序.旧い契約によって知る新しい契約の恵み

旧約聖書の出エジプト記によって、イスラエルの民が奴隷であったエジプトから出て、約束の地カナンに向けて、荒れ野を旅した物語を聞いて来ましたが、19章はいよいよシナイ山の麓に到着して、神様から契約のことを聞かされて、その準備が始められた場面であります。ここで神様とイスラエルの民との間で結ばれる契約は、「シナイ契約」とか「モーセ契約」と言われて、十戒を初めとする律法を内容とするものですが、その締結は出エジプトの物語の中の最大のクライマックスであります。以前に、エジプトを出発する場面を一つのクライマックスだと申しましたが、あの場面はエジプト脱出という出来事が劇的に行われたという意味で一つのクライマックスだったのでありますが、このシナイ契約の場面は、出エジプトの旅だけではなく、イスラエルの民の長い救いの歴史の中で、契約という形で神様との関係が確立したという意味で、クライマックスなのであります。旧約聖書に出て来る契約で最初に出て来るのが、大洪水のあとで、ノアに対して、「二度と洪水によって滅ぼすことはない」と約束されて、その「しるし」として虹が現れたというもので、ノア契約と呼ばれています。二番目の契約はアブラハムに対して、子孫の繁栄とカナンの土地を与えることを約束された契約で、その他にダビデ王に対して、その王国を揺るぎないものとするという約束があたえられた契約があります。これらはいずれも、神様が一方的に約束されたものなのですが、今回のシナイ契約は、神様の恵みの約束に対してイスラエルの民が責任をもって応答するという、双務契約の形をとっています。いずれにしても、イスラエルの民の歩みはこのような神様との契約のもとにあったのでありますが、そのイスラエルの歴史の要となる出来事が、このシナイ山での出来事であります。私たちは聖書を旧約聖書と新約聖書とに分けて呼んでおりますが、その「約」というのは契約のことで、旧約聖書は、イスラエルの民が神様と結んだ契約のもとにおける、イスラエルの民の歩みを記したものであります。ですから、シナイの契約の場面というのは、旧約聖書全体の要の位置にあると言えるのであります。
 
ところで一方、私たちキリスト者はイエス・キリストを信じる信仰によって救われるという新しい契約を与えられました。そのことが書かれているのが新約聖書であるわけですが、新しい契約は旧い契約と無関係になされたのではなくて、イスラエルの民も私たちも、旧い契約を守ることが出来ないので、神様が新しい契約を立てて下さったのであって、その目指すところ(契約の目的)は同じなのであります。ですから、私たちは、イスラエルの民に旧い契約が与えられた場面を学ぶことによって、新しい契約の恵みを、より深く知ることが出来るのであります。今日は、そういう意味で、イスラエルの民がシナイ契約を与えられた経緯を通して、神様の恵みの御心を聴き取りたいと思うのであります。

1.鷲の翼に乗せて――契約の根拠

さて、先週聞きましたのは、レフィディムというところで、「ホレブの岩」から水がほとばしり出た場面でしたが、その後、イスラエルの民はレフィディムを出発して、シナイの荒れ野に到着して、そこで宿営しました。エジプトの国を出てから三ヶ月目を迎えていました。目の前にはシナイ山(ホレブの山)があります。
 
ここで神様はイスラエルの民と契約をなさるのですが、それに先立って、モーセに語りかけられたことが193節以下に書かれています。そのうち、まず3(後半)4節の言葉を聞きましょう。「ヤコブの家にこのように語り、イスラエルの人々にこのように告げなさい。あなたたちは見た、わたしがエジプト人にしたこと、また、あなたたちを鷲の翼に乗せて、わたしのもとに連れて来たことを。」――ここでイスラエルの人々が思い起こさなければならないことは、一つには、神様がエジプト人になさったことであります。エジプトを出る前にモーセがファラオと交渉したとき、ファラオがなかなか応じようとしなかったので、神様は10回にわたってエジプトに災いをもたらされました。それでやっとファラオはイスラエルの民がエジプトを出ることを許したのですが、イスラエルの民が葦の海の前で行き場を失っているのを知ると、エジプト軍を出して追わせました。そのとき、海が開いてイスラエルの民は海を渡ることが出来たのですが、追って来たエジプト軍が渡ろうとすると、水が戻って、全滅しました。こうしてイスラエルの民は、エジプトから解放されました。それがここで、「神様がエジプト人にしたこと」と言われていることです。
 
