偶像を造るということは「神が霊でいまし、自由な永遠なる方でいらっしゃるのに、それを見えるもの・捉えることのできる中に拘束しようとする試みであります」と言われ、「それゆえ、わたしたちは『神がみ言においてお示しになり、命じている方法でのみ、神を礼拝すべき』であります」と述べておられます。以上が第一戒、第二戒の要点です。
 
ところで、ここで注目したいのは、3節からの戒めが語られる前に2節でこう述べられていることです。「わたしは主、あなたの神、あなたをエジプトの国、奴隷の家から導き出した神である。」――これは十戒全体の序言であって、十戒の基礎となっているもので、ここには十戒を与える神様と受ける民との関係が明らかにされているのですが、神は先行してイスラエルの民をエジプトでの奴隷状態から導き出したお方である、ということであります。これは私たちと神様との関係についても言えることですが、神様は私たちのために、既に救いの業を始めていて下さるお方であって、そのことを前提にして、十戒の戒めが語られているということで、唯一の神以外のものを神としてはいけないのも、偶像を用いて礼拝してはいけないのも、神様が先行して、私たちを罪の奴隷から救い出して下さったからであります。このことを踏まえた上で、今日の「金の子牛事件」を見て行きたいと思います。

2.金の子牛事件から見えてくるもの

さて、今日の32章を見て行きます。イスラエルの民は、モーセが山に入ったきり四十日四十夜近くも戻って来ないので、不安になって来ました。そこで、先ほども見たように、アロンのもとに集まって来て、「我々に先立って進む神々を造ってください」と言い出すのです。これまでも神様のお姿を見ることは出来ませんでしたが、指導者のモーセが、見えない神様に代わって御言葉を伝えて来ましたし、イスラエルの民が窮地に陥った時には、モーセが手を上げたり、杖で叩いたりして目に見える形で神様の助けを受けることが出来ました。ところが今は、そのモーセの姿さえ見ることが出来なくなって四十日近くも経ってしまいました。モーセの身に何が起こっているのか分かりません。先週聴きましたように、神様は「わたしの契約を守るならば、あなたたちは…わたしの宝である」と約束なさいました。そして、その契約の中味も既にモーセを通して知らされました。そこには、先ほど見たように、「わたしをおいてほかに神があってはならない」「いかなる像も造ってはならない」と命じられていて、イスラエルの民はそれを聞いて、「わたしたちは主が語られたことをすべて行い、守ります」と誓いました。しかし、人は頼るべきものが見えなくなると不安になってしまいます。四十日という数字は主イエスが荒れ野で誘惑を受けられた期間と同じですが、神様はこのようにしてイスラエルの民に試練の時をお与えになったのであります。主イエスは四十日の試練に耐えて、サタンの誘惑にも負けられませんでしたが、イスラエルの民は、モーセに代わる目に見えるしるしを求め始めたのであります。そこで思い出すべきは、十戒の冒頭に言われているように、目に見えない神様が、エジプトの国での奴隷の状態から導き出して下さったという事実であります。そのことを思い出さないと、「いかなる像も造ってはならない」という戒めも忘れてしまうのであります。
 
この民の要求に対して、アロンは「あなたたちの妻、息子、娘らが着けている金の耳輪をはずし、わたしのところに持って来なさい」と言いました。なぜアロンが金の指輪を持って来るように言ったのかということについて、色々な説が出されて来ました。金の指輪というのは奴隷であったイスラエルの民がもともと持っていたものではなくて、エジプトを出る時にエジプト人たちから貰った貴重なものだから、皆、出すのを嫌がることを予想したのではないか、と考える人もあります。ところが予想外に民は全員、着けていた民の耳輪をはずして、アロンのところに持って来ました。アロンはそれを受取ると、のみで型を作り、若い雄牛の鋳像を造りました。『旧約新約聖書註解』によれば、アロンは雄牛そのものが神を表すものと考えたのではなくて、神が座る台座の役割を果たすものを造って、そこに神様がおられることを覚えさせようとしたのではないかと見ています。確かにアロンは初めから神の偶像を造るつもりではなかったかもしれません。しかし、造ってしまうと、人々は「イスラエルよ、これこそあなたをエジプトの国から導き上ったあなたの神々だ」と言い出します。エジプトではこのような雄牛の像が礼拝されていたようですし、カナン人の間では雄牛は豊穣の神であるバアルを象徴するものであったようです。そういう異教の神々の姿と重なって、それが、先ほど注目した、十戒の前提として言われている神の恵みの事実と結び付けられて、礼拝の対象とされてしまうのであります。アロンはこれを見て、恐らく慌てて、その前に祭壇を築き、「明日、主の祭りを行う」と宣言します。祭壇を造って犠牲を献げることは、神様から与えられた契約にあることで、アロンはそれに従おうとしたと思われるのですが、次の朝になると、人々は契約どおりの献げ物をするものの、飲み食いしてドンチャン騒ぎを始めるのであります。金の子牛の鋳像を造ったことが間違いでした。礼拝は神様の指示通りに行なうべきものでありました。しかしアロンは、初めから偶像礼拝をするつもりはなかったにしても、人々の不安を鎮めようと勝手なことをしたために、人々を偶像礼拝へと向かわせてしまったのであります。
 
