序.命の糧はどのようにして?

先週聴きました出エジプト記14章では、エジプトを出たイスラエルの民が、葦の海(紅海)を前にして、後からはエジプトの大軍が迫って来るという袋小路に追い込まれる中で、神様によって海が分けられて、無事、荒れ野に向けて脱出出来て、一方、エジプト軍は水に呑み込まれてしまうという、イスラエルの民にとって忘れることの出来ない恵みの出来事が書かれていました。
 こうして、荒れ野の旅を始めるのですが、15章の終わりに書いてあるように、最初に着いたマラという所の水は苦くて飲むことが出来ませんでした。イスラエルの民は、三日前に経験した神様の恵みを忘れて、不平を言い始めます。そこでモーセが神様に向かって祈りますと、一本の木が示されて、それを水に投げ込むと、水は甘くなって、飲めるようになりました。
 
そこから進んで、今度はエリムという所に着きました。そこは泉が12もあるオアシスでした。そこにしばらく滞在しますが、いつまでもじっと留まっているわけには行きません。エジプトを出て約2ヶ月目に、シンの荒れ野にやって来ました。今度は食べ物がなくなりました。荒れ野で大量の人間の食料を確保することは至難の業であります。イスラエルの人々は、またしても不平を言い始めます。
 
今日の16章は、そのような状況の中で、神様がどのように対処して下さったかが書かれています。神様が必要な食べ物を用意して下さるのであります。このことから、私たちが生きて行くのに必要な糧の確保ということについて、どのように考えればよいのかということを教えられます。しかし、ここで教えられることは、単に、肉体の命を支えるのに必要な糧のことだけではありません。人が生きるためには、心の支えが必要であります。生き甲斐とか生きる喜びが失われては、たとえ肉体が生きていても、「生ける屍」に過ぎなくなってしまいます。では、神様は「心の糧」をどのようにして私たちに与えて下さるのか。今日は、イスラエルの民が荒れ野で天からのパンであるマナを与えられた物語を通して、私たちが、単に肉体的に生きるだけでなくて、喜びをもって、生き甲斐に満たされて生きるために欠かすことの出来ない「心の糧」「魂の糧」についても、神様はどのようにして与えて下さるのか、ということを考えてみたいと思います。

1.荒れ野の旅における不平

ところで、イスラエルの民の荒れ野の旅は、人生の縮図であります。特に、信仰を持って生きる人々の姿がそこに表されていると言えます。イスラエルの民は、神様の約束を受けていました。単に将来の約束を与えられていただけでなく、エジプトを出発する際の出来事の中で、神様の大きな力と守りを体験することが出来ました。にもかかわらず、今また、シンの荒れ野に入って、食べ物が不足して来ると、モーセとアロンに向かって不平を述べ立てます。3節を見ると、こう言っております。「我々はエジプトの国で、主の手にかかって、死んだ方がましだった。あのときは肉のたくさん入った鍋の前に座り、パンを腹いっぱい食べられたのに。あなたたちは我々をこの荒れ野に連れ出し、この全会衆を飢え死にさせようとしている。」先週の14章でも、袋小路に追い込まれた時に、よく似たことを言っておりました。エジプトでの奴隷としての生活の方がましだった、と言うのであります。奴隷の身分で、本当にいつも「肉のたくさん入った鍋」を腹いっぱい食べられたのかどうかは疑問ですが、今、腹がペコペコになる中で、エジプトで、たまにあった良い思い出が甦って来ただけかもしれません。自由を奪われ、何事も自分の意思では出来ない奴隷の惨めさを忘れてしまっているのであります。
 
このようなイスラエルの人々の姿は、私たち自身の姿と重ね合わせることが出来るのではないでしょうか。キリスト者というのはキリストとの出会いによって、罪の奴隷から解放された者たちであります。神様以外のものに支配され、この世的な考え方や習慣に流された生き方から「出エジプト」した筈であります。しかし、罪から解放された生活に苦難が伴わないわけではありません。病気や災害に遭遇することがあります。職場や学校や家庭でトラブルが起こることがあります。経済的に苦しい生活を強いられる時があるかもしれません。その上にキリスト者であるが故の苦難が伴う場合があるかもしれません。そうした中で私たちは、罪の奴隷から解放されたという恵みを忘れて、目の前の苦しみや困難に心を奪われて、神様に対して不平を言ってしまうことがあります。神様がおられることを忘れて、祈ることも、御言葉に耳を傾けることもしなくなったり、挙句は神様の存在を疑ってしまったり、神様を知らなかった時の生活に戻ってしまったりすることがあります。イスラエルの人々が、奴隷であった時の、自由のない生活の苦しみを忘れて、肉鍋で腹を満たした思い出に惑わされたように、私たちも、罪を赦された恵みを忘れて、この世の楽しみや慰めに心を奪われてしまうことがあります。神様のお力や恵みが見えなくなる時があります。
 
