イスラエルの人々が、「果たして、主は我々の間におられるのかどうか」と言って、モーセと争い、主を試したからである。
                                    (出エジピト記177 エジプトを脱出したイスラエルの民は、シンの荒れ野で食糧が不足すると、不平を述べ立てたが、神は毎日、夕暮れにはうずらの肉を、朝には天からのパン(マナ)を備えると約束された。次にレフィディムに宿営すると、またもや民は「飲み水を与えよ」と言って、モーセと争った。そこに宿営するのは「主の命令」(1)であり、そこには民を訓練しようとの主の御心があったのだが、民はモーセに食ってかかり、石で打ち殺そうとまでする。それに対してモーセは、「なぜ、わたしと争うのか。なぜ、主を試すのか」と言う。これは神からの問いかけでもある。神はエジプトから脱出するに先立ち、「わたしは必ずあなたと共にいる」(312)と約束されたが、民は標記のように主の御臨在を疑い、<飲み水を与えてくれたら、信じてやろう>と主を試みているのである。これは私たちの信仰の姿でもある。神は私たちの信仰を鍛えるために試練に遭わせられるのだが、私たちは主の御臨在と守りを疑って、主を試みてしまう。
 民の不信仰に対して、主はモーセが杖でホレブの岩を打つと、水が出て、民が飲むことが出来るようにされた。パウロは「この岩こそキリストだった」(Tコリント104)と言う。ホレブの岩が、主の御臨在のしるしとなったように、イエス・キリストは神が我々と共におられる(インマヌエル)ことのしるしである。主イエス御自身も「渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい」(ヨハネ737)と、自らが命の水の源である「ホレブの岩」であると言明された。
 ヘブライ人への手紙は、このレフィディムでの出来事をもとに、3つの勧めをする(ヘブライ37-15)。第1は、信仰のない悪い心を抱いて、生ける神から離れないこと、第2は、罪に惑わされてかたくなにならず、励まし合うべきこと、そして第3は、最初の確信(神が共にいて下さり、必ずカナンの地=神の国に入れて下さるとの約束を確信すること)を持ち続けることである。さもないと、「安息にあずからせはしない」(ヘブライ311)という結末になってしまう。

米子伝道所主日礼拝説教<要 旨> 2011年9月18日  山本 清牧師 

 聖  書:出エジプト記17:1−7
 説教題:「主を試すのか」
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