少し脇道に逸れますが、この時から500年以上後に、イスラエルは北王国と南王国に分裂しますが、その北王国の初代の王ヤロブアムは、民が礼拝のために南王国のエルサレムに行く必要がないように、金の子牛を2体造って、ベテルとダンというところに置くのであります。これは北王国の民がエルサレムで礼拝することによって自分から心が離れて行くことを恐れてとった手段ですが、自分の保身のために偶像を利用するわけであります。このことを記した列王記上には、「この事は罪の源となった」と記されています。このように偶像はいつも、人を真の神を礼拝することから遠ざける働きをするのであります。

3.私たちにとっての金の子牛

偶像は、キリスト教会の中にも、また私たち自身の中にも、いつの間にか入り込んで来ます。宗教改革以前の教会には様々な像が造られていました。それらは、初めから偶像を造ろうと思って造ったわけではありません。主イエスの十字架の苦しみを表現し、神の子として仰ごうとしてキリストの十字架像が設置されました。また、文字の読めない人が聖書の物語を理解することが出来るようにと、礼拝堂の中に聖書の重要な場面の絵や像が掲げられました。しかし、そこに描かれたキリストやマリアや聖人とされる人の像が拝まれるようになりました。それで、宗教改革以来、プロテスタントの教会では、会堂の中に像や絵を飾ることはしなくなりました。しかし、うっかりすると、教会のしるしとして掲げられている十字架に手を合わせたり、カトリックの教会へ行くと、そこに置かれている彫像や絵の素晴しさに感動して、うっかり跪いてしまうことがあるかもしれません。キリスト教のお葬式でも亡くなった方の写真を掲げます。しかしこれは、故人を礼拝するためではありませんし、個人の霊がそこにいるというしるしでもありません。生前の故人を偲びつつ、故人に対する神様の恵みを覚えるために置かれているだけであります。葬儀における礼拝の対象は、あくまでも目に見えない神様であります。私たちは目に見えるものに惑わされ勝ちであります。しかし、真の神様は、むしろ人間の目から姿を隠されるのであります。近づくことをお許しにならないのであります。目に見えない姿で、私たちと共におられるのであります。
 