もう一つ思い起こさなければならないことがあります。それは、「あなたたちを鷲の翼に乗せて、わたしのもとに連れて来たこと」であります。「鷲の翼に乗せて」とありますが、鷲の巣は山の断崖の高いところにかけられていて、ひなが成長して飛べる頃になると、親鷲はひなを誘い出して飛ばせるのですが、ひなが疲れてくると、背中に乗せて巣に戻ると考えられていたことから、こういう詩的な表現が生まれたと言われます。神様がイスラエルの民をエジプトから解放して、シナイ山まで連れて来られたことを語っておられるのでしょう。その間の荒れ野の旅で、水が苦かったり、食べる物が不足したり、飲み水がないところで宿営しなければならないことがありましたが、神様は必要なものを備えて下さって、イスラエルの民を支えて来られたので、シナイ山まで来ることが出来ました。ここは、かつてモーセがミディアンで羊飼いをしていた頃に、燃える柴の間から神様の声を聞いて、召し出された場所であります。その時以来の神様の導きのことを、「鷲の翼に乗せて連れて来た」とおっしゃっているのであります。
 
神様はこれから、イスラエルの民と契約を結ぼうとされているのですが、それに先立って、その契約の前提あるいは根拠となることをお示しになっているわけで、それが、これまでイスラエルの民が神様によって導かれ守られてきたという事実にあるということであります。
 
先ほど、今回のシナイ契約は双務契約であるということを申しました。双務契約というのは、契約当事者の双方が義務を負って、双方が利益を得るというものですが、ここで結ばれようとしている契約は、この時初めて双方の当事者である神様とイスラエルが出会うのではなくて、その前から深い関係にあって、しかも、神様の方が一方的に恵みを与えて来られたわけで、それを御破算にして、新たに契約を結ぼうということではなくて、神様のイスラエルの民に対する愛の御心はずっと続いていて、それを前提あるいは根拠にして、更に双方の関係を深める契約をなさろうとしておられる、ということであります。
 
このことは、私たちと神様との間に結ばれる新しい契約にも言えることでありまして、私たちは何の前提もなく、イエス様を信じれば救われるという契約を結ぶのではありません。新しい契約を結ぶ以前に、神様の人類に対する長い恵みの歴史がありますし、特に、イエス・キリストを私たちの罪の贖いとして十字架に架けて下さったという大きな救いの御業があるわけで、それを前提あるいは根拠として、新しい契約が結ばれるということなのであります。私たちが信仰に入る前に、神様が既に、私たちを罪の奴隷状態から救い出すための十分な手立てを施して下さって、私たちを鷲の翼に乗せるようにして、神様のもとに連れて来て下さったのであります。

2.わたしの宝となる――契約の目的

次に、5節、6節で言っておられることを聴きましょう。「今、もしわたしの声に聞き従い、わたしの契約を守るならば、あなたたちすべての民の間にあって、わたしの宝となる。世界はすべてわたしのものである。あなたたちは、わたしにとって、祭司の王国、聖なる国民となる」――ここには、これから結ぶ契約の目的が示されていると言ってよいと思います。ここで言われている契約の目的の第一は、この契約をイスラエルの民がちゃんと守れば、彼らを神様の宝の民にしたい、ということであります。「宝の民」と言っておられます。他の何物にも変えがたい大切な民にする、ということであります。神様の特別な恵みを受ける民にする、ということであります。ここで確認しておきたいと思いますが、神様は、<イスラエルの民がわたしの声に聞き従うならば、あなたがたと契約を結ぼう>と言っておられるのではありませんし、イスラエルの民が優秀だからとか、信仰深い民だから契約を結ぼう、と言っておられるのではなくて、神様は既に不信仰なイスラエルの民を選んで、ここまで導いて来られたのであって、そのような問題のある民だったけれど、これからも宝の民とし続けたいので、改めて契約をして、それをイスラエルの民が守ることによって、両者の関係を一層緊密なものとしたい、と考えておられるということであります。契約の中味については20章以下に詳しく書かれているのですが、それは一言で言えば十戒をはじめとする「律法」であります。神様は<律法を守ったら、恵みを与えてあげるよ>、と言っておられるのではなくて、<わたしがイスラエルの民を宝の民としたいので、律法に従って生きるようにしなさい>と言って下さっているのであります。ですから、この契約を結ぼうとされる神様の御心・目的は、あくまでも、神様がイスラエルの民を「宝の民」にしたいというところにあるということであります。
 
