序.なぜ、主を試すのか

イスラエルの民の出エジプトの記事の大切な場面をピックアップして学んでおりますが、そのイスラエルの民の荒れ野の旅を通して、私たちの人生の旅、ことに信仰の旅について考えて参りました。先週は、シンの荒れ野で食べ物が不足する中で、イスラエルの民が不平を述べ立てたのに対して、神様はうずらの肉と天からのパンを毎日与えることによって、40年間の旅の間中、飢えることがないようにして下さったことを聞きました。
 
今日の171節から7節の箇所は、レフィディムという所で、今度は飲み水がなかって、喉が渇いたために、またもやモーセに不平を述べた場面であります。2節にあるように、民がモーセと争って、「我々に飲み水を与えよ」と言いますと、モーセは、「なぜ、わたしと争うのか。なぜ、主を試すのか」と言いました。このモーセの問いかけは、神様からの問いかけでもあります。イスラエルの民は、モーセに向かって不平を述べ立てることによって、神様に対する不平不満をぶちまけているのであります。しかし、この不平不満は、イスラエルの民だけのものではありません。イスラエルの民の荒れ野の旅と同じ旅を現代の私たちがするわけではありませんし、飲み水に困るようなことは、この度の東日本大震災や紀州の大雨による断水のような場合にしか経験しませんが、私たちの人生の旅の中で遭遇する様々な苦難の中で、私たちも不平不満を抱くことがしばしばあります。それは、家族に向けられたり、職場の上司や学校の先生に向けられたり、政治家に向けられたりするわけですが、それらは、結局は、神様に向けられているのであります。ですから、2節にあるモーセの問いかけは、今日(こんにち)の私たちに対する神様の問いかけでもあります。この問いかけの意味については、後ほど学びたいと思いますが、この問いかけを通して、私たちの信仰の実状、私たちの罪の実態が明らかにされます。それと共に、この出エジプト記を通して知らされることは、そのようにしばしば不平不満を口にしてしまうイスラエルの民に対して、神様がどのように関わって来られたのか、ということであります。イスラエルの民の荒れ野の旅は40年間でありますが、神様の救いの御業は、世界の創造の直後から、キリストの再臨の時まで続いて行くわけで、その救いの歴史の背後にある神様の御心は一貫しています。その御心を、今日の箇所の出来事の中からも垣間見ることが許されるのであります。そういうわけで、今日は、イスラエルの民が飲み水を求めた出来事を通して、私たちの罪深い信仰の実態と神様の変わらぬ救いの御心を知らされたいと思うのであります。

1.主の約束と命令の旅

まず、17章の冒頭に、主の命令により、イスラエルの人々の共同体全体は、シンの荒れ野を出発し、旅程に従って進み、レフィディムに宿営した、と書かれています。ここには、シンの荒れ野から出発して、レフィディムに宿営するまでの旅程が、「主の命令」によるものであったことが書かれています。具体的には132122節に書かれていましたように、主が、昼は雲の柱、夜は火の柱が民の先頭に立って導かれたということであります。このことは何を示すかと言えば、今、飲み水がないと言って不平を言っておりますが、そこに連れて来られたのは「主の命令」によることであり、神様の御心だということであります。そもそもエジプトを出て、カナンに行くには、海沿いの道を行くのが最短距離なのですが、わざわざずっと遠回りの、しかも荒れ野を通る道を行くように命じられたのであります。それは、つい不平不満が出てしまうような厳しい環境の中での旅であった筈ですが、その旅を通して、神様はイスラエルの民を訓練されたのであります。しかし、思い起こさなければならないことは、神様は、ただイスラエルの民を厳しい環境の中に放り出されただけではないということであります。遡って、モーセが出エジプトの指導者として召された際のことが書かれていた312節を見ますと、神様はモーセに、「わたしは必ずあなたと共にいる」と約束されていましたし、いよいよエジプトの国を出発する時の夜も、神様が「寝ずの番」をされたことが書かれていましたし、葦の海の手前の袋小路に導かれた時には、モーセを通して「主が戦われる」と告げられて、神様の力が働くしるしである杖がモーセに与えられて、その杖を海に向かって高く上げると、海が割れ、その中の乾いた地を進むことが出来ましたし、そのイスラエルの民を追ってきたエジプト軍との間に割って入ったのは、神の御使いと共に移動した雲の柱でありました。このように、全ての苦境の場面で、神様の約束の通り、主がイスラエルの民と共にいて下さったのであり、苦難の出来事を含めて、すべてが主の命令どおり、御心が行われたのであります。