私たちにとっての金の子牛、即ち偶像とは、目に見える像とは限りません。この世において力を振るっているものや、確からしく見えるものが、金の子牛になってしまいます。お金が偶像化することがあります。拝金主義(マモン)であります。昨今の不景気の引き金になったリーマン・ショックは正に金融界がマモンを拝んだ結果であります。人間の英知の産物である科学も、うっかりすると金の子牛になってしまいます。科学の粋を集めて造ったはずの原子力発電所ですが、想定外の惨事を惹き起こしてしまいました。科学の力を信じて疑わなかったところに落とし穴がありました。以前に読書会で読んだ『大いなる物語の始まり』(芳賀力著)では、神様が進めておられる大いなる救いの物語とは別に、人間が作り出す様々な幸福物語が偶像化して、現代の人間を知らず知らずのうちに根底から支配してしまうことがあるということが警告されていました。著者が例として挙げておられるのは、一つは昨今の健康至上主義の物語であります。神様が与えて下さった体が健康であることは大切なことですが、健康食品やサプリメントなどの広告に踊らされて、健康で美しい体が偶像化されて、病気があったり、障害があったり、老いがあることを本筋から外れたものとして切り捨てる物語がまかり通っています。また、立身出世のサクセス・ストーリが描く豊かな生活や、結婚の相手をとっかえひっかえ相手を変えるラブ・ストーリーが描き出す自己中心の愛が偶像化していると指摘しておられるのであります。私が最近気になっているのは、「絆」という言葉であります。東日本大震災以来、災害によって親しい者との絆が断たれたり、被災者の助け合いによって新しい絆が生まれることから、「絆」の大切さが言われるようになったのでしょうが、人間の「絆」が偶像化されるとおかしなことになります。「絆」を大切にすることはよいのですが、「絆」が簡単に作れると考えたり、芸能人が被災地に出かけて行って「絆」を売り物にしたりするのは間違いでしょう。人間が守ろうとしたり、人間が作り出そうとする「絆」は絶対のものではありません。人間の絆は脆いものです。しかし、人間が大事にして来た絆や、人間が作り出した絆が断たれたとしても、神様が繋いで下さる絆は断たれることがありません。偶像は教会の中にも入り込んで来ます。教皇や聖人が偶像化されていることはさて置いても、プロテスタントの教会においても、指導力のある牧師が尊敬を集めるのはよいのですが、教会の運営のみならず教会員の個人生活についても強い力を持ってしまって、その牧師の言うことが絶対化されることがあります。また、教会が歴史を積み重ねる中で、長年のやり方や習慣が絶対化されることがあります。逆に、教会の教勢が振るわない中で、何処かの教会でうまく行っていると、そのやり方が理想化されることがあります。人間の知恵や経験が作り出したものは、偶像化されてはなりません。アロンが善意で造った金の子牛が神様の台座にはならず、偶像になってしまったように、私たちが偶像を造っていないかを絶えず点検する必要があります。どんなに力があるように見えるものも、あるいは教会のため、人のためによかれと思うことであっても、あるいは伝統的にうまく行っていて慣れ親しんでいることであっても、絶えず御言葉によって点検され、改革される必要があります。

4.怒りの神(裁きの神)/思い直す神(赦しの神)

さて、金の牛の前で飲み食いし、戯れているイスラエルの民のことを神様が御存知ない筈はありません。9節以下を見ますと、神様はモーセに、「わたしはこの民を見てきたが、実にかたくなな民である。今は、わたしを引き止めるな。わたしの怒りは彼らに対して燃え上がっている。わたしは彼らを滅ぼし尽くし、あなたを大いなる民とする」と仰いました。「かたくなな」という言葉は、もともと手綱に逆らおうとする牛や馬に使われる言葉だそうです。飼い主が一生懸命に手綱を引張っているのに、それに逆らっている牛や馬のように、イスラエルの民は、神様が契約という手綱まで用意して、カナンの地へ導いて行こうとされているのに、それに従おうとしないので、「彼らを滅ぼし尽くす」という厳しい裁きを下そうとなさっているのであります。
 
この神様の怒りに対して、モーセは11節以下で、必死でなだめています。モーセはイスラエルの民の罪の言い訳をしたり、イスラエルの民にも期待が持てるなどと言っているのではありません。神様がこれまでなさって来たこと、約束して来られたことを挙げて、思い直して下さることを願っています。11節では、「あなたが大いなる御力と強い御手をもってエジプトの国から導き出された民ではありませんか」と、あの十戒の前提とされた恵みの事実について述べています。12節では「どうしてエジプト人に、『あの神は、悪意をもって彼らを山で殺し、地上から滅ぼし尽くすために導き出した』と言わせてよいでしょうか」とエジプト人に誤解されないことを願っています。また13節以下ではアブラハム、イサク、ヤコブに誓われた契約のことを持ち出しています。つまり、神様ご自身の御計画が成って、御栄光が現されることを願っているのであります。このモーセの言葉に、14節にあるように、神様は民にくだす、と告げられた災いを思い直されます。
 