この契約の第二の目的は、第一の目的の延長上にあると言ってもよいと思いますが、イスラエルの民を「祭司の王国」「聖なる国民」にするということであります。「祭司」というのは、神様を王とする王国にあって、神様の祝福を人々につなぐ役割をする者のことであります。「聖なる国民」とありますが、「聖なる」というのは、もともとの意味は「分離された」という意味です。<清らかな>とか<道徳的に正しい>というのが本来の意味ではありません。つまり、この契約の最終的な目的は、神様の祝福を、まだ神様を知らない民にまで及ぼすという、神様の遠大な御計画を実現するために、神様の祝福を取次ぐ祭司の役割をさせようと、イスラエルの民を特別に分離する(取分ける)ということなのであります。かつてアブラハムが神様から召しを受けたとき、神様はアブラハムに「あなたは祝福の源となる」と言われ、「地上の氏族はすべてあなたによって祝福に入る」と約束され、「あなたを諸国民の父とする」という契約を結ばれました。(創世記122,3174)その役割がイスラエルの民に引き継がれるということであります。ですから、この神様の契約というのは、イスラエルの民だけに特別な恵みを与えて、他の民は不利益を受けるとか滅びるということではなくて、あくまでも、全ての民を救いに導くというのが、神様の目的であって、そのために、祝福を取次ぐ祭司の役割をイスラエルの民に引き受けてもらいたい、ということなのであります。
 
この役割は、後に、イエス・キリストを信じる者は救われるという新しい契約によって、新しいイスラエルの民である教会に引き継がれることになりました。この契約も、主イエスを信じて教会に加わる者だけが救われるということではなくて、先に救われた者たちによって世界中に福音が宣べ伝えられて、一人でも多くの人が救われることを目指すための契約であります。私たちは新しい契約の民に加えられることによって、そういう使命を与えられているということであります。

3.主が語られたことをすべて行います――契約の締結へ

さて、このように神様から契約の前提(根拠)と目的を聞かされたモーセが、7節、8節に書かれているように、民のところに戻って、それを一同に伝えたところ、イスラエルの民は一斉に、「わたしたちは、主が語られたことをすべて、行います」と答えたというのです。この時点では、この契約の内容は示されていなくて、次の20章以下で、十戒をはじめとする契約(律法)の中味が詳しく示されるのでありますが、その後、24章に至って契約締結の場面が記されていて、モーセが契約の中味を民に読み聞かせると、民は声を一つにして答えて、ここと同じように「わたしたちは、主が語られた言葉をすべて行います」と、言っていますから、ここではそれを先取りして書いたと受け留めておきたいと思います。いずれにしろ、イスラエルの民が、神様の御心をしっかりと受け留めて、神の民として歩むことに同意して、契約が成立することになったのであります。
 
しかしながら、イスラエルの民は、主が与えられた十戒をはじめとする律法を守ることが出来ませんでした。そして、主イエスの時代には、ユダヤ人たちは、形の上では律法を厳格に守っているつもりでしたが、神様が望んでおられたのとは遠く離れた状態になってしまったのであります。神様の王国の祭司として、諸国の民に神様の恵みを取次ぐ役割もせず、むしろ神様に選ばれた「聖なる国民」であるとの選民意識だけが高まるようなことになってしまいました。
 
そのために、御子イエス・キリストを送って、その十字架と復活の救いの御業を通して、新しいイスラエルの民(教会)を選んで、新しい契約によって、救いの業を世界中に広げようとされたのです。そのお陰で、私たちも招かれて、新しい契約を結ぶ者たちとされました。
 
ここで私たちは、イスラエルの人たちを批判していても、何の益もありません。シナイ契約はイスラエルの民との間で結ばれた契約ではありますが、そこには、すべての人間がこうあってほしいという神様の御心が示されていると言ってよいでしょう。一字一句が全て現代の私たちに適用出来るものではありませんが、少なくとも十戒に示されていることは、今も変わらない神様の御心と考えて間違いありません。そうであれば、私たち自身がその内容を守ることが出来るのか、守っているのかということを、検証してみる必要があるでしょう。今日は十戒の内容に立ち入ることは致しませんが、検証してすぐ分かることは、イスラエルの民と同様に、私たちも神様の御心に背いて、罪を犯していることが分かるのであります。ですから、イスラエルの民が言ったように、「わたしたちは、主が語られたことをすべて、行います」とは、とても言えないのです。だからこそ神様はイエス・キリストによる罪の赦しの御業を成して下さって、イエス・キリストを信じることによって救われるという新しい契約を用意して下さいました。この契約には、以前の契約と同様に、「祭司の王国、聖なる国民となる」という約束と使命が伴っています。つまり、新しい福音を一人でも多くの人に届けるという使命を果たすことが求められているということであります。私たちは、そのような新しい契約について、「わたしたちは、主が語られたことをすべて、行います」と言えるかどうかが問われるのであります。しかし、新しい契約が旧い契約と大きく違うのは、イエス・キリストの十字架と復活の保証付きだということです。私たちの努力だけで達成することが求められているわけではありません。私たちはイエス・キリストを信じて従う時に、私たちのようなものをも神様の御心に応え得るものにして下さるのです。ですから、私たちも、イスラエルの民が答えたのと同じように、「わたしたちは、主が語られたことをすべて、行います」と答えて、新しい契約を結ぶことが出来るのであります。この契約を結ぶことが、信仰を持ち、信仰告白をして、洗礼を受けるということであります。