では、荒れ野の旅で飢えて、エジプトの肉鍋を思い出して不平を言うイスラエルの民に、神様はどのように対応されたのでしょうか。

2.天からのパン(マナ)

イスラエルの民の不平に対する神様の対応は4節から16節までの間に、長々と書かれていて、そこには繰り返しも見られるので、文献が錯綜しているのではないかとも考えられる箇所ですが、ここに書かれていることの要点は、三つあると思います。一つは、民の不平を聞かれた神様が、天からのパンとうずらの肉を与えることを約束されたということであります。この「パン」と言われているものは、31節を見ると、コエンドロの種に似て白く、蜜の入ったウェファースのような味がしたとありまして、ギョウリュウという植物の樹液、あるいは、ギョウリュウにつく昆虫の分泌物ではないかと言われています。その量は16節によると、一人当たり1オメルで、これは巻末の度量衡表によると、約2.3リットルで、一日分の主食としては十分であったと考えられます。それが、壮年男子だけで60万人いた(1237)と言われる人々に必要な分だけ毎朝、40年間も与えられたというのですから、奇跡というほかありません。この食べ物のことを、30節によれば、それをマナと名付けた、とあります。その名は、15節のところで、イスラエルの人々はそれを見て、これは一体何だろうと、口々に言った、とありますが、その「これは一体何だろう」という言葉がヘブル語で「マン・フー」であることに由来するとされています。そんな説明には大した意味はないのですが、ここで大切なことは、飢えて不平を言っていたイスラエルの民に対して、神様が40年にわたる荒れ野の旅の間、与え続けられた、ということであります。35節を見ると、イスラエルの人々は、人の住んでいる土地に着くまで四十年にわたってこのマナを食べた。すなわち、カナンの境に到着するまで彼らはマナを食べた、とあります。神様はイスラエルの民を乳と蜜の流れるカナンの地へ導くと約束されましたが、その約束を実現するために、神様は厳しい荒れ野の環境の中でも、イスラエルの民を養い続けられた、ということであります。
 
神様は私たちに、罪の奴隷からの救いと、神の国に入ることを約束されて、私たちを「出エジプト」させて下さいます。しかし、それは決して平穏な、何の心配もないような人生の旅ではなくて、荒れ野の旅であります。苦難があり、将来に対する不安が伴います。神様に不平を言いたくなることがあります。しかし、イスラエルの民の荒れ野の旅で、日々必要なマナが備えられたように、神様は私たちの荒れ野の旅でも、生きるに必要なものは、日々ちゃんと備えて下さるということであります。このことが、天からのパンで教えられる第一のことであります。