2.繰り返す不平

さて、主の命令によってレフィディムに宿営したイスラエルの民ですが、そこには民の飲み水がありませんでした。すると、民はモーセと争い、「我々に飲み水を与えよ」と言います。「争い」と書かれています。単に要求しただけではなくて、指導者のモーセに食って掛かっているのであります。多分、<何でこんな所に連れて来たのか、肝心の飲み水がないではないか、責任をとって、何とかしろ>と言っていたのではないでしょうか。これに対してモーセは、冒頭にも見ましたように、「なぜ、わたしと争うのか。なぜ、主を試すのか」と言います。モーセは自分の判断で民をレフィディムに誘導したのではありません。主の命令に従って導いたのです。ですから、モーセに文句を言うことは主の導きに対して文句を言うことになります。だから、それは、「主を試す」ことになる、とモーセは言っているわけです。「試す」というのは、テストをする、確かめるということです。何を確かめるかというと、7節を見ると、その意味が分かります。彼は、その場所をマサ(試し)と、メリバ(争い)と名付けた。イスラエルの人々が、「果たして、主は我々の間におられるのかどうか」と言って、モーセと争い、主を試したからである、と書かれています。イスラエルの人々が疑ったのは、「主は我々の間におられるかどうか」ということでありました。これは、先ほど申しましたように、312節で、神様がモーセに「わたしは必ずあなたと共にいる」と約束されたことを疑うということであります。その後の出エジプトの際の出来事においても、「主がイスラエルの民と共におられる」ということが示されたのでありますが、今、飲み水がないことで、神様が共におられるという約束を疑っているのです。ただ疑うだけでなくて、<飲み水を与えてくれたら、信じてやろう>という思いが読み取れます。それが、「主を試す」という彼らの実態であります。
 
3節には更に、こう書かれています。しかし、民は喉が渇いてしかたないので、モーセに向かって不平を述べた。「なぜ、我々をエジプトから導き上ったのか、わたしも子供たちも、家畜までも渇きで殺すためなのか。」これは、先週の箇所で、シンの荒れ野で食糧不足になった時に、「我々はエジプトの国で、主の手にかかって死んだ方がましだった。あのときは肉のたくさん入った鍋の前に座り、パンを腹いっぱい食べられたのに。あなたたちは我々をこの荒れ野に連れ出し、この全会衆を飢え死にさせようとしている」(163節)と不平を述べ立てたのと同じような言い方であります。エジプトで奴隷状態にあった中から救い出そうとしておられる神様の恵みを思わずに、「飢え死にさせようとしている」とか「渇きで殺すためなのか」と言って、神様のなさることを、逆恨みしてしまっているのです。4節を見ますと、モーセは主に、「わたしはこの民をどうすればよいのですか。彼らは今にも、わたしを石で打ち殺そうとしています」叫んでいます。人々は自分たちの苦境をモーセの責任にして、モーセの命をさえ奪おうとするのであります。このことは、あの主イエスの十字架の状況を思い起こさせます。ユダヤ人たちは、世の中が自分たちの思い通りに行かないこと、自分たちの期待に応えられないことを、主イエスのせいにして、とうとう十字架に架けて殺してしまったのであります。
 
こうしたイスラエルの姿から思い至らなければならないのが、私たちの姿であります。神様は私たちをも罪の奴隷状態から救い出そうとしておられます。その際に、私たちを訓練する目的で、試練に遭わせられることがあります。しかし、私たちはその神様の御心を忘れて、目前に苦しみが迫ると、心の中で、「神様は本当に私たちと共におられるのだろうか」と疑い始め、「なぜこんな苦しい目に遭わなければならないのか」という不平不満が頭をもたげて来ます。挙句の果ては、「私の人生を台無しにするのか」と、自分の不信仰を棚に上げて、神様に責任があるかのような態度をとるのであります。――皆様方はどうでしょうか。自分はそこまで行っていなくて、神様の恵みをそれなりに感謝しているし、神様の導きを信じていると思っておられるかもしれません。多少の困難なことがあっても、これまでにも乗り越えて来たし、今後も乗り越えられる、と思っておられるかもしれません。そうであれば結構です。しかし、人間は皆、弱いのです。人間の力ではどうにもならないことに遭遇するかもしれません。自分は精神的・信仰的にタフだと思っていても、それが崩される時があるかもしれません。そうなると、私たちの中の醜いものが現れて来てしまいます。また、自分で何とか乗り越えられると思っているところには、実は神様が不在であります。せっかく困難を乗り越えたかに見えても、<神様なんかに頼る必要はない>、ということになって、信仰から離れて行ってしまうかもありません。いずれにしても、それは主イエスを十字架に架けることと同じであります。そうなれば、神様が備えて下さる救いからは外れてしまうことになります。ここで「主を試す」と言われていることは、誰でもが犯してしまうことであって、主イエスを十字架に追いやることにつながる罪であります。