この後、モーセは二枚の掟の板を持って民のところに戻りますが、金の子牛の像と民が踊っているのを見て、激しく怒って、板を投げつけて粉々に砕いてしまいます。これは折角の契約も御破算にされるということを意味します。その後、アロンが言い訳がましいことを言ったことや、神様に忠誠を誓ったレビ人に三千人を殺させたことなどが書かれていますが、そこは省略して、30節以下に書かれていることを見ておきます。そこには、モーセの二回目の執り成しの祈りが記されています。こう言っております。「ああ、この民は大きな罪を犯し、金の神を造りました。今、もしもあなたが彼らの罪をお赦しくださるのであれば・・・。もし、それがかなわなければ、どうかこのわたしをあなたが書き記された書の中から消し去ってください。」31-32)自分が救いのリストからはずされても構わないと言っているのです。
 
このモーセの2回目の執り成しに対して、神様は33節以下でこう言われます。「わたしに罪を犯した者はだれでも、わたしの書から消し去る。しかし今、わたしがあなたに告げた所にこの民を導いて行きなさい。見よ、わたしの使いがあなたに先立って行く。しかし、わたしの裁きの日に、わたしは彼らをその罪のゆえに罰する。」――ここでは、赦しを求めるモーセの訴えは退けられていて、神様の厳しい裁きが述べられています。しかし、「わたしがあなたに告げた所にこの民を導いて行きなさい」と、約束の地に向けて進んで行くことも命じておられます。神様の約束が変更されるわけではないのです。イスラエルの民が金の子牛を造った罪の結果は、一体どう決着したと受取ったらよいのでしょうか。結果的には、金の子牛を造った人たちは、カナンの地に入る前に死ななければなりませんでした。しかし、アブラハム、イサク、ヤコブに、そしてモーセに約束されたように、イスラエルの民がカナンの地に入ることは実現するのであります。そこには神様の忍耐と赦しがあります。神様は人の罪をいい加減に扱うことはなさいません。しかし、人の罪を超えて、人類を愛し続けられて、救いの御業を貫かれるのであります。
 ここにはモーセの執り成しがありました。モーセは自分が犠牲になっても、民が救われることを願いました。このモーセの執り成しは、主イエス・キリストの十字架による執り成しを指し示すものと受け止められています。神様は人の罪を赦すために、御子を犠牲にされました。そうすることによって、神様は初めからの御計画を実現なさるのであります。この救いの御心は、新しいイスラエルである私たちにも向けられています。私たちも様々な形で金の子牛を造ってしまいます。その裁きを受けなければなりません。私たちは誰も死を免れることは出来ません。しかし、主イエス・キリストの犠牲の故に、永遠の命へと甦らせて下さるのです。そして、私たちの目指すカナンの地、神の国へと導いて下さるのであります。

結.御言葉をもって出会ってくださる神

ところで、冒頭に、<偶像を拝まない恵みを問う>ということを申しました。イスラエルの民は、御言葉を取り次いでくれたモーセが帰って来るのが遅いと、十戒の契約を破って、見えない神様の代わりに、金の子牛の偶像を造ってしまいました。十戒という形で御言葉が与えられているのに、その恵みに気付かなかったのであります。私たちはどうでしょうか。私たちは聖書という形で御言葉が与えられています。その上、主の日ごとに礼拝において御言葉を聴くことによって、神様と出会うことが許されています。私たちは金の子牛を造らなくても、諸々の偶像に頼らなくても、神様と出会うことが出来ます。しかも、イエス・キリストの執り成しによって、永遠に主と共にいることの出来る場所が用意されているのであります。ここに、偶像を拝まない大きな恵みが備えられているのではないでしょうか。
 
感謝して祈りましょう。

祈  り

恵み深い父なる神様!
 
私たちはあなたのお姿を見ることは出来ませんが、今日もこうして御言葉によって御心を示され、偶像を造らなくてもよいようにして下さいまして、ありがとうございます。私たちはそれでもなお、苦難に遭遇し、不安になると、様々な偶像を造りだして、それに頼ろうとしてしまう愚かな者たちであることを告白いたします。どうか、絶えず御言葉の前に立たせて下さい。そしてどうか、あなたが共にいて下さる恵みを忘れることのないようにして下さい。
 
あなたの恵みを知らずに、なお偶像に依り頼んでいる人たちを憐れんで下さい。どうか、それぞれに相応しい形で、御言葉においてあなたと出会う機会が備えられ、救いに入れられるようにして下さい。
 
主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

米子伝道所主日礼拝説教<全原稿>       2011年10月2日  山本 清牧師 

 聖  書:出エジプト記32:1−35
 説教題:「偶像を造る罪」
          説教リストに戻る