3.日毎のパン

16章で教えられる第二の点は、このマナは毎日、必要な分だけしか与えられなかったということであります。4節で主はモーセにこう言われています。「見よ、わたしはあなたたちのために、天からのパンを降らせる。民は出て行って、毎日必要な分だけ集める。わたしは、彼らがわたしの指示どおりにするかどうかを試す。」ここに「試す」と言われています。神様の指示どおり、必要な分だけ集めているかどうかが試されます。16節には、「あなたたちはそれぞれ必要な分、つまり一人当たり一オメルを集めよ。それぞれ自分の天幕にいる家族の数に応じて取るがよい」と言われています。更に、19節では、モーセが彼らに、「だれもそれを、翌朝まで残しておいてはならない」と言ったが、彼らはモーセに聞き従わず、何人かはその一部を翌朝まで残しておいた。虫が付いて臭くなったので、モーセは彼らに向かって怒った。そこで、彼らは朝ごとにそれぞれ必要な分を集めた。日が高くなると、それは解けてしまった、と書かれていて、翌朝まで残すことも禁じられています。つまり、神様の指示通りにすることが求められていて、決められた分より余分に集めてはいけないし、翌日のために保管することも許されないのであります。これは、神様の命令に従うかどうかが試されているということであると同時に、神様の約束の言葉に対して信頼をもっているかどうかを試すということであります。しかしそれは、テストをして、不合格であれば切り捨てるということではありません。神様の言葉に信頼して従っているならば、必要なものが備えられて、神様への信頼を一層深めることが出来るようになるということであります。「試す」ということは、試練を通して信仰を鍛えるということに他なりません
 申命記82節以下(p294)には、こう書かれています。「あなたの神、主が導かれたこの四十年の荒れ野の旅を思い起こしなさい。こうして主はあなたを苦しめて試し、あなたの心にあること、すなわち御自分の戒めを守るかどうかを知ろうとされた。主はあなたを苦しめ、飢えさせ、あなたも先祖も味わったことのないマナを食べさせられた。人はパンだけで生きるのではなく、人は主の口から出るすべての言葉によって生きることをあなたに知らせるためであった。」(申823)荒れ野の旅では、自分で田畑を作って食べ物を収穫することが出来ません。ただ、日々神様によって備えられるマナによってのみ、命を保つことが出来ます。そのために人間に出来ることは、神様の約束の言葉を信じて、それに従うだけであります。神様の言葉に聞き従うことによってのみ、命を支えられるのであります。イスラエルの民は、そのことをマナが日々与えられることによって学ばされたのであります。
 
私たちは主イエスが教えて下さった「主の祈り」の中で、「我らの日用の糧を今日も与えたまえ」と祈っています。「日用の」ということは、「日毎の」「日々の」という意味です。明日のことまで祈る必要はないのです。否むしろ、明日のこと、先のことまで祈ってはならないと教えられているとまで言ってよいと思います。私たちは、先のことまで保証して欲しいのであります。自分でも、先の見通しをつけようと努力します。しかし、そこには、神様に対する不信が潜んでいます。先のことを何も考えずに、その日暮らしをすることが良いというわけではありません。大切なことは、自分で安心することではなくて、神様に委ねることによって安心することです。主イエスが「我らの日用の糧を今日も与えたまえ」と祈るように教えられたということは、<今日必要とするものは、祈ったら必ず備えられるよ>ということであると同時に、<明日のことも、思い煩う必要がないのだよ>ということでもあります。そして、この「主の祈り」を毎日祈り続けることによって、平安な日々が続くのであります。
 日毎に天から与えられるパンの出来事で教えられる第二のことは、日毎に養って下さる神様の恵み、日毎に御言葉というマナによって生かされる恵みと御言葉に対する信頼の大切さであります。

4.安息日のパン

16章には、更にもう一つ教えられる大切なことがあります。それは、5節で、「ただし、六日目に家に持ち帰ったものを整えれば、毎日集める分の二倍になっている」と言われ、22節でも、六日目になると、彼らは二倍の量、一人当たり二オメルのパンを集めた、と言われていて、23節で「これは、主が仰せられたことである。明日は休息の日、主の聖なる安息日である。焼くものは焼き、煮るのものは煮て、余った分は明日の朝まで蓄えておきなさい」と命じられ、その通りにすると、朝まで残しておいたが、臭くならず、虫も付かなかった、のであります。そして、七日目の安息日には、野には何も見つからないのですが、六日目に集めたもので、飢えることはなかったのであります。それは何のためかと言えば、もちろん、安息日に礼拝をするためであります。そして神様の御言葉の養いを受けるためであります。「人はパンだけで生きるのではなく、主の言葉によって生きる」ということを、実際に礼拝において体験出来るためであります。
 
イスラエルの民は、エジプトで奴隷として働かされている間は、安息日に仕事休み、礼拝することも思うようには出来なかったかもしれません。しかし、エジプトを出て、荒れ野の旅をする中では、厳しい自然環境の中ではあっても、食べ物のことなど心配することなく、安息日を確実に守って、神様を礼拝できるようにさせて下さったのであります。
 
このことは、神様は今も、基本的には、私たちが安息日にも働かなくては生きて行けないようにはなさらない、ということであります。神様は十戒の中で、「安息日を覚えて、これを聖とせと」(新共同訳では「安息日を心に留め、これを聖別せよ」=出エジプト208)と命じられました。神様はこう命じられるだけではなくて、安息日まで働かなくても生きて行けるようにして下さいます。もちろん、どうしても安息日に仕事をしなければならなくなることがあります。日曜日に休める仕事だけを探したのでは、仕事に容易にありつけないという厳しい現実があるかもしれません。しかし、神様は、安息日に仕事を休んで礼拝したからといって、飢え死にさせるようなことは、決してなさらないということであります。むしろ、安息日に礼拝しないならば、パンのみでは生きられない私たちの命が養われず、約束の地カナンに入ることが出来なくなるということであります。以上のことが、今日の箇所で教えられる三つ目の大切なことであります。