3.岩を打て

さて、主を試し、モーセを殺そうとまでするイスラエルの民に対して神様が対応されたことは、5節に書かれています。主はモーセに言われた。「イスラエルの長老数名を伴い、民の前を進め。また、ナイル川を打った杖を持って行くがよい。見よ、わたしはホレブの岩の上であなたの前に立つ。あなたはその岩を打て。そこから水が出て、民は飲むことができる。」――ホレブというのは、ミディアンで羊飼いをしていたモーセが最初に神様と出会って召しを受けた場所です。今、そこまで来たわけではありませんが、ここで「ホレブの岩」と言われているのは、神様御自身が現れる場所という意味で用いられていると考えられます。いずれにしても、モーセが以前、ナイル川を打って、水が血に変わってエジプト人を困らせたことのある、あの杖を持って行って、それで岩を打つと水が湧き出ると仰るのであります。この杖は神様がイスラエルのために力を振るわれたことを象徴するものであります。その神の力が今ここで働いて、イスラエルの民の命を支える水を備えて下さるということです。
 
マラというところで水が苦くて飲めなかった時には、主がモーセに一本の木を示されたので、それを水に投げ込むと、水が甘くなりました。また、先週の箇所では、荒れ野で食糧がなくなった時に、天からのパンであるマナを与えて下さるという恵みを受けることになりました。それらの奇跡と今回の奇跡は似ていますが、今回特に注目したいことは、7節にありますように、イスラエルの人々が、「果たして、主は我々の間におられるのかどうか」と言って主を試したことに対して行われた奇跡であるということです。つまり、ホレブの岩を杖で打つと水がほとばしり出たという奇跡は、主なる神様が、イスラエルの民の間におられる、イスラエルの民と共にいて導いておられる、ということのしるしとして行われた、という象徴的な意味を持っていることであります。
 
パウロはこの出来事をもとに、コリントの信徒への手紙一10章(p新311)でこんなことを言っております。兄弟たち、次のことはぜひ知っておいてほしい。わたしたちの先祖は皆、雲の下におり、皆、海を通り抜け、皆、雲の中、海の中で、モーセに属するものとなる洗礼を授けられ、皆、同じ霊的な食物を食べ、皆が同じ霊的な飲み物を飲みました。彼らが飲んだのは、自分たちに離れずについて来た霊的な岩からでしたが、この岩こそキリストだったのです(Tコリント1014)。少し飛躍した見方のように思われるかもしれませんが、イエス・キリストに先立って、天使がヨセフに現れてこう言いました。「見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。」この「インマヌエル」という名の意味は、「神は我々と共におられる」ということでありました。つまり、イエス・キリストというお方の存在は、「神が我々と共におられる」ということのしるしであります。このホレブの岩も、「神様が我々の間におられる」ことのしるしですから、パウロの言うことも、決して突飛なことではありません。しかも、主イエス御自身が仮庵祭の最後に行われる雨乞いの儀式が行われていた時に、大声でこういわれたことを、ヨハネ福音書は書き記しております。「渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる」(ヨハネ73738)。主イエス御自身が、御自分の中から「生きた水が川となって流れ出る」と仰っているのですから、正に主イエス・キリストこそ「ホレブの岩」、つまり、命の水の源であられるのであります。キリストは、神様が我々と共におられるということのしるしですし、実際、キリストによってこそ、私たちの霊的な渇きが癒され、命が生かされるのであります。ホレブの岩の場所は、イスラエルの民の不信仰を覚える場所として「マサ」(試し)と「メリバ」(争い)と名付けられたのですが、神様はそこを、神が共にいて下さることを示す場所に変えて下さったのです。
 
それはちょうど、あの十字架の立てられたゴルゴダの丘が、人々の罪を集約的に表す場所でありながら、神様が罪人と共にいて下さることを表す、救いの場所となったことに通じているように思います。