4.濃い雲の中にあって――御言葉を聞いて信じる

ところで、このイスラエルの民の答えをモーセが神様に取り次ぎますと、神様はこう言われました。9節です。「見よ、わたしは濃い雲の中にあってあなたに臨む。わたしがあなたと語るのを民が聞いて、いつまでもあなたを信じるようになるためである。」――「濃い雲の中にあってあなたに臨む」と言われています。聖書の中で「雲」というのは神様の御臨在を表しますが、同時に神様のお姿を隠すものであります。神様は、「人はわたしを見て、なお生きていることはできない」(出エジプト3320)と言われました。人は神様のお姿を見ることは出来ませんし、神様について知り尽くすことも許されないのです。そのために、神様は濃い雲の中から御言葉をもって語りかけられるのであります。モーセとて、神様の御声を聞くことは出来ますが、神様のお姿を仰ぐことは出来ません。そして、9節の後半にあるように、「神様がモーセと語るのを民が聞いて、モーセを信じるようになる」と言われています。「あなたを信じる」というのは、モーセを神様のように信じるという意味ではなくて、モーセが伝えている言葉を神様の言葉として信じるという意味でしょう。民はあくまでも、モーセが伝える御言葉によって、神様を信じるのであって、神様のお姿を見て信じるのでも、神様のことを知り尽くして信じるのでもありません。
 
このことは、私たちと神様の関係にも言えることであります。私たちも、神様のお姿を見ることは許されませんし、神様のことを知り尽くした上で信じるのではなくて、ただ、御言葉を聞いて信じることによって救われるのであります。ただし、私たちがイスラエルの民より恵まれているのは、私たちは指導者であるモーセを通してだけ御言葉を聞くのではなくて、神の言(ことば)である主イエス・キリストの御業と御言葉をもって、神様の御心を知ることが出来るようにされているということであります。しかも、教会の礼拝において、聖書を通して、御言葉を聞くことが出来るようにされているのであります。

結.今は神の民――新しい契約のもとで

最後に、併読していただきましたペトロの手紙一29節以下の言葉を、もう一度聴きましょう。
 
しかし、あなたがたは、選ばれた民、王の系統を引く祭司、聖なる国民。神のものとなった民です。それは、あなたがたを暗闇の中から驚くべき光の中へと招き入れてくださった方の力ある業を、あなたがたが広く伝えるためなのです。あなたがたは、「かつては神の民ではなかったが、今は神の民であり、憐れみを受けなかったが、今は憐れみを受けている」のです。(Tペトロ29-10
 
「しかし、あなたがたは」と呼びかけられています。<主イエス・キリストのことを知らず、まだ神様を信じていない人たちと違って、あなたがたは>、と呼びかけられているのです。「あなたがたは選ばれた民、王の系統を引く祭司、聖なる国民」と言われています。これは出エジプト記の方でイスラエルの民に告げるように言われた、「わたしの宝となる。祭司の王国、聖なる国民」というのと同じことであります。つまり、イスラエルの民に言われたことが、今や、イエス・キリストを信じる新しい信仰の民である教会に当てはまる、ということであります。私たちもまた、「鷲の翼に乗せて」このところに導かれて、生きて働き給う神様の御言葉を聴くことの出来るようにされました。そして、あの罪の奴隷であった暗闇の中から、驚くべき光の中へと招き入れて下さったのであります。それは、<主イエス・キリストによって行われた力ある救いの業を、私たちが広く伝えるためである>、と言われています。新しいイスラエルの民として、宣教の使命を果たすべく、新しい契約へと召されているということであります。私たちは力ないものであり、不信仰に陥りがちなものでありますが、主イエス・キリストのお支えを信じて、イスラエルの民が答えたように、私たちも、「わたしたちば、主が語られたことをすべて、行います」と大胆に答えることが出来るのではないでしょうか。 祈りましょう。

祈  り

憐れみ深い父なる神様!
 
あなたの御憐れみのゆえに、あなたの宝の民に加えられ、罪からの救いの光の中へと招き入れて下さっただけでなく、驚くべきあなたの御業を広く伝える役目へと召して下さった光栄を感謝いたします。
 
どうか、その使命を果たせる信仰と力とを与え続けて下さい。
 
主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

米子伝道所主日礼拝説教<全原稿>       2011年9月25日  山本 清牧師 

 聖  書:出エジプト記19:1−9
 説教題:「主の契約」
          説教リストに戻る