結.「わたしが命のパンである」

ところで、今日の新約聖書の朗読では、ヨハネによる福音書622節以下を読んでいただきました。ここは、主イエスが五千人の人にパンを与えられた奇跡が行われたすぐ翌日の出来事が書かれている箇所であります。人々はこの奇跡を見聞きして、主イエスに大きな期待を寄せました。この方こそ、自分たちの望みを叶えて下さる指導者ではないかと期待したのであります。主イエスの行方を追ってやって来た群衆が、主イエスを見つけて、「ラビ、いつ、ここにおいでになったのですか」と言うと、2627節で主イエスはこう答えておられます。「はっきり言っておく。あなたがたがわたしを捜しているのは、しるしを見たからではなく、パンを食べて満腹したからだ。朽ちる食べ物のためではなく、いつまでもなくならないで、永遠の命に至る食べ物のために働きなさい。これこそ、人の子があなたがたに与える食べ物である。」――人々は朽ちる食べ物を提供してくれること、即ち地上に幸せを運んで下さる主イエスに期待しました。しかし、主イエスは永遠の命に至る食べ物を求めなさいと言われ、それを与えられるためには、主イエスを信じるようにと勧められたのであります。けれども人々は、30節にあるように、「それでは、わたしたちが見てあなたを信じることができるように、どんなしるしを行ってくださいますか」と迫って、31節では「わたしたちの先祖は、荒れ野でマンナを食べました」と言って、あの時モーセがしたように、あなたは私たちにパンを与えることが出来るのかと迫ります。彼らは主イエスが新しいモーセになってくれるように求めるのであります。しかし、32節で主イエスは、「はっきり言っておく。モーセが天からのパンをあなたがたに与えたのではなく、わたしの父が天からのまことのパンをお与えになる」と仰います。そして、35節で遂に、「わたしが命のパンである。わたしのもとに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者は決して渇くことがない」と言明されました。主イエス御自身が永遠の命のパンなのであります。
 
冒頭に申し上げましたように、今日はイスラエルの民が天からのパンを与えられた物語を通して、私たちの生き甲斐につながる「心の糧」、私たちの「永遠の命の糧」がどのようにして与えられるのかを聴き取りたいと考えました。イスラエルの民に与えられたパンは天から与えられました。私たちのために与えられる「永遠の命の糧」も、天から与えられるのであります。その「永遠の命の糧」とは、他でもない主イエス・キリスト御自身なのであります。主イエスは御自身が私たちの命の糧となられるために、十字架の上で、御自身の体を捧げて下さいました。こうして、私たちが主イエス・キリストの肉を食べることによって、罪の奴隷から解放されて、本当の出エジプトが実現するのであります。
 
あの「天からのパン」がイスラエルの人々の努力によって与えられたのではないように、私たちがいただく「永遠の命の糧」も私たちの努力によって与えられるのではなくて、天から与えられます。そして、「天からのパン」が毎日与えられて、貯蔵することが出来なかったように、「永遠の命の糧」も蓄えることが出来ません。主の日ごとに、御言葉によって補充されるのでなければ、私たちの命の糧にはなりません。その継続の中で、私たちは約束のカナンの地、神の国に入り、永遠の命に生きることが許されるのであります。
 
祈りましょう。

祈  り

私たちを約束の地に導き給う父なる神様!
 
イスラエルの民に、日毎のパンをお与えになって荒れ野の旅を続けさせられましたように、今日も、命の糧である御子イエス・キリストをお与え下さって、私たちの命を養って下さいましたことを感謝いたします。
 どうか、困難な地上の歩みの中でも、いつもあなたの命の糧の養いが備えられることを信じて、私たちの荒れ野の旅を続けさせて下さい。どうか、カナンへの道から逸れることがないように、お導き下さい。
 
主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

米子伝道所主日礼拝説教<全原稿>       2011年9月11日  山本 清牧師 

 聖  書:出エジプト記16:1−16
 説教題:「天からのパン」
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