結.今日、神の声を聞くなら

最後に、先ほど朗読していただいた新約聖書のヘブライ人への手紙37節以下をもう一度お開き下さい。ここは、この手紙の筆者が、出エジプトの出来事を思い起こさせながら、厳しく警告を発している箇所であります。7節から11節は詩編95編からの引用ですが、その初めで、こう警告しています。「今日、あなたたちが神の声を聞くなら、荒れ野で試練を受けたころ、神に反抗したときのように、心をかたくなにしてはならない。」これと同じ言葉が15節にも繰り返されていますから、この言葉は筆者が力を込めて言おうとしていることであると分かります。「今日」と言っております。「今日」とは、詩編が歌われた紀元前の時代の「今日」であり、ヘブライ人への手紙が書かれた1世紀末の「今日」であると共に、今この言葉を聞いている私たちにとっての「今日」であります。私たちは今日、荒れ野の旅の一コマを通して、神の声を聞いたのであります。そこから聴き取るべき神様の警告は、イスラエルの民が「荒れ野で試練を受けたころ、神に反抗したときのように、心をかたくなにしてはならない」ということであります。イスラエルの民は、荒れ野での厳しい状況の中で、神様の約束を忘れて何度も反抗してしまいました。その結果、彼らはどうなったのでしょうか。今日の出エジプト記にはまだ触れられていませんが、39節から11節を見ますと、「荒れ野であなたたちの先祖はわたしを試み、験(ため)し、四十年の間わたしの業を見た。だから、わたしは、その時代の者たちに対して憤ってこう言った。『彼らはいつも心が迷っており、わたしの道を認めなかった。』そのため、わたしは怒って誓った。『彼らを決してわたしの安息にあずからせはしない』と。」―イスラエルの民は、神様を疑い、不平を述べるたびに、神様は恵みの業をもってお応えになりました。それなのに、彼らは神様の示される道を認めなかったのであります。その結果どうなったか。当初にエジプトを出たイスラエルの民は、モーセも含めて一人もカナンの地に踏み入れることは出来なかったのであります。それが、ここで「安息にあずからせはしない」と言われていることであります。そのような厳しい結末が待っていたのであります。だから、ということで、ヘブライ人への手紙の筆者は12節以下で、もう一度警告を繰り返すのであります。三つの勧めが語られています。第一は12節で、「兄弟たち、あなたがたのうちに、信仰のない悪い心を抱いて、生ける神から離れてしまう者がないように注意しなさい」であります。神様は今も生きて働いておられるお方であります。それなのに、信仰から離れてしまわないようにということであります。第二は13節で、「あなたがたのうちだれ一人、罪に惑わされてかたくなにならないように、今日という日のうちに、日々励まし合いなさい」であります。私たちのうちの誰一人として神様が備えて下さっている安息から漏れないために、励まし合いが必要だということです。教会という所は、神様の約束を聞いて永遠の安息に入るために、励まし合う所であります。そして、第三は14節ですが、これは勧告というよりも約束で、「わたしたちは、最初の確信を最後までしっかりと持ち続けるなら、キリストに連なる者となるのです」であります。「最初の確信」とは、イスラエルの民にとっては、カナンに着くまで、神様が共にいて下さるという確信のことでしょうが、私たちにとっては、キリストの救いの御業によって神に国に導きいれて下さるという確信のことです。「確信」とは、決して強い信念のようなものではありません。キリストの御業を知ることによって自然に芽生える神様への信頼であります。その信頼が、私たちをキリストに連なる者であり続けさせるのであります。
 
感謝して、祈りましょう。

祈  り

愛する父なる神様!
 今日という日に、イスラエルの民の姿を通して、私たちの罪深い真の姿をお示し下さり、そのような私たちをも、なお安息の地へと導こうと、岩であるキリストから命の御言葉の水をいただくことが出来ることを知らされて、感謝いたします。
 
どうか、ここに集められた者が一人残らず、キリストによる救いの確信を持つことを許され、終わりの時までそれを持ち続けることが出来ますように、お導き下さい。どうか、苦難や困難が私たちの信仰の道を塞ごうと致しましても、あなたが絶えず御言葉をもって、励まし、助けて下さい。
 
主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

米子伝道所主日礼拝説教<全原稿>       2011年9月18日  山本 清牧師 

 聖  書:出エジプト記17:1−7
 説教題:「主を試すのか」
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